龍のコンサート三昧2010
【メルマガIDN編集後記 第194号 100515】

龍のコンサート三昧2010 【その4】ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の演奏会を聴く
 2010年3月12日、ミュンヘン中央駅11時19分発の国際特急(ICE)で極寒のミュンヘンを後にし、同日の16時頃にライプツィヒ中央駅に到着。現地のガイドのFさんの案内で、当日の宿泊予定のホテル《ウエスティンライプツィヒ》へ歩いて行った。
 チェックインを終えて、6時から夕食、その後、コンサートに出発することを確認して部屋へ。ホテルは市街の北側に位置しており、14階の南に面した窓からはライプツィヒの街並みを一望することが出来た。

 眼下には、再開発をされている地域が広がっており、《造形博物館》と思われる近代的な建物が見下ろせた。地図と市街地の様子を重ねてみると、右方向の先には、トーマス教会とその塔がはっきりと見え、左方向には、ニコライ教会や、オペラハウス、その夜にコンサートが予定されているゲバントハウスも遠望することが出来た。

演奏会場のゲヴァントハウスへ
 夕食の後、7時15分にバスで出発。アウグストゥス広場にある演奏会場のゲヴァントハウスへ向かった。広場の中央の道路でバスを降りて、ガラス張りのゲヴァントハウスの正面を見る。建物の中はライトアップされており、壁面いっぱいに広がる壁画に驚く。
 ロビーに入り、もぎりを通って左側の階段を上がり、廊下を歩いて客席に入り、いつものように自分の席を探す。

初代のゲヴァントハウス(1781-1894) 
【ゲヴァントハウスのロビーに展示されていた模型】



2代のゲヴァントハウス(1884-1944)
【ゲヴァントハウスのロビーに展示されていた模型】


現在(3代)のゲヴァントハウス(1981-)  正面夜景
【写真をクリックすると拡大します】


現在のゲヴァントハウス(1981-)  平面図
【ゲヴァントハウスのロビーに展示されていた説明パネルより】


 
指揮者のジェラード・コルステンとマリー=エリザベス・ヘッカー
【当日のプログラムより】


初代と2代目のゲヴァントハウス

 自分の席が見つかって落ち着いたところで、歴代のゲヴァントハウスの展示を見に行った。ロビーには初代から現在(3代目)のゲバントハウスが、パネルと模型で展示してある。

 1781年11月に、大学通りのゲヴァントハウス(織物の見本市会場として使われていた建物)へ演奏会場を移し、初代カペルマイスター ヨハン・アダム・ヒラーのもとでコンサートが開かれた。これが初代のゲバントハウス(1781-1894)となり、この会場名が楽団名の由来となった。

 1884年12月にグラッシ通りに2代目の新ゲバントハウス(1884-1944)が完成し、当時のカペルマイスター ライネッケの指揮で、オープニングコンサートが開かれた。この2代目のゲヴァントハウスは、1944年2月の第2次世界大戦の空襲により焼失した。
 初代と2代目のゲヴァントハウスのホールの形状はシューボックスタイプで、音響は特に優れており、Sabineがボストンシンフォニーホールを設計する時に参考にしたといわれている。

現在の演奏会場は3代目のゲヴァントハウス
 第3代目の現ゲヴァントハウスは、ルドルフ・スコダを建築監督とした建築チームと当時のゲヴァントハウスのカペルマイスターであったクルト・マズアとの協力により建設が進められ、1981年11にオープンした。3代目のホールの形状はワインヤードタイプ(演奏席の周辺に客席を配置)であり、客席数は1900席。ここには、498席の小ホールも併設されている。

 大ホールのメインロビーにある3フロアーにまたがる大壁画は、ライプツィヒ大学芸術学部のギレ教授の《人生歌》と題の作品で、712平方メートルもの面積がある。

ゲヴァントハウス管弦楽団に興味を持ったのは、1960年代のはじめ頃
 私がゲヴァントハウス管弦楽団に興味を持ったのは、1960年代のはじめ。私がまだ学生だった頃に、FMの実験放送を行っていたFM東海(現在、TOKYO FM)の放送のモニターをやったことがある。モニターの仕事は、月に何回か放送を聴いて、レポートを提出し、時々、虎ノ門にあるFM東海に集まってミーティングに参加することだった。
 フランツ・コンヴィツュニー指揮のライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の演奏する、ブラームスの《交響曲第一番》を聴いて感動したことをレポートしたことがある。若い頃のことだから忘れないのか、感動が大きかったのかわからないけど、記憶に残っている。

