龍のコンサート三昧 2006

2006年にベルリン・ザルツブルグ・ウィーンへコンサートを聴くための旅をしました。
その旅行記を、自立化支援ネットワークのメルマガIDNの編集後記に連載しました。
編集後記の内容をここに転載し、写真などを追加しています。
  2006年6月15日に開始し、同年12月15日に終了しました。



第 1回   ベルリンとウィーンへ  第101号 060615
第 2回  ベルリンフィルを聴く  第102号 060701
第 3回  ベルリンフィルの本拠「フィルハーモニー」  第103号 060715
第 4回  ザルツブルグでモーツアルトの室内楽をきく  第104号 060801
第 5回  ベルヒテスガーデンで遊び、国際特急でウィーンへ  第105号 060815
第 6回  ムジークフェラインでポリーニを聴く  第106号 060901
第 7回  難聴になったベートーベンの苦悩 ハイリゲンシュタットの遺書
 遺書の全文
 第107号 060915
第 8回  ムジークフェラインザールでウィーンフィルを聞く  第110号 061101
第 9回  モーツァルトハウス(旧 フィガロハウス)  第111号 061115
第10回  「リヒャルト・ワーグナー広場」駅で龍を見つけた  第112号 061201
第11回  ベルリンとウィーンのコンサートホールとオペラハウス  第113号 061215
龍のコンサート三昧
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■龍のコンサート三昧2006−【1】ベルリンとウイーンへ

 海外で最初にコンサートに行ったのは、1973年6月のこと。ロンドンのロイヤルフェスティバルホールで、ロイヤルフィルハーモニー管弦楽団を聴いた。以来1989年までの25年間に8回欧米に出張で出かけ、18回のコンサートに行った。リタイヤーした後、仕事でストックホルム行ったときに、王立オペラ劇場で「ラ・ボエーム」を見た事により、もう1回が追加された。
 
 昼間に視察や訪問などの仕事をし、皆が食事やお酒を楽しむ夜のフリーな時間に海外でのコンサートへ出かけることになる。まだインターネットもない時代には、その街でのコンサートの予定を事前に知ることは出来ない。夕方到着した街でコンサート情報をいち早くキャッチし、初めての街へ夜出かけていくには、かなりのノウハウと勇気も必要だった。音楽会のシーズンオフの時期や、オーケストラが海外公演中であったり、チケットが売り切れていたりと恵まれない時も多かった。
 
 仕事での出張では行く先を選ぶことは出来ず、最もコンサートに行きたかったウイーンとベルリンへは機会がなかった。8回の出張の中で偶然U旅行社のNさんが同行してくれたツアーがあり、私の夜の行動を横目で心配そうに見ながら、アドバイスをもらたこともあった。
 何時の頃からか、U旅行社で企画する音楽をテーマとするツアーの案内を毎回送ってくれる様になり、10年くらいは続いていた。リタイヤー後自由になったら、いつでも行けると思って案内を眺めて食指を動かしたこともあったが、実現に到らなかった。リタイヤーして5年経ったので、節目としての今年こそはベルリンフィルとウイーンフィルを聴きに行きたいとひそかに考えていた。
 
 今年も、4月から8月に出発するツアーのパンフレットがU旅行社より送られてきた。「オペラとコンサートの旅・MOZART2006・プラハ・ザルツブルグ・ヴェローナ・・・」こんな言葉が表紙を飾っていた。何時ものように、オペラが多いなと思いながら見ていたプログラムのあとのほうのページに、『ウイーン楽友協会(会場)・ウイーンフィル(演奏)・ハイティンク(指揮)・ブレンデル(ピアノ)・モーツアルトのピアノ協奏曲』、という小さな案内に目が留まった。
 インターネットでベルリンフィルの講演スケジュールを調べてみたら、ラトル(常任指揮者)がブラームスの交響曲第四番を演奏するプログラムがあった。ベルリンとウイーンの演奏会を聴くのにおよそ10日ほどの滞在でいいことがわかった。
 
 早速U旅行社へ電話したら、Nさんは既に会社に居なくなっているとのこと。電話に出た女性の取次ぎでMさんが相談に乗ってくれることになり、神保町のU旅行社を訪れた。コンサートの切符の入手の確度について最も興味のあるところであったが、可能性は大きいとのこと。ウイーンフィルのコンサートの前夜に同じホールで行われるポリーニ(ピアノ)のリサイタルのチケットの入手もお願いした。後日、ベルリンからウイーンへの移動の途中にザルツブルグへ迂回するルートの旅程を計画に加えることも了承してもらった。
 音楽を得意としているU旅行社としてどの程度の苦労があったのかはわからないが、3つのコンサートのチケットが確保できたとの連絡をもった。ウイーンフィルについては、出発前にあこがれのチケットを入手し、他の2枚のチケットは滞在先のホテルでもらうことに手はずが整った。
 
 最初にU旅行社を訪れたのが、3月16日、チケットをもらったのが5月18日、そして6月1日にメルマガIDNを発行し、あくる日の6月2日に成田を出発した。

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■龍のコンサート三昧2006−【2】
 ベルリンフィルを聴く
 2日成田を発ち約11時間のフライト。フランクフルトでトランジット、ベルリンに向かう。上空から見るベルリンの住居地区は他の都市に比べて緑が多く木が格段に大きい。道を広く、木を多く、というのがまちづくりのコンセプトであると、後に聞いた。
 ホテルでチェックインの時に、コンサートのチケットを受け取り、部屋に荷物を置いて、近くのレストランで食事をし、旅行初日の日程を終えた。

 ホテルはツオー駅の近くで動物園の前。ホテルの目の前より、市内を東西に走る200番のバスに乗って2日目の行動開始。お定まりのブランデンブルグ門へ行った。門の東側には大きなサッカーボールの形状をした博物館があり、西側はサッカーを観覧するためと思われる舞台と大型スクリーン設置の工事が行われており、門を通り抜けることはできない。
 楽器博物館へ行く途中に通ったSONYセンターでも、大空間(アトリウム)には、4面の大型のディスプレイが取り付けられ、周りに観覧席を配置する工事が行われていた。ベルリンはワールドカップ開催前夜で工事のために騒然としていた。

 楽器博物館は、1887年に国立音楽研究所施設として開設された。音色を科学的に解明するために世界各国から収集された16〜20世紀の楽器750点が展示されている。見終わって玄関を抜けようとしたら、まもなく演奏が始まるよ、と受付のおじさんが教えてくれた。おかげで、特殊な楽器による演奏会を聞くことが出来た。楽器は、オルガンの演奏席に見えるが、鍵盤とペダルにより、建物内に配置されているパイプ・吹奏楽・パーカッション・鐘など、実物の音が鳴らすユニークな仕掛けの演奏会だった。
 楽器博物館は夜にコンサートに訪れることになっているホール「フィルハーモニー」の隣にある。今夜来るホールはこれだ、と確認し、ホールの前より200番のバスに乗り一旦ホテルに戻った。

 濃紺のスーツを着て、小雨の中を再び200番のバスで出かけた。コンサートの開始は8時だが7時にはすでに開門されていた。プレコンサートがあったのかも知れない。
 カウンターバーでビールと軽食を求め、ロビーの雰囲気を楽しみながら開演時刻を待った。

 1966年5月にカラヤンとベルリンフィルで、ブルックナーの交響曲第8番を東京文化会館で聞いてから、40年が過ぎている。
 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(Berliner Philharmoniker)は、旧西ベルリン「フィルハーモニー」に本拠を置くオーケストラで、英語表記のBerlin Philharmonic Orchestraの頭文字を取ってBPOと表記されることもある。
 設立は1882年5月で、ハンス・フォン・ビューローが初代の常任指揮者となった。歴代の指揮者下記に示す。
 ・1887年-1892年:ハンス・フォン・ビューロー(常任指揮者)
 ・1895年-1922年:アルトゥール・ニキシュ(常任指揮者)
 ・1922年-1954年:ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(常任指揮者)
 ・1955年-1989年:ヘルベルト・フォン・カラヤン(終身指揮者・芸術監督)
 ・1990年-2002年:クラウディオ・アバド(首席指揮者・芸術監督)
 ・2002年-     :サイモン・ラトル(首席指揮者・芸術監督)

 これらの有名な指揮者でカラヤンより前の人たちは、私にとっては伝説の人たちであり、LPになってからも、モノラルの世界である。戦時中のフルトヴェングラーとナチとの関係や、カラヤンと「ザビーネ・マイヤー事件」など逸話を書くと面白いが省略する。

 クラウディオ・アバドは前評判の高かったロリン・マゼールを破って就任し、自身の健康面の問題で2002年のシーズン限りで辞任した。後任の最大有力候補はサイモン・ラトルとダニエル・バレンボイムの2人だったが、楽団員による投票によりラトルが常任指揮者に選ばれたことを書くにとどめる。

