小田島雄志のユーモア

【メルマガIDN編集後記 第224号 110815】

 2011年7月の日本経済新聞に、小田島雄志氏の『私の履歴書』が掲載された。小田島雄志氏の経歴は以下に示すとおりであり、本来、氏のシェイクスピアや演劇への造詣について述べるべきであるが、今回の履歴書で、本業のかたわら《駄ジャレの名人》としても鳴らしておられる先生について紹介したい。
 大先生をネタに、編集後記を安易に済まそうということだが、この暑さで、一文をまとめることをサボることをお許し願って、真夏の夜を笑いで吹き飛ばしてもらったら幸いである。

小田島雄志氏プロフィール
 國學院大學兼任講師、津田塾大学専任講師の後、1968年より東京大学教養学部講師となり、助教授、教授として活躍。定年後は文京女子短期大学教授を勤めた。東京大学名誉教授、東京芸術劇場館長を務める。
 『シェイクスピア全集』で、坪内逍遥に続いてシェイクスピアの全戯曲を翻訳し、1980年に芸術選奨文部大臣賞を受賞。1995年に紫綬褒章を受章、2002年に文化功労者に選ばれる。2008年に新人を対象に小田島雄志翻訳戯曲賞が制定された。

肩書は名誉教授でなく「日本演劇界名誉観客」
「ぼく」をひとことで言えば「芝居好き」。シェイクスピアの全戯曲の翻訳を終えて以降、ここ十数年は、毎月30本以上の舞台を見てきた。

ある芝居の場つなぎに出てきた老夫婦の会話
おじいさんが空を見上げて、「今夜は月がきれいだなあ」と言うと、おばあさんがチラッと上に向けた目をすぐおろして、「あんたってお金がなくなると詩人になるのね」。ああ、人間ってそんなもんだな、とぼくは思った。

その話を、都はるみさんにして、ついでに、「ぼくは風呂に入ると歌手になるんだ」と言ったら、はるみさんは、「私は歌っていると、ときどき(歌詞が出てこなくて、とっさに)作詞家になるの」と応じてくれた。

僕は百万長者なのである
死を前にして人生を振り返ったとき、おれはしあわせだったと感じ入るのは、金や名誉ではなく、おれはこんなに笑ったり泣いたりしたぞ、という喜怒哀楽の情の総量によってだ。

My father is my motherの日本語訳をせよ
1961年当時 期末試験の答案に女子学生が書いた、「私たちだけテストされるのはしゃくなので、こちらからも先生に問題を出します。次の英文を和訳せよ。考える時間は5分、正解裏」。
僕は正直に5分考え、ハムレットの「父と母は夫と妻、夫と妻は一心同体」(第4幕第3場)というセルフまでは思いついてもわからず、裏の正解を見る。「わたしの父はわがままです」。

学生の頃、試験がまったく出来なくて答案用紙に、「道すがら おぼえし事は みな忘れ 答案用紙に 落ちる涙滴」と書いて 出しました、ふるき よき時代 て事ですかねー!

奥さんは気さくな人
高橋道先輩、「若子さんがうちにきてくれたとき、店屋物とるけどなにがいい? と聞くと、ふつうならきどって、おすし、とか言うところが、私カツ丼、つて。いいなあ、と思って……」。奥さんの性格を現し、奥さんを自慢している?。

年より老けて見えた
東宝演劇部にいた大河内豪(ぼくより4歳下の畏友)が京大の卒論を書くときこの本を読み、小田島って人もきっと岩崎さん(実はぼくより20歳以上大先輩)と同じ年ごろの人だろう、と思って、会ってみたらやっぱり思ったとおりだった、とぬかした。もちろん、ぼくの髪の薄さをからかっての発言である。

鶴の中に掃き溜めがおりるような
国学院大学から津田塾大学の講師になった話。 ・・・小津次郎先生にあいさつに行くと、先生曰く、「小田島が津田に行くというのは、鶴の中に掃き溜めがおりるようなもんやな」・・・・と。これは小田島大先生だから言えること。

60年安保のころの話
デモ行進をしている最中に、路傍から「小田島ァ!」という蛮声が飛んできた。国学院の元同僚たちが立っていた。後で沢崎によく見つけたなというと、「津田が来のできれいだなと思っていたら、突然目にゴミが入ったようなような気がして、よく見たら小田島だった」。

佐世保時代に方言に苦労した
駅前の看板のおかしさがわかるようになった、という話が続く。2枚並んであったというその看板の文字とは、「岡歯科=オカシカ」、「歯科田中=シカタナカ(仕方なか)」。九州生まれの生部にはよく理解ができる。

顧問に必要なのはコモン・センス
66年に文学座・文芸部顧問になった。その席で何かを聞かれたら「顧問に必要なのはコモン・センス」と応えるつもりだったが、何も聞かれなかった。

今日の用をなさぬのに教養学部とはこれいかに
62年ころ、助教授に昇進したころの話。学級新聞に寄稿をたのまれ、駄ジャレ・アフォリズムを書いた。
「今日の用をなさぬのに教養学部とはこれいかに? 女性を享受できないのに助教授というがごとし」。これには、お粗末と書いてあった。

杉村春子の文学座の稽古場でのささやかな思いで
《シラノ・ド・ベルジュラック》のバルコニーシーンのあとの休憩になると、杉村春子さんが、上気したロクサーヌの顔のまま近づいてきた。「私、女優をしていてよかった」、「?」、「だって、女優をしていないとこんな素敵なことばで恋をささやかれることなんてないもの」。かわいいとの感想。

ザインはドイツ語で《存在》を意味する
67年に顧問がとれて文学座の座員になった。座員 ザインはドイツ語で《存在》を意味する。存在を示すために、手弁当でシェイクスピア研究会を始めた。

山から谷に降りるのは、仙人から俗人になること
軽井沢にこもって劇作に励んでいるはずの宮本研さんが、渋谷の飲み屋に入ってきて、コースターに「山・谷」と書き、双方に「にんべん」をつけて言った。山から谷に降りるのは、仙人から俗人になること。

孫の創志さんは天才
孫の創志さんが小学校3年(九歳)の時、氏の古希を祝う会で、「ゆず風呂に 浮かんでいる よしあわせが」と詠んだ。五七五の頭に「ゆうし」と名前を織り込んだ。市川森一さんが、「これで九歳だよ」と感心すると、A記者が、「九歳でなく天才って言うんですよ」。父の恒志さんが曰く「十(テン)歳になるのは来年です」。

胃を切って いのちののちを 思う秋
人間ドックで肉腫が見つかり、教え子の名医松原敏樹先生にむずかしいオペをまかせ、オペのあとの一句。(「いのち」の「い」を切ると、「のち」。駄ジャレ句)。これは最終回に披露されている。

エピローグ福田恆存と小田島雄志
 最後は、少し真面目なお話。2011年7月21日の日経新聞の夕刊に、竹内 洋氏のコラム「戦後日本のカリスマ思想家」で福田恆存を取り上げている。
 この中から引用してみる。「声高に迫る品のない自己主張は、相手を動かすことはできない。自己満足にすぎないことが多い。教養ある人だけが節度を持った自己主張ができる。武器となるのがユーモアである。ユーモアはその人の教養を物語る」(『私の幸福論』)。 別のところでは、「真面目」は腐ったり、堕落しやすいが、「冗談」(演技)は腐らない、とも言っている。

 福田恆存が小田島雄志氏を知る由もないが、小田島雄志氏のような、シェイクスピアの後継者が現れて喜んでいるのではないだろうか。