ゲヴァントハウス管弦楽団に登場した指揮者たち
 このオーケストラの歴史は古く、1835年 にメンデルスゾーンがカペルマイスターに就任し黄金期を迎えた。メンデルスゾーンは、バッハの死後忘れ去られていた《マタイ受難曲》を100年ぶりに演奏し、バッハを再認識させたことでも知られている。
 第2代の新ゲヴァントハウスでは、ニキシュ、フルトヴェングラー、ワルター、アーベントロートといった著名な指揮者が活躍し、第二の黄金時代を迎えた。
 1949年 フランツ・コンヴィチュニーがカペルマイスターに就任。1961年には、コンヴィチュニーが率いるゲヴァントハウス管弦楽団が初来日して、ベートーヴェンの交響曲全曲演奏などを行っている。

 最近では、1970年にクルト・マズアがカペルマイスターに就任。1998年 にヘルベルト・ブロムシュテット、2005年 にリッカルド・シャイーがカペルマイスター(第19代)に就任している。

ゲヴァントハウス管弦楽団の演奏を聴く
 歴代のゲヴァントハウスの展示を熱心に見ていたが、演奏開始時間が来て、自分の席に戻る。演奏者たちが登場し、チューニングを行い、指揮者のジェラード・コルステンが現れて、最初の曲ハイドンの《交響曲第94番 驚愕》の演奏が始まる。
 席は下手(左側)の前から3番目で、指揮者の横顔を見ながら、第一バイオリンの後ろのほうの演奏者の直接音ばかりが大きく、見えないところの上方から管楽器の音が聞こえてくる状況では、音響の良し悪しの判断は全く出来なかった。

チェロ奏者 マリー=エリザベス・ヘッカー
 2曲目は、若き女性のチェロ奏者 マリー=エリザベス・ヘッカーをソリストに迎えたエルガーの《チェロ協奏曲》。マリー=エリザベート・ヘッカーは1987年3月にシューマンの生誕地であるドイツ北東部のツヴィッカウ(Zwickau)で生まれた。1992年の5歳のときにツヴィッカウのロベルト・シューマン音楽院でチェロの勉強を始めた。
 2005年に"でピーター・ブランズ(Peter Bruns)のもとでチェロの勉強を続けるためにライプツィヒに移り住む。
 彼女は2005年11月にパリで開催された国際ロストロポーヴィッチ チェロコンクール(4年ごとに開催)で大賞と2つの特別賞を受賞した。3賞を受賞したのは、30年に及ぶこのコンクールの歴史で初めてのことだった。

 美人の若いチェロ奏者といえば、イギリス出身の夭折の天才チェリストとして名高いジャクリーヌ・デュプレ(1945 - 1987)が思い出される。デュプレは、16歳のときにエルガーのチェロ協奏曲を録音し、歴史的名盤との評価を得た。同じくエルガーを弾いたヘッカーがデュプレの再来となるか、興味のあるところである。

 休憩時間をはさんで、カレル・ライネッケの《歌劇マンフレッド王序曲》とメンデルスゾーンの《交響曲第1番》が演奏され、10時過ぎに演奏会が終了。
 小雨のアウグストゥス広場より、ライプアップされた壁画を振り返って見ながら、迎えのバスに乗った。高齢ではあるが元気で活躍しているクルト・マズアか、熱血漢の指揮者のリッカルド・シャイーの指揮で聴くことが出来たら良かったのにと、ホテルへ着くまでの短い時間に思った。

エピローグ
 フランツ・コンヴィツュニー指揮、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の演奏する、ブラームスの《交響曲第一番》は、音楽の友社の『クラシック・レコード総目録』にも載っていなかった。しかし、今回ネットで調べてみると、「62年のレコードで、この1枚は、コンヴィチュニーのボックスセットにも入ってないし、国内ではCD化されていない様子で、ジャケットにはDDRとあるから、旧東ドイツプレスということになる」と紹介されており、ジャケットの写真も見ることが出来る。もう一度このレコードを聴いてみたいと思う。

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