当夜のプログラムは下記の3曲。
 ・ストラビンスキー:オルフェウス
 ・ニールセン:フルート協奏曲
 ・ブラームス:交響曲第四番
指揮:サイモン・ラトル
フルート:エマニュエル・パユ(ベルリンフィルの主席奏者)
演奏:ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

 このホールの席配置は複雑で自分の席へ到達するのが難しいとの定評がある。その夜の席は最もわかりやすいところで、前から10番目のセンターで申し分ない席だった。最近では、ジルベスターコンサートなどこのホールからのTV中継も多く、隅々まで知り尽くしており、とりたてて目新しさは感じないが、演奏席の前の通路に立って、客席を一望した時には自分が今ここにいるのだという感慨を禁じえなかった。

 何時ものように、団員が舞台に現れて、コンサートマスターが登場し拍手。この夜は安永 徹さんは登場しなかった。一段と大きい拍手に迎えられてラトルが現れて演奏開始。
 「オルフェウス」は、終始、暴れすぎないで落ち着いた演奏で滑り出し、曲折のある演奏を楽しく聞かせてくれた。

 パユのフルートは達者、と言うのが表現としてぴったり。切れ味のある意気のいい演奏を聞かせてくれた。ベルリンフィルのフルート奏者には達人が多く、カール・ハインツ・ツェラーやジェームズ・ゴールウエイなどが有名。演奏終了後の観客の反応も親密感にあふれており、パユはベルリンっ子の人気者である。
 これは余談。大河ドラマ「功名が辻」の最後にドラマに関係のある地を紹介するシリーズの中で、バックに流れているフルートの奏者がこのパユである。

 たっぷり30分ほど休憩のあいだ、スペースに余裕のあるホワイエでくつろいだあと、お目当てのブラームスが始まった。1楽章からこんなに強く鳴らして走っていいのかと思わせる出だし、2楽章・3楽章があっという間に終わり4楽章に入る。流れている音楽への興奮、もう2度とこの場でブラームスを聴くことは出来ないかもしれない、開始前に飲んだビールが急に効いてきた、時差の眠さも加わったかもしれない、最後は恍惚のうちに演奏が終了していた。

 
玄関(舞台後方より見る)                玄関の反対側(主客席の後方より見る)

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■龍のコンサート三昧2006−【3】 ベルリンフィルの本拠「フィルハーモニー」
 ベルリンでベルリンフィルを聞きたいと希望した動機は、演奏を聴きたいことが第一の目的だったが、ベルリンフィルが本拠地としているコンサートホール「フィルハーモニー」へ行きたいという、もうひとつの目的があった。

 日本では、1958年に大阪のフェスティバルホールが完成し、1961年に東京文化会館がオープンした。東京文化会館は、2300席を有する本格的なコンサートホールとして計画されたものであり、バルコニー席も設け、オペラハウスの形式も取りいれられている。我が国でも本格的な音楽ホールの幕開けとも言える時期を迎えていた。
 ベルリンの「フィルハーモニー」は1963年に完成した。完成したばかりのベルリンの新しいホールが掲載されている海外の雑誌を数種類入手した。しばらくして、日本の建築雑誌にも取り上げられ、設計者の意図等も直接知った。

 当時にコンサート三昧状態になりつつあった私は、これらの情報に刺激を受けて卒業設計のテーマに、「演奏者の周辺に客席を配置したコンサートホール」(注、この形式をワインヤード形式という)を選んだ。
 卒業設計の中では、法的に満足していることやすべての客席からの見やすさなど、客席の配置に手間取った。悪戦苦闘の結果、A1版が何枚になったかは忘れたが、すべてロットリングで墨入れをし、外観と内部のパース(透視図)も画いた。
 これが1964年のくれから1965年の初めのこと。それ以来、一度は「フィルハーモニー」を訪れたいという気持ちを暖めていたが、海外出張でもベルリンへ行く機会がなく、今回やっと思いがかなった。

 帰国した後、「フィルハーモニー」のことを具体的に確認したくて、国会図書館ヘ行き、知人の助けを借りて検索システムで調べた。幸いにも、雑誌「新建築」の1964年11月号に、以前私が所有していた雑誌「FORUM」の1964年5月号の内容が掲載されていること突き止めた。国会図書館では、この雑誌はマイクロフィルムのロールになっており、コピーサービスも受けられるが、当日は時間切れ。私が前に勤めていた会社の設計部の図書室にこの雑誌の合本が保管されていることがわかり、記事のコピーを入手することが出来た。

 以下に、新建築の内容と私の記憶も交えて「フィルハーモニー」を紹介したい。
【概要】
 「フィルハーモニー」はベルリンの壁から約140M程はなれたところにある。この地区はベルリン(西側)の再開発地区に指定され、「フィルハーモニー」は、ベルリン市の文化センター構想の一環として生まれた。  
 第二次世界大戦でそれまで使用していたホールが破壊され、戦後世界最高のオーケストラに相応しいコンサート・ホールを建設しようという機運が徐々に高まり、1956年のコンペが実施された。ベルリンの建築家でドイツ芸術院会長でもあったハンス・シャロンの設計が採用され実現した。座席数は2,200席、演奏席の背後には260席が配置されている。
 シャロンのコンセプトは「人・空間・音楽の新しい関係」。当初の概観は、現在の仕上げとは異なっており、サーカスのテントに似ていることから、ベルリンっ子たちは「カラヤンのサーカス小屋」と呼んだ。
 柿落としは、1963年10月15日、カラヤン指揮、ベルリンフィルでベートーヴェンの第九が演奏された。

 「フィルハーモニー」が完成したのが1963年、卒業設計をかき終えたのが1965年の初め。我が国では、この形式のホールとして良く知られている「サントリーホール」の完成には、1986年まで待つことになる。

【劇的な内部空間】
 演奏者の周辺に客席を配置したコンサートホールは、劇的な空間を生み出す。聴衆を演奏者に近づけ、取り囲ませることによって、両者は自由に、強烈に交流することが出来る。指揮者も、伝統的なホールのように聴衆と演奏者の中間に立って演奏を支配するものではなく、演奏者と聴衆と共に音楽をつくる一員になった。
 今では世界各地でこのようなホールを見ることができるが、演奏者周辺に客席があり、後ろの客席からは指揮者の表情を見られるのは、当時としては斬新だった。
 ホールの内部空間の設計の狙いは、まず音楽、つぎに音楽をめぐる聴衆、最後に聴衆をめぐる景観となっている。
(ワインヤード=ぶどう棚と呼ばれる内部空間:写真参照)

【音響設計上の苦労】
 音響設計上の最大の課題は、ステージを囲う大きな反射板がないこと。音響設計者で音楽学者のベルリン工科大学の音響緒物理学のロータル・クレーマー教授は設計者のハンス・シャロンの設計のコンセプトを生かしながら 音づくりに苦労した。
 舞台が中央にあるということで、音響面では様々な工夫を余儀なくされた。客席を18のブロックに分けて仕切ることにより、音を反射させるための壁の量を増した。舞台の上に10枚の反響板「浮雲」を35フィートの高さ(天井高70フィート)に吊し、壁に薄い空気層を設けた木製の軽い壁(低音域の吸音のため)を使用し、天井には低音を吸収する角錐135個を配した。
 舞台の上の反響板は、客席への音の拡散に有効に働いているが、演奏者にとっても、演奏者が発した反射音をすぐに聴くことができ、緊密な合奏のための助けとなる効果がある。
 舞台が中央にあることは、通常は150フィート(46M)も離れる席が出来るが、すべての席が115フィート(35M)以内にあることは、視覚のみでなく音響上の有利な点にもなっている。
 また、1992年には音響効果をさらに高めるための大規模な修復工事が行われたそうだが、その詳細については調査していない。

【その他】
 ホワイエ(いわゆるロビー)もここのホールの目玉であり、十分にスペースが確保されている。喫茶コーナーで軽食をとることもでき、演奏開始前や、途中の休憩の間にゆったりとした時を過ごすのに有効である。(断面図を参照)
*図面と写真は、新建築1964年11月号より

   
          断面図                                       客席(写真をクリックすると大きくなります)

 今回は念願がかなって、この「フィルハーモニー」でサイモン・ラトル指揮のベルリンフィルの演奏で、ブラームスの交響曲第四番などを聞くことができて幸せな思いをした。音が良いといわれている、舞台前面Aブロックの後方の席で聞くことができたのは幸運だった。
 今回の「フィルハーモニー」について書いたことは、「龍のコンサート三昧 第6回さまざまなコンサートホール」の続編とも言えるもの。ホールの形状の種類などについて興味のある方は、下記よりご覧ください。【生部】

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■龍のコンサート三昧2006−【4】ザルツブルグでモーツアルトの室内楽をきく
 6月5日の9時半にベルリンのテーゲル空港を発ち、フランクフルトで乗り換え1時半過ぎにザルツブルグへ到着。タクシーで旧市街のホテルへ向かう。旧市街へ近づくと人の多さに驚かされる。人の波を掻き分けてタクシーは進んだが、ホテルから離れたところでタクシーを降りて、バッグを転がしてホテルに到着。

