ピレネー、花とロマネスク教会
2004年6月にスペインのカタルーニャ地方とピレネーを 旅した記録です
メルマガIDNの編集後記に連載したものです




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■(その1)ピレネーの山懐へ
  5月の中ごろだったろうか、「ピレネーへ行きませんか」?とテニスのグループで一緒の I さんから誘いがあった。I さんの仲間たちは時々国内外の旅行をしており、「隊長」と呼ばれている登山のプロであるMさんのうわさも聞いたことがあった。「山に登るんですか」との問いに、「まあ、トレッキング程度ですよ」という答えがかえってきてから話が発展した。
 私は、「街の夜を楽しむ」派である。以前にメルマガで連載した「龍のコンサート三昧」の中で、海外で18回のコンサートに行ったことを書いたように、夜にコンサートに行くことを、何よりの楽しみにしている。次回はベルリンとウイーンへオーケストラを聴きに行きたくて、今年の秋か冬に実現できたらとチャンスをうかがっていた。
  急な話で、旅行期間にはいくつかのはずせない用も予定されていた。しかし最も重要な03年度の仕事は、6月10日に終わる予定になっており、04年度に計画中の新しい仕事については、「キックオ・フミーティング」を前倒しで開催する可能性があった。その他のいくつかについては不義理をすることになったが、カタロニア地方・ピレネー・花・ロマネスクなどの魅力に惹かれて出かける決心をした。
 5月26日に旅行の参加者10名のうち9名が集い、顔合わせと簡単な食事会を催した。旅行の計画についていくつかのことが話題になったが、私自身ほとんど予備知識がなかった。パブロ・カザルスがカタルニア地方の民謡の「鳥の歌」をチェロで弾くのが有名なことは良く知っていた。フレッド・ジンネマン監督の映画「日曜日には鼠を殺せ」でグレゴリー・ペックが罠を承知で越していった雪山がピレネーだったかは定かでなかった。最終行程についての変更を懸案事項とし、6月17日に成田に集合することを約束してその夜は散会した。
 6月17日に成田を出発した。バロセロナを通り抜け、エスポットの古いお城をホテルに改装したパラドールに深夜に到着し、カタロニアからの旅が始まった。ソルソーナを経て、フランスとの国境に接している小国アンドラをたづね、2日間をかけてピレネーにある国立公園の中をトレッキングし、景色と花を楽しんだ。さらにカタロニアの北西の隅の仏国境に近いアランの谷のビエヤまで踏み込んだ。今回達した標高としては、アンドラでの2408Mが最高位だった。後半は世界遺産のボイ谷を中心に12世紀頃に作られたロマネスク教会を見た。最後にバロセロナからも近いモンセラットの岩山の自然公園の中にあるホテルに泊まり、最終日の午前中をバロセロナ市内で過ごした。
 ピレネーは東西400km南北40〜50kmでイベリア半島と大陸のくびれたところに位置している。私たちが訪れたところはその東部に位置するカタロニア地方に限られたが、興味尽きない体験をさせてもらった。 この旅行で見たこと、聞いたこと、学んだこと、感じたことを書いてみたいと思う。また、この旅行を楽しい内容に計画し、全行程に同行して下さった佐野虔之介さん一家(15年間カタロニアで生活している)についてもふれてみたい。
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■(その2) 最初の宿は古いお城
 6月17日の12時45分、ほぼ定刻に成田を出発し11時間後にアムステルダムに着いた。2時間後イベリア航空に乗換えバロセロナに向かった。アムステルダムからの乗客は皆体が大きく、座席からはみ出しそうで飛行機の中が狭く感じた。
 雪の残っているピレネー山脈を眼下に見ながら越えるとすぐに夕日の沈むところが見えた。太陽が山や水平線に沈むのはいつも早く感じるが、高度を下げつつある飛行機の中からは、太陽が山のむこうに沈むのはあっという間の出来事だった。時刻はちょうど9時30分。
 空港で佐野虔之介さんと徹心君の出迎えをうけた。空港で簡単な食事をして最初の宿泊地の、カルドーナのパラドール(ホテル)へ向かった。カルドーナはバルセロナの北西約100kmのところに位置している。高速道路から一般道を走り、疲れも感じ始めた頃、遠くの丘の上にライトアップされているお城が見えた。お城が見え隠れしながら近づいて、最後に急な坂を上ってお城の裏門に着いた。現地時間で12時を3分過ぎていた。時差の7時間を足して、成田を出発してから約19時間を費やしたことになる。
 部屋に入り窓を開けたら、窓の下はパテオ(広場)になっており向かい側に教会の入り口が見えた。すぐお城の探検に出かけた。入り組んだ廊下を抜けて階段を降りて1階の石積みの壁に囲まれている前庭へ出た。お城へのアプローチと前庭はライトアップされており人の顔がはっきり見えるほど明るく、石積みの壁面に囲まれた空間は幻想的だった。前庭を出てアプローチを少し逆に歩くとカルドーナの街の灯を見下ろすことが出来た。

 この城には「乙女の塔」がある。イスラムが支配した時代に、イスラムの若者にキリスト教徒の城主の娘が恋をした。父は娘を物見の塔に幽閉し、娘はそこで生涯を終えた。このお城にまつわる悲しい話として言い伝えられているという。
 この建物は標高506メートルの丘の上にあり、9世紀に建造された石積みの古いお城をホテルに改装して使用しているもので、パラドールと呼ばれる。パラドールはスペインの国営のホテルでスペイン各地に散在している。古い城・旧領主の館・修道院等を改造した建物、海岸や山岳地帯にある建物、歴史の町や交通の要衝になる町のホテルであり、スペインのホテルの中でも上質で特徴があり有名である。現在は民間資本も入っていると聞いた。
 あくる朝、周辺を散策し、古いお城の石垣が崩れそうなところが見受けられ、この城の年輪を感じた。建物の内部をもっと見たかったし、石造りの簡素で静謐といわれている教会内部を見ることが出来なかったのは残念だった。このパラドールへの滞在時間は約9時間。もっとゆっくり過ごしたかったと思う。夕食にはどんな料理が出るのかこころ残りだった。
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(その3) ソルソーナは虔之介さん一家の第2のふるさと
 
