東京駅の誕生 1914

東京駅の誕生
 江戸から引き継いだ都市インフラが限界に達した明治10年代、近代国家の首都にふさわしい都市へと東京を改造する気運が高まり始めた。
 鉄道計画はそのメインテーマと位置づけられた。新橋~横浜間は官設鉄道として1883年に開通し、上野~熊谷間は私設鉄道の日本鉄道の路線として1885年にすでに開通していた。東京のターミナルとして開業していた新橋駅と上野駅とを結ぶ市街線の建設、及び、その両駅に代わる中央停車場の設置が計画された。

 その目的は、それまで各方面ごとに独自に敷設されていた官設鉄道と私設鉄道を結んでネットワークを形作ることによって、都市内交通を活性化し、同時に日本列島を縦貫する国土交通の大動脈を創出することにあった。とりわけ、その中核に位置する中央停車場には、全国に拡がる鉄道網の収束点としての役割が期待された。

 1903年(明治36)に前東京帝国大学工科大学(現在の東京大学工学部)学長で、当時の日本建築界の第一人者、辰野金吾に設計を依頼。当初は小規模な計画だったが初代鉄道院総裁後藤新平の意向で設計変更を重ね、予算も当初の7倍にも膨れ上がった。

 1908年(明治41)駅舎基礎工事がスタート、基礎工事には松丸太8,000本を打ち込み、鉄骨組み立てには3,157tの鉄が使用され、6年半後の1914年(大正3)12月14日、総坪数3,184坪(内駅舎2,341坪)、正面長334.5m、左右に巨大なドームをもつ駅舎が完成した。

 正面に皇室専用の玄関を設け、右(南)側のドームが乗車口、左(北)側のドームが降車口とされた。乗降口の分離は、1948年(昭和23)まで続けられた。駅前には広大な広場が設けられた。

駅の名称
 東京駅は、建設工事の段階では中央停車場とよばれていた。その改称にあたっては、日本の中心東京に完成したことで東京駅と命名し、地方の人にもわかりやすくすべきと考える派と、東京には、上野、新宿をはじめたくさんの東京の駅があり、中央停車場だけに東京駅の名を冠するのはおかしい、外国の例にならい、首都を代表する駅には中央駅の名を冠するべきとする派とに分かれ、議論が紛糾、開業2週間前にやっと東京駅の名称が決定した。

戦禍で被害を受ける
 東京駅駅舎は、第二次世界大戦の戦禍で屋根や3階部分などが大きな被害を受けた。1947年(昭和22)に、2階建てに変更する形で復旧され、創建当時から数えて100年近い歴史を刻んできた。


1914年(大正3)12月14日、総坪数3.184坪(内駅舎2.341坪)、正面長334.5m、左右に巨大なドームをもつ駅舎が完成した
【工事中の仮囲いの展示パネルより:絵葉書をつないで作成した】


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