 チェックインを済まして部屋へ案内してもらいすぐに、フロントへ引き返してその夜のコンサートの相談をする。出発前に調査をした中から順に電話で確認をしてもらうことにした。日本で出発前に予約を入れることも可能だったが、あえて現地でチケットの入手を試みた。5日の夜については幾つかの候補があったが、ディナーコンサート(観光客向け?)を避けて室内楽のコンサートを選択。最初に電話してもらったコンサートのチケットを難なく入手することが出来た。

 しばらく休んで、旧市街地の散策に出かける。ひとが一杯あふれているゲトライデ通りを数分歩いてモーツアルトの生家の前へ行く。建物の黄色い壁面のプレートには、モーツアルトミュージアムという文字の下に、モーツアルトの生年月日が1756年1月27日と記されている。

 モーツアルト小橋のひとつ上流のシュターツ橋を渡り、北方にあるミラベル宮殿に足を伸ばす。ミラベル宮殿は1606年にルネサンス様式として建てられ、当初の「アルテナウ」という名前から後に変更された。1720年代に改装、1818年に火災により当初の姿をとどめていない。
 修復された後、市役所や市立図書館として利用されている。ミラベル宮殿には、シンメトリーにデザインされた屋外の美しい庭園がある。「サウンド オブ ミュージック」でマリアと子供たちが「ドレミの歌」をうたいながら駆け上がって行くのが、この庭園の階段である。ミラベル宮殿内のバロック様式の大理石の間「マーブルルーム」がその夜のコンサートの会場である。

 コンサートの会場が確認できたてひと安心。建物を背にして庭園の奥に見えるホーエンザルツブルグ城砦を望む。素晴らしい景色を見て旧市街に戻り、モーツアルトが洗礼を受けたと言われている大聖堂などを見てホテルに戻った。

 6時頃から旧市街地のレストランで夕食をとり、ミラベル宮殿へ出かけた。コンサート会場である「マーブルルーム」は、世界で最も美しい結婚式場として人気が高いそうだが、通常は公開されていない。天井は高く、壁面には金のレリーフがふんだんに使ってある。今回の旅行で見た他の幾つかの宮殿で贅の限りをつくした「黄金の間」と言われているものに近い。

 この夜のコンサートはタイトルに「Salzburger Schlosskonzerte」と書かれており、ザルツブルグ ゾリステンのメンバーによるモーツアルトの室内楽で構成されていた。パンフレットにある英語の説明によると、ザルツブルグ ゾリステンは1979年にL.レスコヴィッツにより設立され、若手の室内楽演奏者に演奏の機会を与えるのも設立の目的とされていたそうである。

プログラムの順序が変更されて、下記の3曲が演奏された。
・ディベルティメント変ホ長調KV563(ヴァイオリンとビオラとチェロによる) 
・ピアノと2つバイオリンによる三重奏曲 KV448
・ピアノ四重奏曲第1番ト単調 KV478 (バイオリン ビオラ チェロ)

 マーブルルームは天上は高く壁面は大理石の仕上げで、壁の上部はガラスの窓になっており、下部には暖炉がしつらえられている。彫刻もたくさん置かれ、壁と天上のつなぎ目の曲面には画が描かれている。ホールに入ったときの第一印象では、音が響きすぎるのではと心配したが、聴衆(約150人程度)が入って演奏が始まると杞憂であることがわかった。

 8時に演奏が開始され、ディベルティメントが終わって休憩に入る。壁面の上部の窓からは外の明るさが見て取れる。15分ほど休んで演奏が再開され、9時ころになるとやっと日が暮れて窓のガラスが鏡に変わる。そのうちに稲光が窓から見えて、雷の音がして雨が降り出すのがホールの中からもわかった。

 外の激しい雷鳴にも気にすることはなく演奏は進められた。L.レスコヴィッツさんは常に登場しており、彼の人柄と姿勢もあってか、演奏は奇をてらうこともなく、また遠慮があるわけでもなく、落ち着いてきくことの出来るものだった。宮殿の黄金の間で、土地の音楽家たちの演奏で、モーツアルトの室内楽をゆっくりと聴くことができたのは大変良かった。

 ベルリンからウィーンへ直行しないで迂回する計画は成功だったと思いながら、モーツアルト小橋をわたり、昼間の喧騒がうそのような旧市街を歩いてホテルに戻った。【生部】

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■龍のコンサート三昧2006−【5】ベルヒテスガーデンで遊び、国際特急でウィーンへ
 6月6日。ベルヒテスガーデンへ行って美しい山々を見て、その日のうちにウィーンへ行くのが5日目の日程である。
朝食を済まし、ロマネスク様式が残されているサンクト・ペーター教会を見に行った。建物は増築が繰り返されているようで、塔の一部にロマネスク様式が見ることができた。

 ホテルに戻ってしばらくしたら、現地でガイドをお願いしたKさんが迎えにきてくれた。
 運転手の横にKさんが座り、ベンツの後ろの席に座り出発。早速Kさんのザルツブルグの説明が始まったので、許しを得てICレコーダーのスイッチを入れる。
 この地ではガイドの国家試験があり、ガイドのレベルは高いとのことであるが、話の内容は多岐にわたり興味のあるものだった。ピレネーへロマネスク教会を見に行った話をしたら、美術や建築史の話になり、ロマネスク・ゴシック・ルネサンス・バロック・ロココの流れについてについて概説してくれた。

 ベンツは快調に走りベルヒテスガーデンの街に到着。ベルヒテスガーデンは、ドイツのバイエルン州の東南端に位置し、オーストリアに対し半島のように突き出しているところで、チロルの山々につながる風光明媚な高級山岳保養地。「切り立つアルプスの山々と清く済んだ湖が織りなす風景」を楽しめる場所である。
 天気がよければ、ケールシュタイン山(Kehlstein)にあるヒトラーのために建てられた1834メートルの高さにある山荘(名前をイーグルスネスト Eagle's Nest という )を訪れる予定になっていた。

 ヨーロッパでは春が過ぎて一旦暑くなったが、6月になって山は冬に逆戻り。山へ行く道は雪が積もって前日やっと道路が開通したとのこと。当日は天気も悪く、イーグルスネストまで行ってもほとんど景色を楽しむことは出来ない、とKさんは言う。せっかく来たから是非言ってみたいとがんばり、街には後で行くことにして出発。

 山荘のあるところへは一般車両は立ち入ることが出来ないので、中腹の駐車場(Hintereck)で専用のバスに乗り換える。山腹の道路の両脇に除雪された雪を見ながら、バスは急勾配をのぼって行く。
 バス専用の駐車場からすぐのところに山荘への入り口がある。山腹に掘られた横穴の100Mほどのトンネルを山の中へ進むと、専用の黄金のエレベーターがある。このエレベーターで124メートルあがると、そこはすでに1834メートルの高さにあるヒトラーの山荘の中に出る。(写真は現地で求めた絵葉書より:点線がエレベーターのルート)

 外へ出ても一面が雪で自由に歩き回ることは出来ず、山はガスがかかっており、全貌を見ることは出来ない。眼下には、流れる雲の合間にザルツブルグの街並みや「王様の湖」が見え隠れする。山荘に戻って内部を見て回る。食堂の暖炉の大理石は、ムッソリーニがヒットラーにプレゼントしたものだそうだ。この日の気温は、山荘のレベルで摂氏2度だった。

 行きと逆のルートをたどり、ベルヒテスガーデンの街中へ戻る。街は静かで落ちついたたたずまい。教会があり、ヨーロッパ特有の広場があり、公園もあり、ここで1泊したらのんびり出来るだろと思えるところである。

 街を散策の後、高台にあるインターコンチネンタルホテルで昼食。スープはうす切りのパンの入ったコンソメ、メインに魚を注文したら、「川かます」の大きい切り身、赤ワインで土地のものをと注文したら、「バーデン産」の赤がきた。デザートには「にわとこの花」のシャーベットが出た。これはサービスとのこと。
 レストランのテラスの向こうには、当地自慢の山々が見えるらしいが、雲がかなり下まで降りてきており、雲は流れてはいるが、ついに山頂まで見渡すことは出来なかった。

 Kさんは、岩塩坑を案内しようかといったが、時間の許す限りこのレストランにいたいと希望し、くつろいだひと時をすごしてから再びベンツに乗りザルツブルグへ向かう。

 ザルツブルグへの途中で、アニフの街にある小さい教会に寄った。ザルツブルグで生まれ、ザルツブルグの自宅で亡くなったカラヤンは、写真で見るように、この教会の一角のお墓の中で花に覆われて静かに眠っている。生存中の派手な活動とパフォマンスを思うと、本当にささやかなお墓に見える。
 カラヤンについては説明を省くが、1967年に、自身の芸術的理想を実現するために「ザルツブルク・イースター・フェスティヴァル(復活祭音楽祭)」を創設し、監督を務めたことのみ記しておく。