旅の2日目。カルドーナの古いお城を出発し30分ほどで、その日の最初の訪問地「ソルソーナ」に到着した。虔之介さんはカテドラル、サンタ・マリア大聖堂に案内してくれた。この大聖堂は12世紀に建設され、その後何度か増改築が繰り返されてきた。この大聖堂の本尊である石造りの「黒い母子像」を見せてくれることになっていたが、当日はお葬式が行われており、教会の中に入ることを遠慮した。扉をそっと開けて覗ぞいたら、葬儀の真っ最中で香の煙で一杯だった。ソルソーナの夏の音楽祭の会場にもこの大聖堂が使われ、7月・8月の毎金曜日の夜にコンサートが行われる。夜10時に始まり12時になってもアンコールの曲を演奏しているほどの盛り上がりだそうである。
  お葬式の終わるのを待つために、市街地の中心部にある虔之介さんのオフィスに向かった。小さい広場面した建物の3階の窓から女性の大きな声が聞こえた。虔之介さんの奥さんである和子さんの声。ソルソーナは今回の旅を計画し全行程にお付き合いいただいた虔之介さん一家の第2のふるさと。標高700M、人口8000人、40カ国のひと達が居住しているが日本人は虔之介さん一家のみとのこと。

 虔之介さんは1946年生まれ、日本で乳製品企業の広告担当をしていたが1990年にこの地に来た。次男の徹心君が12歳の時だった。どうしてここに住むようになったかという質問に対して、虔之介さんは、日本をはなれるにあたって、学生時代にひきつけられた10世紀の壁画のある、カタルーニャの小さな伝統的な街、ソルソーナに決めた、と言う。お父さんがヨーロッパやアメリカに身を浸す生活を見てきたことが、最初のきっかけのようであり、西洋美術史の恩師、北原一也の影響が大きかった。北原一也は1960年からパリに住み始め、滞在中の成果をもとに書いた「ヨーロッパのプリミティブ芸術(1969年、岩崎美術社)」のあとがきの中で「古い時代の石をも求めて歩き回った。古い石だけに古いヨーロッパの心があった。ヨーロッパを作り上げた逞しいエネルギーと息吹があった。」と書いている。虔之介さんが今回の旅に取り上げて案内してくれた、ロマネスク協会の数々にも、北原一也の考え方が原点にあるように感じた。
  虔之介さんはソルソーナに住んで8年後に「カタルーニャの四季(1998年出版)」を書いた。石を積み上げて作った、当初の池の辺の小さな家での生活から始め、カタルーニャ地方の四季折々の様子を暖かい目を通して記している。そして、今年の4月に「カタルーニャを見る日本人たち=カタルーニャ 美しさと強さ 」を出版した。帰国後に催された出版記念会の様子を「おかげさまでというか,本の出版記念には想像した以上の人が集まり,『盛会ですねえ』という言葉がいたるところからきこえたほどです。2日後,カタルーニャ語で発行されている権威ある新聞,AVUI紙に,本の内容に好意的に言及した記事が掲載され,反響は上々です」というメールをくれた。 この本は写真を中心に文章で構成されており、奥さんの和子さんやガウディのサグラダ・ファミリア教会で活躍している石の彫刻家として有名な外尾悦郎氏なども紹介されている。
  和子さんは、80年の伝統がありカタルーニャの伝統音楽や宗教曲を得意としている、オルフェオ・ソルソーナ(合唱団)でアルトのパートを受け持っている。また、ハーブを使うカタルーニャ料理や「花の造形」など幅広い分野で活躍している。虔之介さんと和子さんには3人の男の子がある。長男の風人君は、祭りに登場する400年以上の伝統を持つ「ジュガンツ=巨人」の伝統技術を身につけようとソルソーナの工房で仕事をしている。次男の徹心君は冬季にスキーのインストラクターをしている。今回の旅にも同行してくれたが、虔之介さんの教えを受けて旅のコーディネーターとなるべく努力しているように見えた。3男の詞音君(シオン城より名づけた)は学生である。3人の名前を見るだけでも虔之介さんのこだわりが感じられる。

 しばらく虔之介さんのオフィスに居て、ソルソーナの街に出かけた。金曜日はソルソーナに市の立つ日で、豊富な野菜や果物・食料品・日用雑貨・衣服などたくさんの種類の店が細い通りの両側に並んでいた。散策のあとBAR(バール)でビールを飲み少し休んで、教会に行ってみたらまだお葬式が終わっていなかったので、内部を見るのをあきらめて出発した。

 ソルソーナから北上し、13時過ぎにスペインとフランスの間にある小国アンドラの国境を越した。バリラ川の雪解けの白い色の水を見ながら移動。2時頃から途中のレストランでお肉を中心とした昼食。バッハという名の主人がBACHという名のワインを出してくれた。昼食後さらに北上し、標高2100Mのところで2時間ほどの今回初のウォーキングで足慣らし。ちいさな村落パルの村ではバスを降りて散策し、アンドラ公国のラ・マーサにあるホテル・リュトランに19時頃に到着した。
■(その4)山峡の小さな国 アンドラ

  われわれは、 アンドラ公国の首都のアンドラ・ラ・ベイヤの少し北に行ったラ・マーサにあるホテル・リュトランに2泊した。ラ・マーサは川沿いの小さな町でありいつもは静な町と思われるが、日没まで工事の騒音がうるさかった。ホテルのすぐそばがスキーのリフトの出発点の建物を建設中で、建物の外溝工事が行われていた。シーズンに向けての工事を急いでいたのであろう。
  今回訪れたピレネー山脈にある町や村の建物は、法的な規制があるのかは分からないが、町並みに統一性をもたせながら作られている。宿泊したホテル・リュトランも町並にも配慮しており、中でも目立つ存在だった。各階のベランダに赤い花のプランターが並べられており、外部から見ると赤い5層の線が帯状に見える。1階のレベルの庭にはプールがあり、2階のレベルには、かつてのテニスコートに現在は芝が貼った庭になっており、庭からは丘の斜面に点在する建物の向こうにピレネーの山々を望むことが出来た。

    

  アンドラ公国はピレネー山脈(標高1029M)にあるスペインとフランスに挟まれた、面積約470平方キロメートル(種子島程度)、人口6.4万人(2000年1月)の小国である。こんなに小さな国がこんなところにあること自体不思議である。
  スペインのあるイベリア半島は昔から民族と宗教の争いが耐えないところだった。イスラム軍が711年に北アフリカからイベリア半島に進入した時からイスラム支配が始まり1492年のグラナダ占領まで続いた。いわゆるレコンキスタといわれる国土回復運動が終わって、フォア伯(政治・軍事・法務を管轄)とウルジェイユ伯(文化・教育・宗教を管轄)の共同統治という形で国という概念として歴史を踏み出した。フランス及びスペインは、1993年6月アンドラ公国を主権国家として承認した。また、同年7月アンドラは184番目の国として国連加盟が認められた。現在、フランス大統領とウルヘル司教の2人が共同元首をつとめる共和制の国家となっている。
  国旗はフランスとスペインの旗をあわせた色の三色旗に紋章が組み合わされたデザインになっている。人種はスペイン人・アンドラ人・フランス人、言語はカタルーニャ語(公用語)・スペイン語・フランス語、宗教はキリスト教(カトリック)が国民の約94%を占めている。
  長い歴史と伝統を有するアンドラ公国では、ピレネー山脈の豊かな山岳の自然環境を生かしたスキーリゾート・トレッキングの基地や荘厳な歴史遺跡はクオリティーの高い観光資源となっている。1950年代以降取り入れた無税国家という政策から免税ショッピング街が発達し、周辺の国からの流行の最先端の品々を買い求める人々で賑わっている。商業とスキーリゾートは、アンドラ公国の発展の原動力になっている。またアンドラはタバコ産業が盛んなのも特徴のひとつで、国内をバスで走っていると目立つのは、山間の壇状の狭い畑のいたるところにタバコが栽培されているのが目につく。 
  オリンピックの選手団の入場行進を見ていたら、アンドラの選手と役員の小集団があった。冬季のオリンピックではもっと多くの参加者があるかもしれない。ピレネーの山あいの小国から訪れた彼らに目を留める人は少ないかも知れないが、今回は懐かしくテレビに見入った。


