龍に見立てる:(その3)川端龍子の龍づくし

【メルマガIDN編集後記 第250号 120915】

龍に見立てる:(その3)川端龍子の龍づくし
 前回まで、《龍に見立てる》と題していくつかの例を示した。今回は川端龍子を取り上げる。龍子は、自分は竜の落とし子であると言い、ここぞというときには決まって龍を描いた画家である。戦後、龍子は住宅とアトリエを自ら設計し、建物に龍のイメージを仕掛けた。また、龍子は喜寿を迎えた昭和27年に自らの設計により龍子記念館を設計し、翌28年に開館した。記念館のかたちは、龍子が竜の落とし子を模して設計したものだと言われている。


浅草寺の《龍の図》 (短辺の長さ:5.4M)


絵馬になった目黒不動尊の天井絵(《波涛龍図》


中央部:住居 龍のかたちに見える
下部:龍子記念館のかたちは竜の落とし子
【写真:
Google Earth


門から住戸までの石畳は龍の鱗


住戸の腰板にも龍の鱗が刻まれかれている


窓の透かしの龍のレリーフ
内部より外を見る

龍の鱗が刻まれている

川端龍子
 川端龍子(本名昇太郎 1885~1966)は10歳の時和歌山から家族とともに上京、日本橋蛎殻町で育った。
 徳富蘇峰が主宰する国民新聞社に入社、生活のために挿絵画家・漫画家として活躍した。
 始め洋画を志したが、大正2年(1913年)に渡米した際、ボストン美術館で日本画に魅せられ、油絵から日本画へと転換し、大正3年に処女作《観光客》が東京大正博覧会で入選。

 院展入選3回目の32歳で同人に推挙される。しかし、作風や性格等が日本美術院の会風と会わなかった為、昭和3年には院展を脱退し、翌年に青龍社を創設。以後、ここを舞台に独自の画境を築く。青龍社は院展・日展と並ぶ有力団体として人気を得た。
 しかし、青龍社は龍子の存在が大き過ぎ、後に続く者が育たなかったためか、龍子没後は解散した。

川端龍子の3つの天井絵
 川端龍子の龍の天井絵は、浅草寺本堂の外陣の天井、目黒不動尊大本堂の天井、池上本門寺祖師堂天井などで今も見ることが出来る。

<浅草寺の本堂の天井絵《龍の図》>
 通常《浅草寺》と呼んでいるが、正式には《金龍山浅草寺》という。推古天皇36(628)年、隅田川に投網漁をしていた漁師の兄弟の網に一体の仏像がかかりそれを豪族の土師真中知(はじのまなかち)は、尊い観音像であることを知り深く帰依して自宅を寺とし、その観音像を奉安し、礼拝供養に勤めた。これが浅草寺のはじまり。
 江戸時代、天海僧正の進言もあって、徳川幕府の祈願所と定められ、いわゆる江戸の信仰と文化の中心として庶民の間に親しまれ、以後の隆盛をみるようになった。

 浅草寺の本堂の天井の《龍の図》は、昭和31年(1956年)に描かれたもので、《龍の図》の両側には堂本印象筆の《天人散華》がある。

<池上本門寺の大堂の天井の《龍図》>
 池上本門寺は、正式には長栄山本門寺という。日蓮聖人が今から約七百十数年前に61歳で入滅した霊跡。《日蓮聖人ご入滅の霊場》として700年余り法灯を護り伝え、布教の殿堂として布教活動を展開している。
 未完の龍図は大堂の外陣の天井にある。龍子はこの天井画の製作を始める時にはすでに足腰の衰えが目立ち、龍図の完成をみることなく逝去。龍子と親交の深かった奥村土牛の点睛により龍は命を得た。

<目黒不動尊の天井の《波涛龍図》>
 目黒不動尊は天台宗泰叡山滝泉寺。大同3年(808)に慈覚大師円仁が開創したといわれる。家光が堂伽藍を造営し、以来幕府の保護あつく江戸近郊における参拝行楽の場所となる。熊本の木原不動尊、千葉の成田不動尊と併せて日本三大不動のひとつ。
 大本堂外陣の天井に川端龍子の《波涛龍図》がある。紹介する写真は、《波涛龍図》を絵馬にしたもの。

龍子は住宅とアトリエに龍のイメージを仕掛けた
 龍子は大正9年、新井宿子母沢(現在地)に居宅とアトリエを新築してここに移り住んだ。
 当時この辺リは人家もまばらで、あちこちに蓮田が点在するのどかな田園がつづき、春には路傍に可憐な母子草(おぎょう)の花が乱れ咲くところから、邸宅は《御形荘(おぎょうそう)》と命名。
 巨大なアトリエは、大作を製作する必要から昭和13年に建築。昭和20年の爆撃で母屋は全壊したが、このアトリエだけは難を免れた。

 龍子は建築を趣味としており、龍子の器用さと熱心さは素人の域を超えている。龍子記念館と屋敷内の建築のすべては、龍子の意匠によるもの。住宅とアトリエは昭和23~29年に増改築が重ねられた。

 航空写真で見入ると、この住宅は龍のかたちに見える。龍子が住居の建物のかたちを龍に見立てて設計したかは定かではない。前号の厳島神社に龍のかたちを見たことからから、この住宅に対してもつい龍のかたちを連想してしまう。

 門から住居の入口へ続く石畳は龍のかたちをしており、石畳の模様は龍の鱗を模しているという。写真で見るように、住宅の腰板や扉にも龍の鱗の模様が施されており、透かしの窓のレリーフなどにも、龍子は龍のイメージを仕掛けている。

展示館のかたちは竜の落とし子
 龍子は喜寿を迎えた昭和27年に自らの設計により龍子記念館の設計に着手し、翌28年に開館した。龍子記念館は東洋と西洋の建築様式を総合した独創的な幾何学的建築となっている。

 画伯の没後は社団法人青龍社によって運営されたが、平成2年12月、青龍社の解散に伴って、記念館と所蔵作品等が大田区に寄贈された。
 この記念館も龍子の意匠によるもので、建物を上空から見ると《竜の落とし子》の形をしている(写真参照)。記念館のかたちは、龍子が竜の落とし子を模して設計したものだと言われている。

エピローグ
 2008年2月26日の第77回ふれあい充電講演会で《馬込文士村を散策し、川端龍子記念館・池上本門寺を訪れる》というテーマで、文士村の雰囲気を味わいながら、川端龍子記念館、熊谷恒子記念館、池上本門寺を訪れた。
 最初の龍子公園では、すべて龍子の意匠による住居とアトリエを専属のガイドの方の案内で見学し、記念館では、開催中の《川端龍子名作展 龍子が描いた神仏》を見た。今回は、この時の記録を中心に、浅草寺と目黒不動尊のの龍子の天井絵を紹介した。

 2002年4月15日より、月に2回発行してきたメルマガIDNも今回で第250号を発行することになりました。50号になった時に、いつまで続けることができるか予測できませんでしたが、続けているうちに250号に至りました。50号ごとの節目に感慨を覚えます。
 第20号(2003年2月1日発行)より、現在の形式の編集後記を書き続けており、今年は辰年ということで、龍をテーマにして書いています。お読みいただいている方にお礼申します。

編集後記集