 「ベルリンフィルを去ったクラウディオ・アッバードの現在の住まいはあの森の先にある」などの説明を聞きながら、ベンツはザルツブルグ市街へ向かう。

 ザルツブルグとその周辺には、映画サウンド・オブ・ミュージック(1964年に製作、1965に公開)のゆかりの場所や建物がたくさんある。Kさんは、ザルツブルグ旧市街から南へ少し離れたところにある、ヘルンブルン宮殿へ案内してくれた。
 ヘルンブルン宮殿は庭園の随所におかれた巧妙な水の仕掛けで有名であるが、Kさんは宮殿の入り口にある掲示の「サウンド・オブ・ミュージック パビリオン」の矢印の先にある、ガラスの建物に案内してくれた。
 映画の中で、長女のリーズルとロルフが雨の夜に「もうすぐ17才」を歌うシーンと、あとでマリアとトラップ大佐が「何かよいこと」で愛を歌い合うところである。
 この建物はいったん別のところに置かれていたが、ヘルンブルン宮殿の庭園の一角に移設されて保存されているそうである。

 ホーエンザルツブルグ城塞の南側より旧市街の西側を迂回して旧市街に入り、祝祭劇場の前で車を止めてもらう。再びザルツブルグを訪れて、ここでコンサートを聴くことが出来るだろうかと思いながら車に乗り込む。ザルツァッハ川を渡って、すぐに中央駅に到着。

 中央駅で、少し送れて到着した15:34発の特急に乗りウィーンへ向かう。列車に乗り込んで席に落ち着き、しばらく車窓の田園風景にみとれる。
 列車の中にあった運行案内によると、この列車は、8:14にバーゼルを出発し、チューリッヒやインスブルグを経由しザルツブルグを通り、リンツを経てウィーン西駅に至る特急。乗車券には、ザルツブルグからウィーンまで319Kmと記されている。

 列車の出発地であるバーゼルには1989年に行ったことがある。チューリッヒからバスで、有名な化学会社を訪ねて日帰りをした。そのとき、バーゼル美術館にあるゴーギャンの「タ・マテテ(市場)」を見る時間はなく、残念に思ったことで記憶に残っている。

 途中、列車がリンツに停車しているのに気がついた。ここは、モーツアルトの36番の交響曲が作曲されたところ。街については知らないが、私にとってはモーツアルトの曲でなじみのある名前である。モーツアルトが、ザルツブルグへ里帰りしウィーンへの帰途にリンツに立ち寄った。36番は、土地の伯爵に歓待され、演奏会を開くことになり、手持ちの交響曲がなく、短期間で作曲した曲。(戻ってから資料を見たら6日間で作曲と練習までやり遂げた、という文献があった) 

 こんなことを思い出しながら時間をすごし、ウィーンでの2日間の過ごし方を予習していると、18時半過ぎにウィーン西駅に列車は到着。タクシーでホテルへ。長くて盛りだくさんな、旅の5日目の日程が無事に終わった。【生部】

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■龍のコンサート三昧2006−【6】
ムジークフェラインでポリーニを聴く
 交通機関の利用方法はベルリンもウィーンもほぼ同じなので、終日利用の回数券を購入して、地下鉄4号線でシェーンブルン宮殿へ行った。この宮殿は「美しい泉」という名を持つ宮殿で、ハプスブルグ家の人々が公務をはなれて家庭生活を楽しむくつろぎの場だった。黄色の外観にロココ様式の内装を持つ宮殿の、大ギャラリーの大きさと華麗さに驚き、人のスケールを超している広大な庭園を歩いた。

 地下鉄で街の中心部へ向う。カールス広場で地上に出て、オペラ座の前で電車に乗り、リングを右回りに一循する。オペラ座を横に見ながら歩行者天国を北上しシュテファン寺院に至る。寺院の中に入りミサの様子を見て、近くでお昼を食べて、再びオペラ座へ戻る。ウィーンに行った人の大半がたどるルートであり、皆との違いは、ザッハートルテを食べなかったことぐらいか。

オペラ座のツアー
 ウィーンのオペラ座では見学のツアーに参加することが出来た。初期オペラハウスは、新都市計画に基づいたリング通りに面して1869年に落成し、宮廷歌劇場としてオープン(2280席のうち567席を立ち見席がしめる)。こけらおとしに、モーツアルトの「ドン・ジョバンニ」が演じられた。1918年にオペラ座と改名される。第2次世界大戦で戦災を受け崩壊したが、1955年に復活。ベーム、カラヤンなどの指揮者により黄金時代を迎え、マゼール、アッバードがこれに続く。 

 ツアーは、希望する言語別にグループが編成される。日本語のツアーもあるらしいが、当日にはないので英語のグループに加わる。英語グループの大半は、正面玄関の大理石の階段に座り込んで、街を歩いた疲れを癒しながらツアーが始まるのを待った。案内の女性が現れて客席の平土間(1階)へ案内してくれる。客席に座って説明を聞いた後、貴賓の間、タピストリー・ルーム(西側)、古い装飾のホワイエ、東のホワイエを歩き、メインロビーの階段の上部の吹き抜けを2階より見て、大理石の階段を下りてロビーへ戻りツアーは終了。

 オペラ座へ初めて行ったときは、開始前や幕間にロビーやホワイエを歩き回ることが多い。ウィーンのオペラ座の中部は一通り見たことになる。もちろん、内装の豪華さや華やかさは、オペラが上演されている日に、照明がすべて点灯されて、お客がいる時でないと本当の雰囲気はわからない。

ポリーニを聴く
 コンサートの開始は7時半。6時半過ぎにウィーン楽友協会大ホール(ムジークフェライン)に到着したが、ホールへ入れてくれない。食事したいと言ったら地下への階段を教えてくれた。飾り気のない部屋があり、そこで軽食とワインで7時の開場時刻を待った。

 舞台に向かって右側の2階のバルコニーにある自分の席を確認し、ホール内を歩いてみる。今回のポリーニのリサイタルでは、舞台上にも客席がしつらえられており、一般の客も舞台上にあがることが出来た。ピアノの前の舞台の先端に立って客席の全体を見渡す。「これがムジークフェラインだ!」と感慨ひとしお。海外のホールに行って、舞台に立ってホールの全体を見渡したのははじめてである。このホールの壁の最上部は窓になっており、7時過ぎには客席最後部の窓からは西日がまぶしかった。

 このホールでは、ロビーやホワイエでプログラムを持ち歩いて販売している。買い求めて当日の演目をみると、最初のモーツアルトと最後のリストの曲には変更はないが、シューマンの「クライスレイアーナ」がショパンの4つの曲に変更されているのに気がついた。ポリーニのショパンを聞くことが出来ることに異存はなく、むしろ大歓迎。

 マウリツィオ・ポリーニ(MAURIZIO POLLINI,1942〜、イタリア)は、1960年の18歳の時に第6回ショパンコンクールで優勝。その時、審査委員長を務めていたルービンシュタインが「技術的には我々審査員の誰よりも上手い」と絶賛したという逸話が残っている。第11回の優勝者であるブーニンなどはショパンコンクールで優勝後すぐに演奏活動を開始したが、ポリーニはそれから8年間表舞台には登場していない。ルービンシュタインやミケランジェリに師事して研鑚に勤めていたといわれている。

 8年後によみがえった後の彼の活躍は目覚しいものがあり、今日に至っている。私が最初に買ったのは、ショパンのエチュード(練習曲)Op.10と25の全24曲のレコード。以後、何枚かのレコードを購入し、CDの時代に変わってからも常に注目しているピアニシストの一人である。
 ポリーニのレパートリーは古典派後期以降から現代作品に至るまで幅広いが、現代音楽を重視し演奏会で取り上げることが特徴である。また来日したときに、演奏するだけでなく、日本の若い演奏家の卵たちと話し合い、質問に親切に答えているテレビ番組を最近見た。

 大きな拍手で迎えられてポリーニが登場し演奏が始まる。最初はモーツアルトの「幻想曲ハ単調 KV475」。静かできれいな演奏で幕が開いた。

次は、プログラムが変更になったショパンの4曲。
「バラード1番ト短調OP23」で始まり、「夜想曲第15番ヘ短調OP55−1」と「第16番ホ長単調55−2」、最後が「ポロネーズ第5番嬰ヘ単調OP44」。
 どれも聴き慣れた曲であり、ポリーニの面目躍如といったところ。ポリーニのショパンを聴くことが出来るとは思わなかったのでうれしかった。

 30分の休憩の後、リストの「ピアノソナタ ロ短調」が演奏された。楽想、ピアノ技法の面ばかりでなく、楽曲の構成面でもロマン主義的な特徴を持っているソナタ。主要な主題が全体に用いられている循環形式で書かれている曲である。ポリーニはこの曲を大胆に豪快に弾ききってコンサートを終了した。