■(その5) 国境の町 バス・デラ・ガザ 
 

 3日目の朝、9時にバスでホテルを出発し、  ピレネーで初めてのトレッキングを目指す。ホテルを出て南に下って、アンドラ公国の首都のアンドラ・ラ・ベイヤを抜けて東に向かう。運転手の横の一番前に座らせてもらった。標高が上がってカーブの多い山道に入ると前方に雄大な景色が迫ってきた。しばらく景色を楽しんでいるうちにフロントガラスに水滴が見られるようになった。そのうちに景色がガスに隠れて見えなくなってきた。ピレネーの全行程のなかで空模様が怪しくなったのはこの日だけだった。

   標高2408Mのアンバリラ峠に着いてバスを降りたときには、目指す2614Mの山がはっきり見えていたので、雨対策をし出発することにした。雪も残っているところのある斜面を歩き出したがすぐに下からガスが上がってきて、雨も落ちてきたので雨具を着けて一時待機。隊長と虔之介さんが相談し引き返すことに決定。  バスでアンドラ公国とフランスの国境の町バス・デラ・ガザに向かった。町中の駐車場にバスを置いて、国境の検問所を通過して仏領に入る。ここが国境と分かるラインを、歩いてこちらからあちらへ渡るだけで、歩いて通過する分には特別なことは何もない。フランス領からアンドラ公国へ向かう道路はフランスから買い物に来た車やバスで渋滞していた。前回説明したように、この國での買い物には税金がかからないので、週末には買い物客で賑わっている。
  仏領に入った頃には雨もやんでおり、一面の花が咲き乱れている道路わきの小高い丘に踏み込んだ。花の好きな人たちは夢中になった。ピレネーで最初の花の観察となり、後日の花三昧に引き継がれることになる。後ろ髪を惹かれる人も居たが、丘をおりて国境をまたいでバス・デラ・ガザの町に戻る。街中は買い物客でにぎわっていた。体も冷えており、街中のBARで一休み。暖かい飲み物で体をほぐす。この地方のコーヒーは大変濃くストレートで飲むのはつらいので、カフェオレにする。酒好きの連中はホットウイスキーを飲んだ。

 12時にバスに戻り、バス・デラ・ガザをあとにする。道路のセンターラインがやっと見えるほど霧が深い中を走っているとフロントガラスにカチカチと音がする。よく見ると白い粒子がぶつかっている。雹(ひょう)だった。昼食の場所であるスキー場のグラウロッチについた時もあたり一面ガスに包まれていた。  昼食はワインとサンドイッチ。サンドイッチは20CMほどの丸い棒のパンにチーズやソーセージ、野菜など好きなものを挟んでもらう当地のスタイル。窓の外はガスであるが、ときおりリフトの一番上まで見晴らしがきくこともあり、放牧の牛を窓のすぐ外に見ながらの昼食。

 昼食を楽しんで2時前に出発。同じルートを戻り2時30分過ぎにホテルに到着した。夕食の8時までのフリータイム。ラ・マーサの街を散策し、昼寝をきめこんで出発からの疲れを取る。  虔之介さんが今年の4月に出版した「カタルーニャを見る日本人たち=カタルーニャ 美しさと強さ 」を読んだ。夕食の時に、この本を読んだことを伝えたら、「美しさと強さ」が読み取れたか、と虔之介さんは質問した。この本では、カタルーニャの「美しさ」は直接表現されており、「強さ」は文章や写真の中から滲み出してくるように感じる。虔之介さんの質問に対して、どのように答えたか正確には覚えていない。

 ■(その6) アイグエス・トルテス国立公園の東の入りぐち エスポット
 
  4日目の朝9時に、アンドラ公国の小さい町ラ・マーサのホテル・リュトランを大きいおなかの運転手ハビちゃんのバスで出発。当日のハビちゃんの最初の仕事は、公国を出る前に税金のかからないガソリンを給油することだった。ルートCG1を南へ走り国境を9時40分に通過。タバコの密輸には神経を使っているらしいが、われわれのバスは何事もなく通過。スペイン領内のルートN−260を西へ向う。途中自転車競技の集団に出会う。トップ集団は少人数で、縦に連なった多人数の集団がそれに続き、もう終わりかと思ってから相当の間があって最終の走者がやってきた。登りのきついところであり、走ることを楽しんでいる顔と苦しそうな顔が交錯して過ぎていった。 

 標高1725Mのコユ・デ・カントー峠でバスを降りて晴天の中散策した。コユは英語のコル、鞍部や峠のこと。ピレネーの山々では、東西に走る主稜線を南北に超える時はもちろんだが、南北にはしる稜線を東西に越える得る場合も高度の高いものが多い。この道路も10年前は砂利道で砂ほこりばかりだったが、今では観光バスも走る風光明媚な観光道路となている。
  山には草原性草花が多い。以上は虔之介さんの解説による。山肌一面がエニシダで黄色く染められているのを遠くに望みながら、なだらかな丘の日当たりのいい斜面で10時から12時過ぎまで花を見て過ごした。こんなにたくさんの花を一度に見たのは始めてである。今回はピレネーの景色や教会ををNikonで、花をデジカメで撮るように使い分けた。あとで数えてみると、2時間の間に30種類ほどの花が写真に収められていた。
 
  N−260を西に向ってさらに標高を下げ、700Mのところにあるソルの町はずれのレストランで昼食。いつものようにワインがでて、前菜・メイン・デザートを選択して食事に2時間を費やす。食後はルートC−13に入り北へ走って標高を上げ、3時すぎに山間の静かな町エスポットに到着。
 
