編集後記集
【メルマガIDN 第131号 070917】

■景徳鎮千年展をみた~伊万里とのかかわりを知る~
 渋谷の2つの美術館で中国と朝鮮の焼き物の展覧会が同時期に開催されている。一つは戸栗美術館の『開館20周年記念戸栗美術館名品展Ⅱ-中国・朝鮮陶磁-』。今回は、伊万里と景徳鎮のかかわりを知りたくて、松涛美術館の『景徳鎮千年展  皇帝の器から毛沢東の食器まで』の第1部の「磁都 景徳鎮歴代官窯の器」を中心に見た。この展覧会では第2部の「7501-毛沢東の器」も本邦初公開で力が入れられていた。
 
<伊万里から見た景徳鎮>
 伊万里の歴史をさかのぼると、17世紀の中ごろに景徳鎮とのかかわりを示した記述が登場する。中国の景徳鎮窯の磁器生産が17世紀の中ごろに中断することになった時、オランダ連合東インド会社(VOC)は、中国の影響を受けながらも独自の美的世界を展開した、有田で作られた磁器をヨーロッパの王侯貴族に届けるために買い付けた。
 1670年頃には柿右衛門様式が出来上がり、ヨーロッパでも人気を博した。以降、オランダの東洋貿易の隆盛によりアムステルダムに集められた東洋磁器は、ヨーロッパ各国の王室や封建領主の居城を飾るために各地に流れていった。
 これが、伊万里から見た景徳鎮である。今回は、17世紀の中ごろに一つのポイントを置きながら、その前後の景徳鎮を一千年スパンで概観し作品を見た。
 
<景徳鎮の一千年>
 第1部の「磁都 景徳鎮歴代官窯の器」では、一千年の長い歴史に沿って、バランスよく優品が展示されている。大部分は台北の鴻禧美術館から、一部は上海美術館から貸し出されたものである。そして中国企業のMEKホールディングスが特別協力している。
 松涛美術館で求めた図録『景徳鎮千年展』の中に、今井 敦氏(東博特別展室長)が「景徳鎮千年の歴史」を書いている。図録の解説も参考にしながら概観してみる。

 景徳鎮は江西省の東北部に位置する。五代(907-960)には青磁や白磁の生産が始まっており、北総時代の景徳元年(1004年)に時の年号にちなんで景徳鎮と名づけられた。景徳鎮は北宋時代(960-1126)に地歩を固め、最初期に青磁と白磁が焼かれ、11世紀の中ごろに青白磁が完成する。

 元時代(1271-1368)には新しいタイプの白磁が焼かれるようになり、元時代の後期にはコバルトを含んだ顔料で鮮やかな藍色の文様を表す、釉下彩の技法による青花磁器が好まれるようになる。

 明時代(1368-1662)の前半では、繊細な文様の青花磁器、銅を含んだ顔料で文様を描き赤い発色を得る釉裏紅、豆彩(釉下彩である青花で文様の輪郭線を描き、一旦焼成し上絵の具で彩色を施し、再度焼き付ける手法)、などが登場する。

 明時代の後期(1522-1566)には、五彩磁器の焼造が盛んになる。五彩とは、いったん高温で白磁を焼成した後に上絵の具で文様を描き錦窯で低火度で焼き付ける釉上彩、すなわち上絵付けの技法。
 景徳鎮では元の時代「から五彩が焼かれて板が、15世紀末より景徳鎮民窯において大量の五彩が焼かれるようになる。日本では古赤絵と呼ばれている。明時代の後期には青花が大量に輸出されていたが、16世紀よりヨーロッパが新たな市場に加わる。

 清時代(1616-1912)には、清朝官窯は宮廷の絶大な庇護の下に、青花、釉裏紅、五彩、豆彩などが民時代より引き続き行われている。精緻な文様が慎重な筆遣いで描かれている。また素三彩、無線七宝、夾彩などの手法も登場する。また清時代の官窯では、さまざまな色の釉薬が開発され色釉薬と総称されている。
 
図録の表紙と部分拡大
<景徳鎮と伊万里>
 写真に示す「五彩龍鳳文蒜頭瓶(ごさいりゅうほうもんさんとうへい)」は大明万暦年製と記されており、16世紀末から17世紀にかけて焼かれたものと推測してよいであろう。柿右衛門様式が出来上がったのが1670年頃とされており、景徳鎮の技術が17世紀半ばに伝えられ、伊万里の色絵磁器が生まれ、日本独自の世界を開いていった。
 また、景徳鎮窯の磁器の技術が成熟した17世紀の中ごろに生産が中断する時期に柿右衛門様式が出来上がり、後に金襴手もヨーロッパへ大量に輸出された、という経緯についても理解できた。

 磁器誕生の初期伊万里=磁器に彩をもたらした古九谷様式=世界へ羽ばたいた柿右衛門様式=赤を主とした色絵と金彩の金襴手が加わり=洗練され極められた鍋島、と伊万里の変遷を一応このように理解したうえで、景徳鎮千年を見た。
 景徳鎮千年については、図録の解説を見ながらそれぞれの磁器を見てゆくと、色使いの変化や、おおらかな文様がだんだん精緻になってゆく変化など興味深く見ることが出来た。
 メルマガIDNの86号~89号と114号の編集後記に伊万里について書いています。【生部】

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