 終了したと思ったのが大きな間違いで、ポリーニはアンコールとして5曲を演奏した。アンコールの3曲目に「革命エチュード」が演奏され、曲が終わったときには、これで終わりと思ったが、その後2曲が演奏された。ムジークフェラインでウィーンの聴衆を前にしたからなのか、他の演奏会でもそうなのかわからないが、一見冷静に見えるポリーニが燃えきった姿をそこに見た。

 コンサートは10時頃に終了。明日の夕方には再びここに来て、ウィーンフィルとブレンデルを聴くのだと、期待を膨らませながら帰途についた。

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■龍のコンサート三昧2006−【7】難聴になったベートーベンの苦悩 ハイリゲンシュタットの遺書
 難聴が進行し続け回復の見込みないとわかったときに、あなたはどうしますか? 今回は、このような状況におかれた30歳ころのベートーベンのお話です。

 今回の旅行で、夜のコンサートについては準備万端整えたが、昼間の計画については全く無頓着だった。ザルツブルグからウィーンへ向かう列車の中で見つけたいくつかの候補の中より、ウィーンの北の森にある、ベートーベンが遺書を書いたところであるハイリゲンシュタットへ行ってみようと決めた。

 ウィーンの中心部から地下鉄U4に乗り25分ほどでハイリゲンシュタットに到着。市電に乗り換え終点へ。運転手さんに教わったとおりに歩いてみると、Beethovengangと書かれている標識を見つけた。矢印のほうへ行くと、小川に沿った小道があり、片側は公園でもう一方は静かな住宅地になっている。ベートーベンが「田園交響曲」を作曲したと時に歩いた思われる小川のほとりをしばらく散策してから、標識に沿ってBeethoven Hausを探した。

 史跡の目印となっている赤と白の旗とプレートのある建物が見つかる。Beethoven Hausというプレートを張ってある建物は近くに2つある。ベートーベンが遺書を書いたといわれている建物は、細い道路に面している建物を通り抜けた奥の中庭の向こうにあった。(写真)
 小さな階段を上がると、ベートーベンが暮らした、小さな部屋が博物館になっている建物の中に入る。高齢のおじさんがいて簡単な説明をしてくれる。博物館には、手書の楽譜の複写、書かれた遺書の複写、40代のベートーベンの姿、当時のピアノ、手紙の複写、絵などいろんな展示物などに加えて、ベートーベンのデスマスクや遺髪も置いてある。

 番人のおじさんが、この中に「遺書」が書かれており、日本語もあるよと言って冊子を持ってきてくれた。ベートーベンの「ハイリゲンシュタットの遺書」は有名であるが、内容をちゃんと読むのははじめてである。
 「ハイリゲンシュタットの遺書」はベートーベンの死後遺品の中から発見され、現在はハンブルグ市立図書館に保管されている。この遺書は、ベートーベンの健康が様々な療法にもかかわらず悪くなる一方だったこと、特に1796年からその兆候があったと思われる聴覚疾患の昂進に伴う絶望的な心理状態で1802年に書かれたものである。

 今井 顕により訳された遺書の概要を紹介する。
 1802年10月6日に書かれた「わが弟たちカールと〔ヨハン〕ベートーベン へ」で始まる遺書は、
治癒することがだめかも知れないと思ったベートーベンが孤立し、孤独に生きなければならない苦悩を吐露し、絶望しもう一歩で自ら命を絶つところを思い止まらせたのは芸術である、として作曲に希望を託す。

課された使命、そのすべてを終えてからでなければ死ねそうにない、と奮い立たせ、呵責ない運命の女神が生命の糸を断ち切る日まで、この気持ちを見失わないようにと願う。

早くも28歳(実は32歳)にして悟りを開かなくてはならないとは容易ではない、と嘆き、芸術が熟しきる前に死が訪れぬよう、今しばらく時間を与えたまえ、と願う。

死よ、いつでも来るが良い。お前を勇気を持って迎えよう、と達観する。
不幸を背負うものは、ここの自然界のあらゆる障壁にも負けず、能力の範疇にあるすべてを成し遂げた立派な芸術家、または人間として並び称されんとしていた人間を見出し、その慰めとするだろう、と将来の自分の姿を予見している。

 10月10日に書かれた、「さあ、これでお前とお別れだ・・・・」で始まる遺書は、今井 顕による訳によると「詩」の形式をとっている。
ここにくれば少し病状が良くなるかという望みを絶たれ、希望も勇気も消滅、自然と人間の殿堂のなかで喜びの日を享受できるのは、もう2度と来ないのではないか、それはあまりにも残酷だと嘆く。
2人の弟へ「私の死後読み、実行するように」と書いて遺書は終わっている。
 
 私はこの遺書が書かれた1802年が、彼が作曲した作品群のどの時期に位置するのかに興味を持って調べてみた。曲の種類ごとに並べてみると下記のようになる。
・交響曲:第2番(1802)・第3番(1804)・第5番(1808)・
・ピアノ協奏曲:第3番(1803)・第5番「皇帝」(1809)
・バイオリン協奏曲(1806)
・ピアノソナタ:第17番「テンペスト」(1802)・第23番「熱情」(1805)
・弦楽四重奏曲:第6番(1800)・第7番(1806)

 以上を見ると、ベートーベンの主要な曲は、遺書が書かれた1802年を境にして次々と生まれたことがわかる。最後のピアノソナタ(第31番)は20年後の1822年に、「荘厳ミサ曲」は1823年に、「第九」は1824年に書かれている。弦楽四重奏曲は死の直前まで書き続けられている。言い尽くされたことであるが、ベートーベンの精神力の強さには恐れ入る。

 1770年に生まれたベートーベンは1827年3月に56歳3ヶ月の生涯を終えた。

 ウィーンへ行って、ハイリゲンシュタットまで足を踏み入れ、ベートーベンの認識を新たにすることが出来たのも、今回の旅行の成果のひとつである。

 
ベートーベンが散歩した小道                   ベートーベンが遺書を書いた家

■「ハイリゲンシュタット遺書」の全文  訳:今井 顕


わが弟たちカールと〔ヨハン〕ベートーベン へ

おお、お前たちは私が意地悪く強情で人嫌いのように思い、そのように広言しているが、なぜそんな不当なことをしてくれるのだ。もしそう見えたとしても、おまえたちはその本当の原因を知らないのだ。

 私の心と魂は、子供のころからやさしさと、大きな事を成し遂げる意欲で満たされて生きてきた。だが私が6年前から不治の病に冒され、ろくでもない医者たちによって悪化させられてきた事に思いを馳せてみなさい。回復するのでは、という希望に毎年打ち砕かれ、この病はついに慢性のもの(もしかして治癒するために何年もかかるだろうし、だめかも知れない)となってしまった。

 熱情にみちた活発な性格で社交も好きなこの私が、もはや孤立し、孤独に生きなければならないのだ。すべてを忘れてしまおうとした事もあったが、聴覚の悪さもとで倍も悲しい目にあい、現実に引き戻されてどれほどつらい思いをしたか。もっと大きな声で、叫んでください、私はつんぼなのです、などと人々にはとても言えなかった。
 他の人々に比べてずっと優れていなくてはならないはずの、以前は完璧で、音楽家の中で数少ない人にしか恵まれなかった程の感覚が衰えている、などと人に知らせられようか―おお、私には出来ない。だから、私が昔のように喜んでお前たちと一緒におらず、ひきこもる姿を見ても許してほしい。こうして自分が誤解される不幸は、私を二重に苦しめる。交遊による気晴らし、洗練された対話、意見の交換など、私にはもう許されないのだ。どうしても避けられない時だけ人中には出るが、私はまるで島流しにされたかのように生活しなければならない。人の輪に近づくと、どうしようもない恐れ、自分の状態を知られてしまうのではないか、という心配が私をさいなめる―

 賢明な医者が私の気持ちをほぼ察して勧めてくれた「出来るだけ聴覚をいたわるように」という言葉に従って、この半年ほど田舎で暮らした。人恋しさに耐えきれず、その誘惑に負けたこともあった。だが、そばにたたずむ人は遠くの笛の音が聞こえるのに、私には何も聞こえないとは、何という屈辱だろう。

 こんな出来事に絶望し、もう一歩で自ら命を絶つところだった。芸術、これのみが私を思い止まらせたのだ。ああ、課された使命、そのすべてを終えてからでなければ私は死ねそうにない。だからこそこの悲惨な人生をたえ忍んできたのだ―なんとみじめなことだろう。最上だった状態から突然奈落の底に突き落とすという変化をもたらしたこの過敏な身体―忍耐―これこそが私のこれからの指針でなければならない。そう決心した―呵責ない運命の女神が生命の糸を断ち切る日まで、この気持ちを見失わないよう願い続けている。ひょっとすると良くなるかもしれないが、ならなくても心の準備は出来ている。―早くも28歳(実は32歳)にして悟りを開かなくてはならないとは、容易ではない。芸術家にとってはなおさらのことだ。神よ、御身は私の心中を見おろし、もうわかっておられる。そこには人間愛と善行への欲求があることをご存知だ―