 エスポットは、標高1300Mほどのところにある人口250人弱の町。今回訪問する主な目的地のアイグエス・トルテス国立公園の東の入り口の拠点となっている。ホテルの外観は相当古いが、内部は改装されてきれいな造りになっていた。部屋の窓を開けるとホテルの裏手にある18世紀に作られた教会が見えた。町を散策。ホテルの前を流れている川に沿って上流のほうへ歩いてゆくと古い石造りの橋を渡る。12世紀に造られたということで相当年期が入っている。左前方の小高い丘の上には石造りの丸い物見の塔が見えた。これも古い。町外れの石畳の道路に沿って農家が連なっており、道路にはヤギか羊の糞が散乱しており一帯が動物の糞のにおいが充満している。昔の田舎のにおいがここには残っていた。
  
 夕方の5時に町役場兼国立公園の管理事務所に集合。ここでジェラール・ヒメネス氏の説明を聞いた。この管理事務所では、公園を訪れる人たちに対する種々のサービスや公園の自然保護の啓蒙活動を行っている。この建物の中には公園に関する展示室やVTRによるプレゼンルームも完備している。今回は虔之介さんがヒメネス氏を指名してくれたらしい。ヒメネス氏はこの公園の草花の本を出版しており、サインもしてもらった。ヒメネス氏は、次の日からの2日間の公園の中でのスケジュールを示し、展示パネルなどを使って2億年前からのイベリア半島の生い立ちや公園の概要について熱心に説明してくれた。

   
 ホテルに戻って夕食の前にテレビを見ていたら、ポーランドで開催されているサッカーの欧州選手権第9日の試合で、スエーデンが宿敵ポーランドに0対1で負け8強に残れなかったことを放送していた。ギリシャと勝ち点4で並んだが総得点で下回った。スペインチームの選手は個人としての力量は十分であるが、チームとしてのまとまりに欠ける。スペインの歴史が証明しており、地域ごとの独立意識が強すぎて、現在も国全体としてのまとまりがよくないことが、サッカーにも影響しているらしい。
 8時半から夕食。メイン料理として小ぶりの鱒2匹食べた。前菜にこの土地特有の煮込みスープを注文したが、半分ほど食べて降参した。豚の血をたっぷり混ぜた豚肉のソーセージと野菜が煮込んであるもので、香りが独特である。このソーセージは、「ブティファーラ・ネグラ(黒生ソーセージ)」という。ネグラは黒の意味で、通に言わせるとブランカ(白)よりもおいしいユニークな食べ物だそうである。虔之介さんの著書「カタルーニャの四季」の「豚殺」の中に、親戚一同が集まって、重さ90kgの生後4ヶ月の豚から生ハムや部位ごとにさまざまの製品を作るシーンが描写されている。せっかくの当地自慢の料理を出してしてもらったのに失礼してしまった。

■(その7) アイグエス・トルテス国立公園

  5日目の朝9時半過ぎに国立公園の東の入り口のエスポットの管理事務所前に集合。ジェラール・ヒメネス氏の指示で4輪駆動車に分乗し出発。われわれの車にはスエーデン人の2人が同乗する。舗装した道を走り、標高1900Mのサン・マウリシ湖に到着。2人のスエーデン人は湖のそばで下車。湖を過ぎてしばらく走ると岩石が飛び出している道に差し掛かる。さらにしばらく走り、10時過ぎより車を降りて歩き始めた。いよいよ本格的なトレッキングである。
 
 今回はジェラール・ヒメネス氏のもとで公園の自然保護や登山者の指導の見習いをしている4人の女性とも一緒に歩いた。フランス人が2人、ルトアニア、ギリシャの20歳代と思えるかわいい女性たちだった。山道を登り、時に下りしているうちに遠くに山を望む開けた場所に到達した。ここは曲がりくねった川が流れており、全体が湿地帯の様相を呈していた。
  
 アイグエス・トルテス国立公園は1955年に制定された氷河湖が散在する国立公園で、正式にはアイグエス・トルテスおよびサン・マウリシ国立公園という。アイグエス・トルテスとは、「曲がりくねった水の流れ」という意味であり、サン・マウリシの名は、3〜4世紀のローマ軍兵士で殉教者の名前だといわれている。ガリアでの戦闘を前に偶像崇拝令にそむいて首をはねられたとされる。公園の面積は1万5000ヘクタールで、周辺の保護地域までいれると4万ヘクタールの広さがある。標高は1500メートルから3000メートル強。この国立公園のキーワードは、「水と森と岩」である。湖畔はモミやピ・ネグレなどで囲まれている。地質はピレネーの生い立ちにより、花崗岩質と石灰岩質が入り混じっており、初日は花崗岩質の山を歩いた。 
 花の好きな人には魅力満点の山道で、ヒメネス氏は著書の本を開いて親切に解説してくれるので大満足の様子で、足取りは遅々として進まない。6月のこの次期は黄色いリンドウ、黄色い花を咲かせるユリ、マタゴンユリなどのピレネー特産の花を見ることが出来る。
 
 やがて標高2190メートルの展望台に到着し。下界に湖を見、遠方に標高2745メートルのエンカンタッツ2峰を望む。ヒメネス氏は、聖マウリッシの日のミサの日に雷が落ちて石になった二人の狩人の伝説を聞かせてくれた。景色を堪能して出発。オバガ・デ・ラテラ湖を過ぎてやっとアミッチェス山荘に到着。手持ちの弁当はサンドウィッチとペットボトルの水。スープを注文し冷めた体を温める。ヒメネス氏や4人の女性たちと昼食時の団欒のひとときを過ごす。
 1時半過ぎにロッジを出発。その日の行程の最も高い標高2380メートルにあるガルベス湖までの雪道を行軍し往復した。ガルベス湖の大半は氷と周辺の山に続いている雪に覆われていた。氷と雪の合間にわずかに見えている深いエメラルドグリーンの湖面は周辺の雪山の姿を映していた。

 帰りは、往きとは少し変えたルートをとり、サン・マウリシ湖まで歩いた。迎えの4輪駆動車に乗り出発点の管理事務所前に戻り、17時15分にホテルに到着。この日はたくさんの花を見たが、カモシカ、バンビ、マーモット(耳の大きなりす)、真っ黒いナメクジ、鱒などの動物(生き物)も見た。この国立公園には、羽を広げたら3メートルになるコンドルが生存しているそうだが、見ることは出来なかった。


■(その8) アイグエス・トルテス国立公園(つづき)

  ピレネーの6日目の朝、9時半過ぎに国立公園の東の入り口のエスポットの管理事務所前に集合して出発。前日と同じく4輪駆動車に分乗し、標高1900Mのサン・マウリシ湖の少し前より歩き始めた。アイグエス・トルテス国立公園での2日目はと石灰岩質の山に登り、前日展望台より見たエンカンタッツ2峰のふもとまで行く、とジェラール・ヒメネス氏は当日の予定を告げた。

