大宅壮一マスコミ塾の第9期の会~小説『坂の上の雲』と旅順攻略の史実~

【メルマガIDN編集後記 第231号 111201】

 毎年11月23日の休日には、大宅壮一マスコミ塾の第9期の会で、鎌倉の瑞泉寺で大宅家の墓にお参りをし、瑞泉寺の近くにある中華料理店《凜林(りんりん)》の2階を借り切って昼食をとり、講師を迎えてお話を聞き勉強する。
 例年は、鎌倉駅に集合し、皆と共に歩いて瑞泉寺に向かうが、今年(2011)は、早めに鎌倉へ行き、本覚寺の手水舎と鐘楼の龍、報国寺の向拝の龍の写真を撮り、瑞泉寺に歩いて墓参に合流した。

 今年のメインは、原 剛氏による《児玉・乃木・秋山兄弟~『坂の上の雲』の旅順攻略~》という講演だった。原氏は自衛隊から防衛庁防衛研究所戦史部に勤務した方。12月4日より放映されるNHKのTVドラマ『坂の上の雲』の第3部の制作において、日本軍(主に帝国陸軍)の立場よりのシナリオなどの軍事考証を行なった。 講演では、撮影に立会った経験を交えながら、小説『坂の上の雲』の旅順攻略戦における史実との相違点についての講演があった。


瑞泉寺  大宅家のお墓がある



大宅家の墓に墓参した



凜林の2階を借り切って講演と昼食会



歴史街道 2011年11月号

講師の原 剛氏
 香川県出身。県立観音寺第一高校卒業。1960年(昭和35年)防衛大学校本科卒業(第4期生)。陸上自衛隊第10・28普通科連隊に勤務後、防衛大学校、陸上自衛隊少年工科学校、陸上自衛隊幹部候補生学校教官を歴任。1980年(昭和55年)より防衛庁防衛研究所戦史部所員。1991年に自衛官を退官後、教官として防衛研究所戦史部勤務、1998年定年退官し非常勤調査員として戦史部に勤務。現在は軍事史学会の副会長。

司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』
 小説『坂の上の雲』は、1968年(昭和43年)から1972年(昭和47年)にかけ産経新聞に連載された司馬遼太郎の長編歴史小説で、司馬の代表作のひとつとされる。
 小説では、秋山好古、秋山真之の兄弟と、正岡子規の3人を主人公に、松山出身の若い3人が維新を経て近代国家の仲間入りをしたばかりの明治時代という近代日本の勃興期を駆け抜ける生き様が描かれている。

 後半は、日露戦争の描写が中心となり、主人公である秋山兄弟の他に児玉源太郎、東郷平八郎、乃木希典などの将官が登場。各戦闘で主要な役割を果たした師団の戦いも書かれ、最後は日本海海戦でクライマックスを迎える。

NHKのスペシャルドラマ『坂の上の雲』
 本作はNHKが2009年度から3年間の中期経営計画として製作する大型プロジェクト《プロジェクトJAPAN》の一環と位置づけられて制作された。第1部は 2009年に5回、第2部は2010年に4回放映され、第3部は2011年12月4日から4回が予定され、全13回の構成になっている。

 本作の映像化については、多くの要請があったが、「戦争賛美と誤解される、作品のスケールを描ききれない」として司馬は許可しなかった。NHKでの映像化については、原作に忠実にするとの条件で実現した。
 ドラマとしては、誇張した部分、原作にない場面の挿入、原作の主張を修正した部分など、関係者の工夫や、若手ディレクターの思いが込められている。2011年に放映される分については、昨年中に撮影を完了し、今年は編集作業にあてられたという。ちなみに、旅順のシーンは函館で撮影されたとのこと。