 おお、世の人々よ、いつの日か汝らがこれを読めば、汝らがいかに不当なことを私にしたか悟るだろう。不幸を背負うものは、ここの自然界のあらゆる障壁にも負けず、能力の範疇にあるすべてを成し遂げた立派な芸術家または人間として並び称されんとしていた人間を見出し、その慰めとするだろう―

(弟たちへの財産相続について:中略)
(リフノスキー公爵とシュミット教授への謝意について:中略)

 これでおしまいだ―喜んで死に対峙しよう―だが、ただでさえ厳しい運命に加え、死が私の芸術が熟しきる前に訪れぬよう、今しばらく時間を与えたまえ―いや、それまで待ってくれなくとも私は満足だ。死は私を苛め続ける苦悩から解放してくれるであろうか?―死よ いつでも来るが良い。お前を勇気を持って迎えよう―さようなら。私が死んでも忘れないでくれ。私はおまえたちを幸福にしようとしょっちゅう考えていたのだから。幸せに―
ルートヴィッヒ ファン ベートーベン
ハイグルンシュタット
1802年10月6日

【後半】 
 ハイグルンシュタット、1802年10月10日、さあ、これでお前とお別れだ―悲しい別れ―あのさわやかな希望―ここにくれば少し病状が良くなるかという―その望みは、木の葉が舞い落ち、枯れていくかのごとく失われてしまった。私の持っていた希望は萎れ、すべても元のもくあみだ―私は去る―あの勇気―美しい夏の日々には私に生気を与えてくれた高貴な勇気さえも―もはや消滅した―おお、神よ―喜びに満ちた日を一日だけでも与えたまえ―すでに長い時間、心の奥底から湧き上がる真の喜びとは無縁になってしまった―おお、いつの日に―おお、いつなのですか、おお、神よ―自然と人間の殿堂のなかで喜びの日を享受できるのは―もう2度と?―うそだ―おお、それはあまりにも残酷だ。

私の弟たちカールと〔ヨハン〕へ
私の死後読み、実行するように

(不当な表現があるが原文のまま掲載した)

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龍のコンサート三昧2006−【8】ムジークフェラインザールでウィーンフィルを聞く
 いよいよ旅の最終日の夜になった。ハイリゲンシュタットからホテルに戻り、少し休んで早めにホテルを出て、市立公園に寄った。バイオリンも全身も金色の有名なヨハン・シュトラウス像の前では、記念写真を撮る人たちが順番待ちをしていた。
 公園からホールへの道の途中にベートーベン広場がある。左前方よりベートーベン像を見上げると、見下ろした彼の視線とぴったり合う。ハイリゲンシュタットで遺書を書いた面影はなく、堂々として、にらまれたような威圧感がある。
 7時半にホールに入る。当日の席は、前から6番目のほぼ中央。プログラムを買って席に着きホールの雰囲気を確かめながら開演を待つ。
ムジークフェラインザール
 ウィーンのムジークフェラインザール(楽友協会大ホール)は1870年に完成している。ムジークフェラインは楽友協会の意、ザールはホールを意味する。
 幅20M、長さ36M、高さ17.4Mの直方体の形状をしており、「シューボックス(靴箱)」タイプの典型である。客席数は1,680席であり、ホールとしては大きいほうではない。(ちなみに、サントリーホール:2,006席、東京文化会館:2,300席、ベルリンのフィルハーモニー:2,200席)。残響時間は2秒(500Hz 満席時)と長いほうである。伝統あるホールとして、ボストンのホールに近い雰囲気を持っているように感じた。(写真は外観)
ウィーンフィル
 ウィーンフィルの発祥は1842年3月28日とされている。ウィーン宮廷歌劇場のオーケストラがムジークフェラインザールを1870/1871年のシーズンから本拠地としている。1908年にウィーンフィルは公式に認可される協会組織となり、名称も新たに「Wiener Philharmoniker」となっている。

 戦前は、ハンス・リヒター、グスタフ・マーラー、アルトゥール・ニキシュ、若き日のブルーノ・ワルターが指揮者を勤め、戦後は世界中の有名な指揮者が登場している。
 ウィーン国立歌劇場管弦楽団のメンバーが自主運営団体として、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団を名乗っている。メンバーはまず国立歌劇場の団員として3年の試用期間を経て正式にウィーンフィルハーモニー管弦楽団の団員として採用される。

 ウィーンフィルは独特の音色をもっている。管楽器はウィンナ・ホルン、ウィンナ・オーボエなど独自の構造のものが使われている。また弦楽器は、コンサートマスターを除いて同じオトマール・ラング工房で製作されたものが用いられている。
 奏法にもウィーンフィル独自のものが存在する。弦楽器のボウイングは弓の元から先端ぎりぎりまで使い、柔らかい音を出すため、弓を指板の近くで幾分力を入れて弾く。ムジークフェラインザールは残響が長いので、音楽の輪郭がぼやけないように独特な奏法もとられている。
当日の曲目
曲目は、
・モーツアルト:交響曲 第32番 KV 318
・モーツアルト:ピアノ協奏曲 第27番 KV 595
・ショスタコーヴィッチ:交響曲 第10番 OP93
 演奏者は、ピアノがアルフレッド・ブレンデル、指揮者はベルナルト・ハイティンク。ハイティンクは好きな指揮者の一人であり、ボストンでマーラーの交響曲第9番を聴いたことがある。

 ベルナルト・ハイティンクは1929年生まれのオランダの指揮者。1955年にオランダ放送管弦楽団の次席指揮者に就任。1961年から1988年までアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団の、1967年から1979年までロンドン・フィルハーモニー管弦楽団のそれぞれ首席指揮者に就任。1978年から1988年までグラインドボーン歌劇場の、1987年から1998年まで英国王立歌劇場の音楽監督を務める。2002年からドレスデン国立歌劇場の音楽監督に就任した。2006年からシカゴ交響楽団の首席指揮者に就任。
 
 ウィーンフィルのメンバーが登場し、コンサートマスターが現れチューニングをし、ハイティンクが指揮台に立って演奏が始まる。舞台に並んだウィーンフィルの奏者たちを見て
以前に見たときより若いと感じた。若返っているのであろうか。
 第32番の交響曲は静かに始まった。10分足らずの曲であり、モーツアルトの後期の交響曲の中でも取り上げられることが少ない。急−緩−急の3つの部分が連続して演奏される。ウィーンフィルの柔らかい特徴のある音を楽しんでいるうちに曲が終わった。
 ハイティンクが下手に引っ込むとピアノの準備が始まった。グランドピアノを縦にして台車に乗せ、屈強の5人の男が登場した。立っていたピアノを台車から下ろして寝かせ、足を取り付け、ペダルの部分を取り付ける。入りにくい足をゴツンとたたいてはめ込む。セットしたあとで調律をすることもなく準備が終了した模様。最近のホールでは、舞台の下からリフトで競りあがってくるところもあるのに。舞台の袖の扉の幅がピアノの幅より狭いのでこのようなことになるのか。そんな乱暴で良いのかと思うくらいおおらかな支度風景だった。
 まもなく、アルフレッド・ブレンデルとハイティンクが現れて、モーツアルトのコンチェルトが始まる。第27番のコンチェルトは、クラシックを聴き始めた初期の頃より、バックハウス、ベーム、ウィーンフィルのレコードで慣れ親しんだ曲。今回最も楽しみにしていた演奏。
 
 アルフレート・ブレンデルは1931年にチェコで生まれクロアチアで育った、オーストリアのピアニスト。1960年代以降、次第に国際的な名声を得るようになる。レパートリーも、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、シューマンといった、ドイツ・オーストリア音楽の王道とも言うべき作曲家の作品を得意としている。
 ブレンデルの記憶は、1995年9月にサントリーホールでベートーベンの最後の3つのソナタを聴いたときの印象が強烈に残っている。そのブレンデルが、目の前でモーツアルトを弾いている。
 上手の2階バルコニーで聴いた前日のポリーニのピアノはホール全体に鳴り響いており迫力満点だった。当日の前から6番目の席では、ブレンデルのピアノの音のひとつひとつがピアノの反射板から直接耳に入ってくる。そしてブレンデルが演奏するときに作る表情も、特徴のある額の皺もはっきりと見てとれた。ブレンデルの演奏は、華麗さや派手さはないが、知的で安心感のある演奏を十分に楽しませてくれた。
 