 例によって花を見ながら獣道を登る。高度を上げるにしたがって山の木はだんだん小さくなり、そのうちになくなる。以前にカナダへ言ったときに、2300メートルを超えると木を見ることが出来なくなる、と聞いた覚えがある。「森林限界」はピレネーにおいてもほぼ同じである。ヒメネス氏の説明を、徹心君と虔之介さんが通訳してくれる。アイグエス・トルテス国立公園では倒れた木もそのままに放置し、人の手を一切加えないことになっている。登山者やトレッキングの人が残したゴミはボランティアの人たちが拾い、山の自然を汚さない努力が続けられている。 
  やがて木がなくなり、すぐそこに雪渓があり、その上に標高2745メートルのエンカンタッツを見ることができた。雪渓をよけた大きな岩の上で昼食。ホテルで作ってもらったサンドウィッチと朝食に出た果物とヨーグルトを食べてリュックを軽くする。眼下のずっと遠くにサン・マウリシ湖の緑の湖面を望む。
 
 ヒメネス氏は40歳、見かけより年をとっている。彼との会話。ピレネーの最高峰は3404メートル、この公園内の最高峰は3032メートル。彼の本の写真は、プロにとってもらったものもあるが、3年前にほとんど自分で撮った。カメラはキャノンのEOS100でマイクロレンズを使用。自動露出でとったものに不満が残るとのこと。花の明暗とコントラストについての不満についてはよく理解できる。花を観察している時に、「1平方メートルの地面に何種類の植物があるか」と質問したら、ヒメネス氏は指で草や花を数え始めたが、10個ほど数えたところでやめ20から30種類あるのではないかと言った。

 昼食を終えてしばらく休んで帰途に着く。道のないところを歩き、横たわった木を乗り越えながら、花好きは飽くことを知らず新しく見つけた花やヒメネス氏が紹介してくれる花を観察。国境警備隊の荒れ果てた建物の横を通り、ようやく標高1950メートルにあるサン・マウリシ小屋で小休止。暖かいカフェオレを注文する。

 この日に見た動物は、カモシカとリス。サン・マウリシ湖のそばまで降りて迎えの4輪駆動車に乗り帰途についた。4時半頃にホテルに到着。8時半の夕食までにはたっぷりの時間があった。昼寝のあとテレビで闘牛を見た。ちゃんと見たのは初めてである。スペインのサッカーチームが帰国した様子が映された。ポーランドに負けた選手たちは皆元気がない様に見えた。


■(その9) 舞台は高地の花からロマネスク教会へ

 ピレネーの7日目の朝9時半前に、アイグエス・トルテス国立公園の東の入り口のエスポットのホテルをバスで出発。管理事務所の前にいたジェラール・ヒメネス氏と初日に公園に一緒に行った女性たちの見送りをうける。C13号線に出て北上し、C28を西へ曲がり、カタルーニャの北西、国境に近いビエヤへ向う。
 アネウの谷を経由して10時過ぎに、標高2072Mのボナグイア峠のスキー場のリフトの下に到着。天気は快晴でピレネーの山並みを遠くまで見渡すことができた。ボナグイアは良水(清水)の意味で、峠は大西洋と地中海の分水嶺になっている。アラン側はガロンヌ川となって大西洋に注ぐ途上でボルドーワインを生育する水となる。ノゲーラの流れとなって地中海に注ぐ水は、河口付近でバレンシア米を生育する。
 
 ボナグイア峠を少し下って、11時過ぎから2時間ほどベレットスキー場で散策した。べレットスキー場はバッケイラ、ボナグイアスキー場とつながっており、スペインでも有数のスキー場で、国王一族や首相の家族もみえるらしい。この地点の水は地中海に注いでいる。北方に2800M級の山がありその先が仏領。広い草原では牛の放牧が行われている。すぐそばの小山の斜面にはエニシダが群生しており、山腹のエニシダの中に入ってみると一面黄色い花で覆われ、強烈な香りにむせかえった。
 1時15分にベレットスキー場を出発。2時前にエスクナウのレストランに到着し昼食。このレストランは、家畜小屋をリフォームしたもので、かつては1階で家畜を飼い,階上に人が居住していたという。ほの暗いレストランで、いつものようにワインを飲み、メインにアヒルの煮込みを食べた。
 昼食を終えてレストランの横の坂道を登っていったら、いきなり古い教会が目に飛び込んできた。「花を見るのを終わり、これからはロマネスク教会に変わります」と虔之介さんが言った。その手始めがエスクナウの「サン ペール教会」。この教会は12世紀に作られたロマネスク教会で、教会の東側は14世紀にゴシック様式で増築されている。案内をお願いしてくれていたローザさんを待つ間に、虔之介さんが教会の見かたについて説明してくれた。北面にある入り口の形状、柱(カラム)、柱頭、アーチ、文様、たくさんのレリーフ、書かれている文字、十字架の形状、使われている石材、などなど。ローザさんが約束の時間より遅れて到着し、内部を案内してくれた。中に入ってみると、前方の祭壇のところがゴシック様式になっているのが分かる。ロマネスクの小規模の教会は外壁が石積みで作られ、木製の小屋組みの上に屋根が葺かれている。12世紀に作られた洗礼盤は花崗岩で作られており、彫刻が施されている。8月に出版された芸術新潮では、「スペインの歓び」を特集しているが、この教会の扉口上部の半円壁(タンパン)に刻まれたキリスト像の写真を1ページの大きさで掲載している。

 

  次にローザさんが案内してくれたのは、アルティス村の「サンタ マリア教会」。ポーチのアーチが6層になっており奥行きがあるのが特徴である。ここではタンパンや柱頭は見られない。この教会は中心に信者の座る席「身廊」があり、両側に柱があり、その外側に「側廊」のあるの3身廊形式の平面型で、単身廊形式のものより規模が大きい。内部には9世紀から10世紀に作られたプレロマネスクの洗礼盤があり、これにはレリーフが施されていないシンプルなもの。祭壇の周りには15世紀になってから描かれた、聖母マリアの誕生や死などの物語が書かれている絵があった。教会を後にしたとき、後方から5時の鐘の音が聞こえた。
  3番目にローザさんが案内してくれたのは、サラルドウ村のロマネスク教会。入り口のポーチはなく、半円のアーチは4層になっている。この教会では、95年から98年に修復が行われた時に、16世紀に描かれた壁画が発見されたという。内部をひととおり見た後、教会の外部を一周してみる。軒下に彫刻がたくさん取り付けられおり、それぞれが意味を持っているそうである。時間がなくそのすべてを写真に収めることは出来なかった。6時の鐘の音とともに教会を後にした。