旅順攻略戦における誤認識や史実と異なる点がある
 大宅壮一マスコミ塾の9期の会での原 剛氏の講演は、物語の後半の旅順攻略戦における史実と小説の相違点を中心に話が進められた。
 旅順攻撃を担当した乃木希典およびその配下の参謀たちが能力的に劣っていたために多大な犠牲を強いることになったとする司馬の見解については、賛否両論がある。
 原氏は、戦史研究の立場より見ると事実誤認が少なくない、特に乃木希典率いる第三軍の旅順攻攻囲戦の描写は日本人に誤ったイメージを与えたと主張。講演では、具体的にいくつかの例を示しながら話が進められた。

<旅順要塞の攻略>
(誤):海軍は最初から陸軍を援助不要とし、奇襲攻撃、湾口閉塞、湊外からの間接射撃でロシア艦隊を撃破、撃破できなくても艦隊が港外に出てくれば艦隊決戦で撃滅する
(正):海軍の奇襲・閉塞・間接射撃の成果なく、3月に陸軍は独自で旅順要塞攻略を決定し、5月に第3軍を編成して旅順攻略を準備
(誤):海軍は7月12日、陸軍に旅順攻略を要請。しかも早期攻略を要請
(正):要塞の状況がよくわからないまま強襲攻撃し、失敗

<攻撃正面は東北正面か西北(二〇三高地)正面か>
(誤):二〇三高地に最初に着目したのは秋山真之であり、最初から同高地攻撃を主張していた
(正):秋山が二〇三高地を言い出すのは、第三回攻撃の前の11月6日である。二〇三高地に最初に着目したのは、第一師団長の星野大佐である

 原氏の講演と『歴史街道 2011年11月号』へ寄稿された内容を合わせて理解すると、原氏の見解は以下のごとくである。

 司馬は、秋山真之を過大評価する半面、乃木を過小評価し、かなり感情的に描いている。明治天皇がほとんど描かれていない、後に軍神とされた橘 周太についても表現が少ないのは、司馬が天皇や軍神を精神主義の象徴として嫌悪するためで、それゆえ軍神とされた乃木を《愚将》と貶めた。

 司馬は「40代の10年間を費やしてフィクションを廃して書いた」と言い、神田の古本店で膨大な資料を買い求めて書いた、というが史実と異なる点がある。それは、雑誌・新聞などの巷説や風説などを巧みに用いて興味を喚起したことによるのではないか。
 司馬が当時見ることができなかった史料などの制約があったことも原因のひとつである。司馬が陸軍関係で依拠した資料は、陸軍大学教官の谷寿夫が大正時代に書いた『機密日露戦史』だった。これは、存命の将官への聞き取りをしてまとめられたものだ。最も参考にしたのは、戦争当時の参謀本部次長長岡外史だったが、彼の証言は偏ったものだった。沼田多稼蔵著『日露陸戦新史』や参謀本部編『明治三十七八年秘密日露戦争史』は陸軍についてかなり客観的に書かれている。
 以上、が原氏の思いをかいつまんで記した。

エピローグ
 乃木第三軍による東北正面から3回の総攻撃でも成果を得ず、目標を変更し、児玉源太郎の登場もあって、二〇三高地を攻略する。旅順港内を一望し、直ちに港内の艦隊に対して砲撃しほとんどの艦艇を大破させたことが日本海海戦を勝利に導く大きな要因となった。
 史実によると、西北正面の二〇三高地を奪った後も、要塞は健在であり、東北正面の戦いは続き、最高所の《望台》を奪い、ロシア軍司令官のステッセルが降伏するまでにひと月を要した。この戦争で国民は戦勝に沸いたそうだが、兵力も国力も消耗しきった日本はポーツマス条約でも有利の交渉ができなかった。

 かつて『坂の上の雲』を読んだ時に、乃木神社があるのに、司馬は乃木希典を《愚将》として描いており、不思議に思った記憶がある。12月4日(日)より放映されるNHKのテレビドラマで乃木がどのように扱われているかはわからないが、乃木の評価は今後どうなるだろうか。
 今回、原氏の講演を聞いて、日露戦争について以前より知識が少し豊富になり、NHKの『坂の上の雲』を見る目が違ってきそうである。