 休み時間をはさんで、ショスタコーヴィッチの交響曲第10番が始まった。今年はショスタコーヴィッチの生誕100年に当たり、全世界でショスタコーヴィッチが取り上げられる機会が多いようである。
 私はこの曲を聴くのは始めてだったので、出発前にカラヤンとベルリンフィルによるCDを買ってきて予習をした。CDの解説によると、この曲は1953年に、スターリンの死後すぐにすぐに書かれており、第2部は「スターリンの音楽的肖像画」とも言われている。
 カラヤンの演奏はダイナミックではあるが、端正で乱れるところがない演奏である。ウィーンのハイティンクの演奏は、実演のせいもあるが、最後まで奔放だった。1楽章の出だしは静かに始まり、山を登りつめることはなく、最後も静かに終える。2楽章はフォルテシモで始まり、その後は、起伏を大胆に表現しながら、4楽章の曲の最後までウィーンフィルの持てる力(ダイナミックさも)を余すところなく引き出しており圧倒される演奏だった。

追記
 11月1日の朝日の夕刊に吉田秀和さんのショスタコーヴィッチの交響曲第10番に対するコメントがありました(音楽展望)ので追記します。
 (前略)・・・・第10交響曲などからは「何と恐ろしい、助けてくれ。私だって平穏に行きたいのだ!」という憤怒、呻き(うめき)、悲鳴などが耳を塞いでもきこえてきはしましか。・・・・

 今回の旅のクライマックスを終え、満足感と、当面の目標を失った一抹の寂しさを抱きながら、共に聴いた人たちの流れの中を地下鉄の駅に向かった。

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■龍のコンサート三昧2006−【9】モーツァルトハウス(旧 フィガロハウス)
 ベルリンでベルリンフィルとサイモン・ラトルのブラームスを、ウィーンでウィーンフィルとブレンデルのモーツアルトを聴き、途中でザルツブルグへ寄り道をしたことを前回までに書いたので、龍のコンサート三昧のおもなものは終わりであるが、今回の旅行でのアラカルトとして、いくつか書き加える。
 
 モーツアルトは、1784年から1787年までウィーンに住んでいたが、その住居跡が記念館として残されている。オペラ「フィガロの結婚」を作曲したことにより「フィガロハウス」と呼ばれ公開されていた。このたび、モーツアルトの生誕250年を記念して改装され、2006年1月27日に「モーツアルトハウス ウィーン」としてリニューアルオープンした。入り口の横には写真に示すプレートがある。

 受付で入場料を払い、日本語の案内と日本語で説明してくれるオーディオガイドを借りて、エレベーターで3階へ上がり、順路表示にしたがってスタート。

 3階では、モーツアルト時代のウィーンが紹介される。絵画や銅版画による当時のウィーン市街図、劇場の様子、当時の為政者、フリーメーソンなどが示され、モーツアルトとコンスタンツェの結婚契約書なども見ることができる。

 2階では、モーツアルトの音楽的世界が紹介される。ハイドンやサリエリが登場し、本題の「フィガロの結婚」に関するものとして、初演のプログラム、初演のシルエット画などが展示されている。
 さらに、「コジ・ファン・トッテ」、「ドン・ジョバンニ」、「魔笛」、「レクイエム」を紹介したゾーンがあり、オーディオガイドでは、それぞれについて詳細な説明が流れる。
 「フィガロの結婚」を作曲した頃のエピソードなどと共に、モーツアルトの私生活についても説明がある。賭博で負けて常に金策に追われ、そのために作曲をしていたモーツアルトなど盛りだくさん。説明をすべて聞いていいると時間が足りない。
 また、オーディオガイドのバックミュージックとしては、それぞれのゾーンにゆかりのある曲が流れているのも楽しい。

 1階には、モーツアルトが住んでいた住居が再現されている。当時の椅子、遊戯用テーブル、子供用のベッドなど往時を偲ぶ備品も展示されている。モーツアルトの妻のコンスタンツェや息子のたちの肖像などをとおして、モーツアルト一家とその生活を垣間見る。

 ザルツブルグにあるモーツアルトの生家でもモーツアルトを偲ぶことができるが、モーツアルトの歴史とその時代を概観するには、資料の数とその内容については、圧倒される。
 オペラの舞台をホログラフィで再現するなど、展示方法についても工夫を凝らしており、音楽好きのウィーンのスポットしては、お勧めのひとつである。

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■龍のコンサート三昧2006−【10】「リヒャルト・ワーグナー広場」駅で龍を見つけた
  ベルリン滞在の最終日(06/06/04)に、シャルロッテンブルグ宮殿を訪れた。ツォー駅より地下鉄U2に乗り、ビスマルク・シュトラーセでU7に乗り換え、宮殿の最寄駅「リヒャルト・ワーグナー広場」駅で降りて歩いて行った。
 行きには気がつかなかったが、帰りに電車を待つ間に、線路の向こうの壁に、ワーグナーに縁があると思われる、たくさんのレリーフが置かれているのに気がついた。ホームを歩きながら注意してみていると、竜(ドラゴン)とおぼしき絵を発見した。
 
 私のホームページ「龍と龍水」に「龍の謂れとかたち」というページを開設している。発端は、生まれが辰年であり十二支の中でも唯一の架空の動物であること、以前よりハンドルネームを「龍」としていたこと、華名を「龍水」としたことなどで、「龍」に興味を持っていた。

 小布施の北斎館にある、「富士越龍」や、天龍寺の法堂の天井に描かれた加山又造の平成の「雲龍図」、孔子が老子を「龍のような人間」と言った、万里の長城は6千キロメートルの龍、龍頭は東の老龍頭(らおろんとう)で龍尾は西の嘉峪関(かよくかん)、絵や彫刻や陶磁器にもたくさんの龍・・・。

 そんなこともあって、私が出会った「龍」にかかわることを「龍の謂れとかたち」に写真と文章で紹介することを2006年4月より始めた。話題は無限にありそうである。現在28タイトルのコレクションになっているが、手持ちのものを製作しアップする時間が不足している。

左の写真を拡大したものはこちらにあります
 ベルリンの地下鉄の「リヒャルト・ワーグナー広場」駅で出会ったレリーフが「竜」だとすれば、どのような謂れがあるのか?
 ワーグナーの作品の中で、「龍(竜・ドラゴン)」にかかわるものとしては、楽劇「トリスタンとイゾルデ」と楽劇「ニーベルングの指環」があることに気がつく。

楽劇「トリスタンとイゾルデ」では、
アイルランドで巨大な竜が暴れており、国王からは「竜を退治した者に娘を与える」というおふれが出ていた。トリスタンは竜を退治するが、竜の毒息を浴びて意識を失う・・・・。

楽劇『ニーベルングの指環』では、
英雄ジークフリートは竜を退治するが、竜の返り血を浴びて刃を受けても傷つかない体になったが・・・・。

写真のレリーフは誰が描いたものかわからないし、何を意味しているか確信はないが、「指環」について想像をめぐらしてみる。
 
ワーグナーが作曲した「序夜と三日間のための舞台祝典劇」と題する楽劇「ニーベルングの指環」は1848年から1874年にかけて作曲された、上演に約15時間を要する長大な作品である。全体の構成は、4部作となっている。
序夜:楽劇『ラインの黄金』
第一夜:楽劇『ワルキューレ』
第二夜:楽劇『ジークフリート』
第三夜:楽劇『神々の黄昏』
 
第二夜(第3部)の中に、ジークフリートと竜のお話が登場する。
 ミーメの養育の狙いは、かつて巨人族のファーフナーが竜に化身し、指環と共にニーベルングの宝を抱え込んでいるが、そのファーフナーを殺させ、指環をせしめることだった。
 ジークフリートは実の父親の形見である折れた剣を鍛え直し、名剣ノートゥングを持って竜退治に行く。竜の返り血を浴びたジークフリートは声無き声を知ることができ、ミーメの奸計を見破る・・・。
 
 ワーグナーは当初、北欧神話の英雄であるシグルスの物語を題材とした「ジークフリートの死」」をもとにて着想したが、次第に構想がふくらみ現在の形となった。
 
 北欧系の古い伝説には、邪悪なドラゴンが登場し、英雄ジークフリートに退治されたという話がよく知られている。このドラゴンは、ファーブニル fevnir、ファフニール fefnirと呼ばれるもの。毒のあるドラゴンで、大地を震わせて歩く怪物。心臓に魔力があり、これを食べたジークフリートは鳥の声が理解できるようになり、アルベリッヒの罠にかからずにすんだ。また、ドラゴンを退治したときに浴びた返り血により、ジークフリートは刃を受けても傷つかない体になった、というもの。
 
 「指輪」や北欧伝説については、たくさんの資料を読んだが、にわか勉強の域を出ていないので、「リヒャルト・ワーグナー広場」駅で撮った写真が「指輪」と関連しているものか確信はない。
 
 今回の旅行では、ミラベル宮殿のマーブルルームの竜らしき絵、ホーフブルグ(王宮)のミヒャエル門の傍の噴水「海の力」、などの写真を撮り、「龍の謂れとかたち」に紹介している。ミヒャエル門のヘラクレスと竜の彫刻を見落としたことを後で知り残念に思っている。
 