  6時半過ぎに、カタローニャの北西部で国境に接しているビエヤに到着。ビエヤはアランの谷と呼ばれるところで標高は970M。スペイン側が分水嶺を越えてフランス側に入り込んでいる地域で、渓流の流れはすべてガロンヌ川に入りフランスへ抜けてビスカヤ湾に注ぐ。アランの谷の南には3000M級の山があり、かつては陸の孤島だった。1948年に南に抜ける5KMのトンネルが開通したことで、アランの谷は保養地として発展した。人口3100人、夏季と冬季には2倍から3倍にもなるという。   
  ビエヤの街を抜けて小高い丘の上にあるホテルに到着。最初の夜に、お城をホテルに改装したパラドールに宿泊したが、その夜のホテルもパラドール。このパラドールは、お城でもリゾートでもなく、ごく普通の上等のホテルだった。


■(その10) ブイ谷の世界遺産 ロマネスク教会

 ピレネーの8日目の朝、アラン渓谷のビエヤのホテルを9時に出発。N-230を南下しすぐに5KMのトンネルをくぐる。出発時は一面ガスの中だったのがトンネルを抜けると天気は快晴に変わった。さらに南下して左折しL-500を走り10時少し前にブイ谷のバルエラ村に到着。
  ブイ谷はノゲラリバゴルサナ川に流れ込むノゲラデトルの流れに沿っている谷あいで、10世紀頃からの遺跡が残されている。12世紀当時の各集落にロマネスク様式で教会が作られ、現在まで残されたそれらの建築が2000年11月に世界遺産(文化遺産)に指定された。以降に道路なども整備され、案内に必要な資料なども準備されてきた。カタルーニャ地方全体では、150年間に作られてその痕跡を確認できるロマネスク様式の教会が、少なくとも2000ほど存在しているそうである。
  虔之介さんはインフォメーションでブイ谷のロマネスク教会の案内図と教会のリストをもらってきてくれた。折りたたみ式の案内図の表紙にはボイ谷の景観とサン・クレメン・デ・タウユ協会の写真があり、案内図を広げてみると、教会や礼拝堂が区別されてその位置を知ることが出来る。教会のリストには、24個の教会や礼拝堂の写真と簡単な説明が書かれている。世界遺産に登録されている9つの教会については他よりも大きく取り上げて説明してあり、簡単な平面図も示されており概要を知るのに役立つ。
  この日はその中の4つの教会とひとつの礼拝堂を見た。今回見た教会は、11世紀から12世紀にブイ谷に建てられたロマネスク様式の教会の中でも初期に立てられた教会である。

Santa Eulalia d’Erill la Vall(6−サンタ・エウラリア・デ・エリュ・ラ・バユの教会)
  教会の前に到着した時ちょうど10時の鐘が鳴った。北面のファサードは美しい曲線の4つのアーチを構成しており、入り口との間に空間がありポーチを保護している。細長い正方形の鐘塔は6層に見えるが、最下層の開口ない部分は層に数えないのでこの塔は5層である。塔のファサードは、11世紀から入れるようになったロンバルジア様式の模様が整然と施されている。聖堂は単身廊で木製のビームが屋根を支えている。後陣はクローバー型の3つの円筒形で構成されている。中央部分は20世紀のはじめに取り壊され1994〜1997年に再建されている。正面に「キリストの十字架降下像」の彫刻のレプリカを見ることが出来るが、11世紀から12世紀に作られた本物はバロセロナとビックの美術館に移され保存展示されている。見学していると10時半の鐘が鳴った。
Sant Joan de Boi(7サン・ジュアン・デ・ブイの教会
  3層の正方形の鐘塔は南西に配置されており、特徴のあるファサードを見せている。最下層は開口部がないので、層として数えない。2層と3層はロンバルジア様式で標準的な形状である。最上層は文様が施されてなく開口の中に鐘を見ることが出来る。この塔の最上部はオリジナルの塔を切り取ってあとで作り変えられたそうである。この教会の入り口は当初、北側にあってポーチがあった。ポーチの入り口の上部の壁面には曼荼羅の壁画が描かれており、現在は外壁にレプリカを見ることが出来る。12世紀に描かれた実物は、カタルーニャの国立美術館(MNAC)にある。鐘塔内部の狭い階段を登って鐘のある層まで行ってみた。開口は以外に大きく、遠くに先ほど行ったサンタ・エウラリア・デ・エリュ・ラ・バユ教会が見えた。11時の鐘を聞いてからブイの村を散策した。
Sant Climent de Taull(9−サン・クレメン・デ・タウユの教会
  この教会は最初に見た時に美しいと思った。南西部に位置している正方形の6層の鐘塔、聖堂、円錐形の屋根を持つ後陣のバランスが良い。中央の後陣の外観はボリューム感もたっぷりとしており、上部には3重のロンバル帯のアーチとぎざぎざ模様が見られる。また石積みのテクスチャーも荒々しいところと整然としたところのバランスも大変いい。入り口は西面に位置しているが、以前はポーチがあったらしい。聖堂は両側に側廊のある3廊型であり、内部の側廊を区切る円形の柱は石積みの模様がレンガ状に見えて美しい。中央の後陣の内壁には有名な、左手に本を持っている「栄光のキリスト」が描かれている。「私は世界の光である」と言っているそうである。絵の中にはラピスラズリーブルーのきれいな色がたくさん使われている。この「栄光のキリスト」は16世紀から17世紀に描かれたもので現地のもんはレプリカであり、実物はバロセロナの美術館(MNAC)に移されている。
Santa Maria de Taull(8−サンタ・マリア・デ・タウユの教会)
  この教会は1123年に建てられた。4層の鐘塔は南に位置しているが、聖堂の中に作られているところに特徴がある。後陣の外観を見ると縦方向の柱らしきものが見えるが、これはデザイン上のアクセントであり石積みの補強である。西面より中には入る。聖堂は両側に側廊のある3廊型であり、内部の側廊を区切る円形の柱の上にアーチがあり屋根の小屋組が乗っている。中央の後陣の内壁には有名な「栄光の聖母子」が描かれている。3人の博士がお祝いに来た様子を描いたものであり、鍵を持っているのがペドロ。「栄光の聖母子」も実物はバロセロナの美術館に移されている。この教会は教区教会として今も機能している。12時半の鐘を聞いてからタウイ村を散策した。タウイ村の住人は約200人とのこと。
Ermita de Santa Quirc de Taull(23−エルミタ・デ・サン・キルク・デ・タウユの礼拝堂
 4つの教会を見てタウイ村を散策したあと、虔之介さんは近くに礼拝堂があるから見に行きましょうといって、バスに乗って数分、歩いて10分ほどのところにある礼拝堂に案内してくれた。礼拝堂は矩形の聖堂と半円形の後陣で作られ、入り口は簡単なアーチが構成されている。内部に入ることは出来ないので外部より見た。この礼拝堂はロマネスク様式の教会の建物の原型といえるだろう。石を積んで外壁を作り、外壁を利用して木材で小屋組みを構成し、その上に屋根を葺くという方法を明快に見ることが出来た。この礼拝堂の壁の石積みも下部に大きな石を積み上部には小ぶりの石が利用されているが、ルール化されているわけでもない。なんとも素朴で親しみやすい。
  礼拝堂は小高い丘の上に建てられているので、裏手からは谷あいの村落を望むことが出来た。エリュを遠くに、バユを手前に、ここからはタウイを見ることは出来なかった。
   
