安部龍太郎の新聞小説『等伯』と《長谷川等伯と狩野派》展

【メルマガIDN編集後記 第230号 111115】

 2010年には、長谷川等伯(1539~1610)の没後400年を迎え、2月から3月にかけて東京国立博物館では、等伯の全貌に迫る特別展が開催され、等伯の芸術の魅力がより広く紹介された。現在も多くの人びとの関心を集め続けている。そんな中、この秋から出光美術館で開催されている《長谷川等伯と狩野派展(2011年10月29日~12月18日)》を見に行った。
 2011年1月22日から安部龍太郎の『等伯』が日本経済新聞の朝刊に連載されており、物語は丁度、狩野派全盛の時代に、等伯が独創的な表現を試みて狩野派に対抗しようとして苦悩するところにさしかかっている。
 小説の中で息づいているのは安部龍太郎がイメージする等伯であるが、その等伯と一派による作品と狩野派の作品を比較してみることができたのは楽しい経験だった。

安部龍太郎の新聞小説『等伯』
 安部龍太郎は1955年、福岡県八女市生まれ。2005年に『天馬、翔ける』で中山義秀文学賞を受賞している。1999年から2001年に日本経済新聞夕刊に『信長燃ゆ』を連載した。この連載も読んだが、豊富な史料をもとに時代背景の中で独特な物語を創るのが得意な作家であるといえよう。

<連載にあたって作者の言葉>
 等伯が上洛(じょうらく)した歳と同じ33でデビューをはたした安部龍太郎は、いつか長谷川等伯を描きたいと、等伯の出身地である能登の生まれで『等伯』の挿絵を担当している西のぼると前々から話していたそうである。没後400年を過ぎたばかりの年に、このように晴れやかな舞台で腕をふるう機会を与えていただいたことに、望外の歓(よろこ)びを感じている。《松林図》でピークを迎える等伯の画業と波乱に満ちた生涯を描ききれるように、作家生命のすべてを注ぎたい、と意気込みを語っている。

<『等伯』のあらすじ>
 安土桃山時代から江戸初期にかけて活躍した長谷川等伯がこの小説の主人公。戦国の世にあって「天下一の絵師になる」という夢を抱き画業に打ち込んだ等伯の生涯が、歴史的事件を背景に描かれている。

 等伯(長谷川信春)は能登国七尾で畠山家の家臣の家に生まれた。養子に入った地方絵師の家業を継ぐ。元亀2年(1571年)、等伯が33歳の時に、実家の主筋にあたる畠山家に絡む事件で養父母が亡くなり、故郷を追われ、妻子をつれて上洛する。途中、信長の延暦寺焼き打ちに巻き込まれて、織田家の武将を殺傷したために追われる身になり、都の片隅で扇に絵を描いて糊口をしのぐ。

 本能寺の変で信長の時代が終わり、近衛前久の引き立てなどもあって絵師として頭角を現して、若き永徳(1543~90)を当主として権勢を誇っている狩野派と並び立つまでの力をつける。小説では、等伯が利休や秀吉と交わるシーンも書かれている。

 小説は290回を数え、等伯が40代から50代になり、聚楽第の二の丸の対面所の絵を完成させたあと、大徳寺の三門(楼門)の2階の内部の壁画の仕事の受注を永徳と競うところが進行中である。

 京都・智積院(旧祥雲寺)の金碧障壁画《楓図壁貼付》や、良き理解者であった千利休が自刃、等伯の片腕となって制作にあたった息子の久蔵が26歳の若さで亡くなり、その悲しみを背負って水墨画の最高峰と称される《松林図屏風(東京国立博物館)》を描くのはこれからのお話。

長谷川等伯と狩野派展 開催案内


等伯筆 竹鶴図屏風(左隻)


長谷川派 柳橋水車図屏風(右隻)

【写真は展覧会のチラシより】


《長谷川等伯と狩野派》展
 本展覧会では、完成度の高い華麗な様式美をそなえ、信長や秀吉ら時の権力者の支持を得ていた狩野派の絵画と、幅広い古典学習から自由で独創的な表現を試みた等伯とその一門の絵画が展示されている。両画派の絵画様式の特徴や差異、親近性など狩野派との関係から等伯を鑑賞することができる。展示は4つのコーナーで構成されている。

<1狩野派の全盛>
 秀吉や信長などの絶大な支持を得た狩野派は、桃山時代以降、全盛の時代を迎える。次代の元信が創った明快かつ端正な画風は、次世代以降にも守り伝えられ、狩野派特有の完成度の高い安定した様式美の基礎となった。
 このコーナーでは、御用絵師ならではのすぐれた構成力を生かした、典雅な狩野派絵画の世界を見る。

<2等伯の芸術>
 大組織の画派として伝統や統制を重んじる狩野派とは異なり、等伯は自己の興味に従い、幅広い古典絵画を研究して、その知識に基づきながらも独創的な表現を試みた画家だった。等伯は狩野派を意識し、学びながらも、それとは異なる独自の絵画を描こうと研鑽を重ねた。
 このコーナーでは、等伯芸術のルーツや独創性が、狩野派との関係にも触れながら紹介されている。

<3長谷川派と狩野派 親近する表現>
 対立する関係にあった狩野派と長谷川派だが、両画派の絵画表現には、親近する特徴を見いだすこともある。
 このコーナーでは、両派の作品を比較展示し、互いを強く意識するが故に、相手の表現を学び、独自の表現へ高めようとした、両画派の親近性に注目している。

<4やまと絵への傾倒>
 等伯は情趣豊かな《やまと絵》を積極的に学んでいる。このコーナーでは、等伯がやまと絵についても深い関心を示していたことなどを紹介している。

展覧会の印象
 本展覧会では、第2コーナーを注意深く見た。等伯は中国南宋の画僧・牧谿(もっけい)の精妙な自然描写に衝撃を受け、牧谿の筆法を完全に会得するまで、何度も繰り返し描いていたという。
 牧谿筆《平沙落雁図》が展示してあるが、等伯はここから光と大気の気配を学び、その成果が《松林図屏風》を描くのに生かされた。

 牧谿に学んだ能阿弥筆の《四季花鳥図屏風》にはたくさんの画題が描きこんであり、見ていてにぎやかで楽しい絵である。
 等伯は能阿弥についても学んだが、等伯の絵は、単純化され、空間が広く取られた構成となり、独自の世界を創っている。

 等伯筆の《竹鶴図屏風》と《松に鴉・柳に白鷺図屏風》がこのコーナーの見どころであるが、絵の中の、竹や鳥の羽、くちばし、爪などの描き方の筆づかいの勢いとキレの良さに、武家を出自とする等伯の特長を見た。

エピローグ
 今回の記述には、現地の展覧会の説明用のパネル、出光美術館のホームページ、および日本経済新聞(10月28日)を参考にした。
 本展覧会では、長谷川派と狩野派の対比と近似性という、従来あまり着目されなかった側面に光を当てたので仕方ないかもしれないが、等伯自身が描いた作品は、《竹虎図屏風》と先に示した2点を加えて3点しかないのが残念だった。
 来年3月から東京国立博物館で開催される《ボストン美術館 日本美術の秘宝》展のチラシに、等伯の《龍虎図屏風》が紹介されている。この展覧会も楽しみに待つことにする。
 なお、今回の展覧会では《工芸》として、22点の陶磁器が展示されている。その中で、古九谷(いずれも江戸時代前期)の花鳥文、梅菊水仙文、菊蝶文の鉢や皿が、私のお気に入りだったことを付け加えておきたい。