 ヨーロッパにおける「竜」のは、英雄や、天使が退治する邪悪なものとして扱われている。モン・サン・ミシェルの僧院の尖塔にある、悪魔のシンボルである竜(ドラゴン)と戦う天使ミカエルの像などは代表的な例である。フランソワ1世がサラマンダーを王家の紋章として使用している例など珍しい。

 アメリカには龍の話は聞かないが、ヨーロッパと中国と日本にはたくさんあり、多すぎて手に終えない感がある。「龍」について論じるのは、しばらく待つこととする。

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■龍のコンサート三昧2006−【11】ベルリンとウィーンのコンサートホールとオペラハウス
 2006年の旅行では、ベルリンの「フィルハーモニー」でベルリンフィルを、ウィーンの「ムジークフェライン・ザール」でウィーンフィルを聞くことを目的とした。ウィーンのオペラハウスは見学のツアーに参加したが、他のいくつかについては外観を見るにとどまった。ベルリンとウィーンのコンサートホールとオペラハウスの主なものを紹介する。

【ベルリン】

 ベルリンには、2つのコンサートホールと3つのオペラハウスがある。ベルリンでは戦後東西に分断されたために、コンサートホールとオペラハウス、また、オーケストラについても複雑な事情が生じ、壁がなくなった後、種々の経緯を経て今日に至っている。

フィルハーモニー
 建設された当時、カラヤンのサーカス小屋と言われた、ベルリンフィルが本拠地とするコンサートホール。西側のコンサートホールとして、壁のすぐ近くに、地域の再開発の一環として作られた。このホールについては、メルマガIDNの第103号で詳細に紹介した。
 
玄関(舞台後方より見る)                玄関の反対側(主客席の後方より見る)

コンチェルトハウス ベルリン
 ベルリン交響楽団の本拠。このオーケストラは、クルト・ザンデルリンク指揮で知られていたが、最近ではインバル指揮で有名。ベルリン交響楽団は、ドイツ古典派・ロマン派をレパートリーとしているが、現代的な面も持っている。ベルリン交響楽団はコンチェルトハウスオーケストラ ベルリンと名称を変え、主席指揮者にローター・ザグロセクを迎えた。
<追記 07/01/07>
 ローター・ザグロセクは、前シュトゥットガルト歌劇場の音楽監督。オペラと幅広いレパートリーを持つ指揮者。2006年12月にN響を客演指揮している。

シュターツ・オパー:ベルリン国立歌劇場
 戦火で失われたウンター・デン・リンデン歌劇場。「菩提樹の下で」との愛称を持つ。戦後は東に位置した。現在の建物は1995年に再建。音楽監督はダニエル・バレンボイムである。(写真参照)
 2006年6月にベルリンを訪れたときは、ヴェルディの「運命の力」をバレンボイムの指揮で上演していた。オペラのすべてを見なくても、雰囲気だけでも味わうために行こうかと思ったが、体力を温存するために自重した。
 この歌劇場のオーケストラは、ベルリン・シュターツ・カペレといい、オットマール・スウィートナー指揮で以前にレコードがコロンビアから出ていた。スィートナーはわが国でも人気があり、ご本人も日本が好きで来日を希望されていたが、体調を悪くしてかなわなくなった。
 
コーミッシェ・オパー(ベルリン)
 旧東側に位置する、オペレッタなども上演する庶民的な劇場。ウィーンのフォルクス・オパーと比較されることもある。ベルリンのオペラハウスは、旧東西に各ひとつと思っていたが、その存在をはじめて知った。

ドイッチェ・オパー・ベルリン
 戦後ドイツ分割によって、上記のふたつのオペラハウスが東側に位置することになったため西側に新設された。最近の動きとしては、ベルリン市の補助金の削減を不満としてティーレマンが音楽監督を辞任した後、若手指揮者レナート・パルンボが就任した。古典的なオペラから実験的なオペラまで幅広い演目を取り上げている。
 実際に建物を見に行ったが、オペラハウスとは見えないシンプルな外観である。




【ウィーン】

 有名なコンサートホールを2つと国立オペラ座を紹介する。ウイーンのホールとしては、ウィーンオペレッタの本家フォルクスオパーと王宮にあるホールも紹介すべきであるが、今回は省略する。

ムジークフェライン・ザール:ウィーン樂友協会大ホール
 1870年に完成した世界で最も有名なコンサートホール。直方体の形状をした、「シューボックス(靴箱)」タイプの典型である。今回は、ポリーニのピアノリサイタルを聴き、ブレンデルのピアノとウィーンフィルの演奏を聴くことができた。
 
【第8回より転載】
 ウィーンのムジークフェラインザール(楽友協会大ホール)は1870年に完成している。ムジークフェラインは楽友協会の意、ザールはホールを意味する。
 幅20M、長さ36M、高さ17.4Mの直方体の形状をしており、「シューボックス(靴箱)」タイプの典型である。客席数は1,680席であり、ホールとしては大きいほうではない。(ちなみに、サントリーホール:2,006席、東京文化会館:2,300席、ベルリンのフィルハーモニー:2,200席)。残響時間は2秒(500Hz 満席時)と長いほうである。伝統あるホールとして、ボストンのホールに近い雰囲気を持っているように感じた。

コンチェルトハウス ウィーン 
 1913年に完成、1998〜2000年に抜本的に改修されたウィーンの有名なコンサートホール。コンチェルトハウスには、大ホール、モーツァルトホール、シューベルトホール、シェーンベルクホール、新ホールなど5つのホールとたくさんのリハーサル室がある。(写真参照)
 現在はウィーン交響楽団の本拠で、年間を通じてウィーン交響楽団による多くのコンサートが催される。ウィーン芸術週間音楽祭など、重要なフェスティバルも、ここで開催される。
 ウイーン交響楽団は演目に現代音楽も取り上げており、過去には、ストラビンスキー、バルトーク、ベルクなどが自作品のウイーン初演を行っている。
 
シュターツ・オパー:ウィーン国立オペラ座
 初期オペラハウスは、1869年に落成し、宮廷歌劇場としてオープン。1918年にオペラ座と改名される。第2次世界大戦で戦災を受け崩壊したが、1955年に復活。マーラー、R・シュトラウス、ベーム、カラヤンなどの指揮者により黄金時代を迎え、マゼール、アッバードに引き継がれた。
(このホールの見学ツアーの様子はメルマガIDN第106号に書いています)
 
 今回は2つのホールへは実際に行き、ひとつはツアーに参加したが、他については入り口まで行き演奏会の状況を想像するほかなかった。これらのホールとオーケストラを実際に体験するためには、長期に滞在するか、何回もこの地を訪れるしかない。ホールとオーケストラをセットで聴きたいという願いは叶えられそうにない。

【オペラ座のツアー:第6回より転載】
 ウィーンのオペラ座では見学のツアーに参加することが出来た。初期オペラハウスは、新都市計画に基づいたリング通りに面して1869年に落成し、宮廷歌劇場としてオープン(2280席のうち567席を立ち見席がしめる)。こけらおとしに、モーツアルトの「ドン・ジョバンニ」が演じられた。1918年にオペラ座と改名される。第2次世界大戦で戦災を受け崩壊したが、1955年に復活。ベーム、カラヤンなどの指揮者により黄金時代を迎え、マゼール、アッバードがこれに続く。 

 ツアーは、希望する言語別にグループが編成される。日本語のツアーもあるらしいが、当日にはないので英語のグループに加わる。英語グループの大半は、正面玄関の大理石の階段に座り込んで、街を歩いた疲れを癒しながらツアーが始まるのを待った。案内の女性が現れて客席の平土間(1階)へ案内してくれる。客席に座って説明を聞いた後、貴賓の間、タピストリー・ルーム(西側)、古い装飾のホワイエ、東のホワイエを歩き、メインロビーの階段の上部の吹き抜けを2階より見て、大理石の階段を下りてロビーへ戻りツアーは終了。

 オペラ座へ初めて行ったときは、開始前や幕間にロビーやホワイエを歩き回ることが多い。ウィーンのオペラ座の中部は一通り見たことになる。もちろん、内装の豪華さや華やかさは、オペラが上演されている日に、照明がすべて点灯されて、お客がいる時でないと本当の雰囲気はわからない。

Google Earthで再びウィーンを訪れた
 余談であるが、Google Earthで再びウィーンを訪れたお話。地球を一瞬のうちに跨ぎ、ウィーンの上空に至り、880メートルの高度まで降りて位置を定めると、ムジークフェライン・ザールを中央に北西方向にシュターツオパー、ほぼ東にコンチェルトハウスをひとつの画面に見ることができる。
 現地ではホールの正面や側面の雰囲気のすばらしさにに見とれていたが、400メートルまで高度を下げると、鳥瞰図としての建物の平面形状をはっきりと見ることができる。どれも均整のとれたきれいな形をしているのに改めて感動した。
 実際に現地へ行くというリアルの体験をしたから、バーチャルとしてのGoogle Earthのすばらしさを感じることができるのであろう。


左上:シュターツオパー  中央:ムジークフェライン・ザール  右下:コンチェルトハウス