 2時頃からタウユで昼食。エストレイヤというバロセロナのビールとワインを飲み、オニオンスープとパスタを食べる。いつものように2時間ほど昼食を楽しんで4時前に出発。帰りも同じコースをたどり、5KMのトンネルを南から北へ抜けてアラン渓谷のビエヤの街に5時前に到着。1時間ほどの自由時間を得て街を散策した。ビエヤにも大きなサン・ミケル(Sant Miqueu)教会がある。12世紀の後半に建設され、その後幾多の改装がほどこされているという。教会も見て6時にビエヤの街を出発し、小高い丘の上にあるホテルに数分で到着。
 前日からロマネスクの教会や礼拝堂を8つ見たことになり、すべてが交じり合って混沌としていたが、案内図、教会のリスト、教会でもらったリーフレットなどを整理して大切にしまった。


(その11) 聖都モンセラットでカザルスの銅像に出会う

 ピレネーの9日目の朝、いよいよ山を降りる日がやってきた。ビエヤのパラドールを9時過ぎにバスで出発。昨日ボイ谷へ行ったのと同じルートをたどる。5Kmのトンネルを北からへ南抜けてN-230を南下する。前日ボイ谷へ左折したところを過ぎたあたりから、川とも池とも見える水を左側に見ながらひたすら走る。モンセラットに直行すると思っていた。

  10時半頃、N-230がカタルーニャからから西に外れて迂回する地点で、虔之介さんはバスを止めて「朝の散歩をしましょう」といった。バスを降りたところはモンタニアーナという街道沿いの町。古い村を抜けて石造りの橋を渡り石畳の坂道を登っていたら、古い教会が見え隠れし、サンタ・マリア教会がやがて全貌を現した。
 
  12世紀から13世紀にかけて建てられたこの教会はメンテナンスがよくないのか、昨日ボイ谷で見たどの教会よりも荒れ果てて見える。現在は教会の中に入ることが出来ない。南面の西側に位置する入り口のアーチやタンパンのレリーフなどを見た後、右方向より建物を一周してみた。南面の東側に鐘楼があり、東面に後陣の半円形の、北面には方形の出っ張りがある。入り口の位置にもどり建物の平面のスケッチを書いてみた。虔之介さんが、この教会は東西よりも南北に長いのに特徴があること、北面の出っ張りは聖具室であることを教えてくれた。ここは昔お城があったところで、周辺には物見の塔や城壁の遺構が残っているのを見ることが出来る。素朴な石積みの住居の間の石畳の道の坂を下り、石造りの橋を渡って戻ってきた。途中で、ガウディが塔のモチーフとした植物「リデューム」が石垣の上にあるのを見た。虔之介さんに教えてもらって気がついたが、小さくてかわいらしい形をしていた。


  11時半頃に出発。N-230がカタルーニャからから西に迂回して再びカタルーニャに入り、さらに南下してN-IIに入り東方へ向う。高速道路には、有料の「アウト ビスタ」と無料の「アウト ビア」があり、カタルーニャにはビアが多いそうである。ビラグラサで高速道路を下りて昼食。もう一度高速道路にもどりモンセラットに向う。やがて前方に奇岩の山が見えてきた。左に折れて山道を登り、モンセラット修道院のある高台についた。

 モンセラットはバロセロナから北西へ50Kmほどのところに位置する長さ10Km、幅5Kmほどの独立した礫岩で出来た山。最高峰は1238mのジェロニモ。ケーブルで1000mのぼり徒歩約1時間で頂に至る。11世紀に山の中腹(標高720m)にモンセラット修道院が建立され、修道などの場として古くから人の集まる聖域的な場所となっていたが、今ではハイキングやロッククライミングなど自然豊富な山塊としてにぎわっている。モンセラット修道院の前にあるホテルに着いて部屋に入った時に5時の鐘が鳴った。

 一休みしたあと修道院を訪問。列に加わって、祭壇の正面奥の上方に安置されている本尊である12世紀に作られた黒い木彫彩色の母子像を見た。6時半過ぎよりミサに参加した。ここではミサを奉じる少年聖歌隊の合唱(エスコラニア)が有名であるが子供たちはちょうどバカンスに入ったところで、合唱を聞くことが出来なかったのは残念だった。帰りに土産屋に寄り、少年聖歌隊の合唱曲のCDを買った。「鳥の歌」が入っているカタルーニャ民謡曲集を徹心君に頼んで探してもらった。このCDの「鳥の歌」はFrancesc Civilという人が編曲したものである。

 あくる日の朝、ケーブルのサン・ジュアン駅から少し山へ入ったとことにある、チェロを演奏しているパウ・カザルス(Fundacio Pau Casals 、カタルーニャでは、パブロでなくパウ)の銅像を見に行った。カザルスはこの修道院のミサのためにいくつかの曲を作曲している。
  カザルスは1876年カタルーニャに生まれた。スペイン内乱の後フランコ政権が誕生した時、政権に反対するカザルスは、「自由な政府ができるまで、祖国には帰らない」と、39年に国境に近い南仏のプラードに亡命する。そして96歳で母親の生地プエルトリコで亡くなるまで2度とスペインの地を踏むことはなかった。
 
  カザルスは、58年、63年、71年の3回、国連本部のコンサートで演奏している。71年の演奏の様子はテレビ放映もされて有名であり、カザルスのセリフが少しずつ違って書き物として残されている。ここでは、朝日新聞の04年10月2日のbeより引用してみよう。「私にとって平和はいつも最も大きい関心事です。私は長年、皆さんの前でチェロの演奏をしていません。けれども、今日は、弾かなければなりません。カタルーニャの民謡<鳥の歌>です。空に舞い上がる鳥たちはピース(平和)ピースピースとさえずります。バッハもベートーベンも他の偉大な音楽家も、この曲をたたえ愛したでしょう。わが祖国、カタルーニャの魂だからです」。
 後日、我が家のVTRの中から58年の国連デーでカザルスが演奏している映像が見つかった。NHKが放送したモノクロの番組「20世紀の名演奏家たち」の録画である。ここでは演奏を始める前に「これはカタルーニャの民謡です」とひとこと言って演奏を開始している。

 夕食には、徹心君がメンバーのリクエストにより予約をしてくれたパエリアを食べた。これは相当塩辛い味付けだった。食後に皆が感想などを言い合う時間を持った。モンセラットのお店で、虔之介さんがソルソーナに住んで8年後に書いた「カタルーニャの四季」を購入できたので、今年の4月に書いた「カタルーニャを見る日本人たち=カタルーニャ 美しさと強さ 」の2冊にサインをしてもらった。その夜は旅の最後の夜だった。


(その12) 山を降りてバロセロナのまちへ、そして帰途に

 いよいよ旅の最終日になった。9時にモンセラットのホテルを出発。10時過ぎに200万都市のバロセロナのまちに入る。広い通りには復活した路面電車も走っている。午前中はピカソ美術館が主な目的だったが、少し時間があったので、ガウディのサグラダ・ファミリア教会にバスを回してくれた。降誕のファサードの見える正面に数分間バスを止めてもらい、車窓より教会の正面の全貌を見た。細江英公の写真集「ガウディの宇宙」の写真で詳細に見たキリストの降誕のレリーフなどキリスト生誕の物語を遠くに見た。バスは教会のあるブロックを1周し出発。徹心君は運転手さんに指示して、ガウディが設計した、「カサ・ミラ邸」と「カサ・バリョ(カサ・バトリョ)邸」の前を通るようにバスを迂回させてくれた。私がガウディについて最初に知ったのは1961年のこと。今井謙次先生の授業は毎回ガウディだった。建築を学ぼうと新鮮な時期に知ったガウディは強烈だった。以来、ガウディには興味を持ってすごしてきた。今回は、「花とロマネスク教会」がテーマだったので、ガウディについては改めてしっかり向き合ってみたいと思う。

 

 少しはなれたところでバスを降りて、治安がよくないといわれている通りを抜けてピカソ美術館へ行った。ピカソ美術館は1963年に開館し、1981年に修復・増築されている。ピカソが画家として大成する前に一学生としてバロセロナにやってきて1895年から1905年まで家族と一緒に住んだ。彼の修行時代に学んだ学校であるロッチャ美術学校、実際に絵を描いていたアトリエや友人たちと遊びまわっていたバーやナイトクラブが現在も息づいているそうである。このようなところにピカソ美術館が存在しているところに、この美術館の価値を見出す。今日、ピカソの絵は世界中で見ることができるが、修行時代の作品を見ることができる最高の美術館となっている。ここでは、ピカソの絵画・版画・デッサン・陶器などが時代別に作品展示してある。青の時代(1901−1904)に描かれた肖像画もたくさん見ることができ、バラ色の時代への移行を連続してみることができるのも興味深いものだった。
  1時間ほどピカソ美術館で過ごした後、街のレストランで最後の昼食。空港へ行き、来るときとは逆ルートでバロセロナからアムステルダムを経由して成田に戻った。 

 
   


<エピローグ>

 ビエヤを出発してからモンセラットに泊り、バロセロナに短時間滞在し、空港に行って成田へ戻ってくる間ずっと気になっていることがあった。しばらく時間が経ってから、この旅日記の2回目まで書いたときに虔之介さんにメールのやり取りをした。その内容を以下に示すことで、この旅の記録の終りとしたい。

 

【生部から虔之介さんへ】

虔之介様

 こんばんは。こちらは夜です。早いもので、帰国して3週間経ちました。毎日の雑用の中で、少しずつ整理をしながら旅を振り返っています。「カタルーニャをみる日本人たち―カタルーニャの美しさと強さ」の発表会は成功裏に終わりましたでしょうか?

属しているNPO「自立化支援ネットワーク(IDN)」のメルマガの編集後記に小文の連載開始し(その2)まで書いてしまいました。最終回の一部を先取りして書きましたが、何かコメントをいただけますでしょうか?

<最終回の一部>

5月26日に旅行の参加者10名のうち9名が集い、顔合わせと簡単な食事会を催した時に、最終行程についての変更をお願いしようということになった。当初の計画では、最終日にピレネー山中のビエヤよりバロセロナの空港へ直行し帰国の途につくことになっていた。変更案では、前日にビエヤとバロセロナの間でバロセロナに近いところにあるモンセラットまで移動し、最終日にバロセロナ市内で時間を取りたいという希望を出して、サクラダ・ファミリア教会を訪問することに計画を変更してもらった。結果的にサクラダ・ファミリアはバスで周辺を一周し、ピカソ美術館で時間を過ごした。
  もし当初の計画通りにビエヤで2泊したら、世界遺産のボイ谷を訪問した次の日に虔之介さんはどんな計画を準備してくれていたであろうか。もしかしたら、虔之介さんの計画は、意図的に「まち」を避け、カタルーニャのピレネー山中に徹する計画ではなかったか、それが虔之介さんの美学ではなかったのか、帰りの飛行機の中で今回の旅を振り返っている時にそんな気がしてならなかった。せっかくの虔之介さんの「こだわりの案」を壊してしまったのではないか。そして、もっと奥の深いすばらしい体験の機会を逸したのではないか。

 

【虔之介さんから生部へ】

最終回へのコメントということですが,計画としてはやはり小さな教会を,世界遺産ではないけれど訪ねてみようかなと考えていました。しかし,あまり一時に全てをというと消化不良ということにもなりかねません。そのような点ではモンセラットも良かったのかもしれません。ただし,モウ1日でもじっくり滞在できれば,ベネディクト修道院の内奥に入り込めて,もっとよかったと思いますが。そして<街>は,ある意味でいずこも同じです。できたら避けたいところです。ピカソもガウディも,どのような視座で見るかという個人内の位置がきちんとしていない限り,見たことにはなりません。今回の旅は<花>ですから,なおさらその辺が気になっていました。

 

【生部から虔之介さんへ】

ベネディクト修道院の内奥の件は残念でしたが、モンタニアーナからのアプローチと丘の上の「サンタ・マリア教会」の印象は強烈でした。ピカソについては、あれだけ纏めてみることが出来たのは、良かったと思います。特に青の時代の作品について、日本にあるものでは、広島美術館の「酒場の二人の女」と箱根にできたポーラ美術館にある「海辺の母子像」などがすきですが、美しさにのみ惹かれており、今回はピカソの青の時代の本質に触れることが出来た気がします。ありがとうございました。毎日が実りあるいい日でありますように。【完】

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