平家物語~紙版画と琵琶演奏語りのコラボレーション(2)~
【メルマガIDN編集後記 第292号 140615】

 2008年4月に、IDNの講演会(第79回)の催しとして、光が丘美術館を訪れた。美術館の2階の壁面すべてを使って展示されている井上員男氏の紙版画『平家物語』を見て、ご本人より作品にまつわる思いを聞き、作品の解説をしてもらった。
 その後、大宅壮一マスコミ塾(第9期)と他の共催で2階の展示室で、『平家物語』の琵琶演奏語りを聴く催しが毎年開催されている。
 800年前の源平合戦を作家独自の技法で描いた平家物語の《紙版画》で囲まれた空間で琵琶演奏語りが演奏され、両者の融合による幽玄の世界を毎年堪能している。
 メルマガIDN第201号の編集後記に、
2010年に開催された様子について書いていいる。それから4年経って、今年も例年の嗜好と同じだったが、演目が変わり、新曲『さざなみの別れ-知盛と知章』などが演奏された。


光が丘美術館 外観


琵琶演奏語りの様子
四周に
紙版画『平家物語』が展示されている


敦盛の演奏風景:古澤史水(薩摩琵琶四弦と語り) 佐々木史加(語り)


風の宴の演奏風景:塩高和之(薩摩琵琶五弦六柱)


演奏風景:掛合・薩摩琵琶 さざなみの別れ-知盛と知章
古澤史水・古澤錦城・塩高和之



左:薩摩琵琶四弦  右:薩摩琵琶五弦六柱の塩高モデル中型
【右について:塩高さんに問い合わせてメールで教えてもらった】

光が丘美術館での演奏会
 光が丘美術館(東京都練馬区)は、光が丘駅の近く静かな佇まいの一角に位置している。所蔵美術品は、日本画、陶芸、版画を軸に、日本画壇に若き息吹を送り込む気鋭溢れる作家達による意欲作を特徴としている。館長の鳥海源守氏よると、紙版画『平家物語』を一式購入し、その展示のためにこの美術館を作ったという。美術館の建物は、屏風に装丁されている紙版画『平家物語』の全長とその配置を考慮して、大きさと形が決められたとのこと。
 2階の展示室には、四週の壁面に紙版画『平家物語』が展示されており、琵琶の演奏は、いつもは簡単な舞台を設えて行われるが、今年は演奏席も平土間であり、聴衆は、平土間に持ち込まれた折り畳みの椅子に座った。

井上員男の紙版画『平家物語』
 紙版画『平家物語』は井上員男氏が構想12年をかけて完成した作品であり、全長76メートルにも及ぶ、屏風仕立ての壮大な絵物語。各場面に『平家物語』の原文を自書した詞書の六曲屏風と版画の六曲屏風が一双となる構成。全十二双に、最後の《六道》は詞書のみの一隻が加わる。
 十二双の作品は下記のように構成されている。
我身栄花・厳島御幸・富士川・平清盛公の薨去・倶利伽羅落とし・平家 一門都落ち・坂落し・一の谷合戦・頸渡し・扇の的・壇ノ浦合戦・大原御幸・六道(詞書のみ)

平曲 忠度都落:古沢月心(平家琵琶の演奏と語り)
    さざ浪や 志賀の都は荒れにしを
                 昔ながらの山桜かな
 これは、俊成卿が千載集を撰した時に《故郷の花》という題で入れた平忠度のうたである。忠度は、清盛の弟にあたり、武芸に秀で、京に出てからは歌人としても有名になった。
 都落ちの際に、俊成卿を訪ね、自作の和歌一巻を預け、「世が平和になり、千載集編纂の暁には、一首でも御撰にあずかれば、草葉の陰でうれしく思います」と頼んだ。俊成卿は「決して粗略には扱いません。よくお尋ねになりました。ご安心ください」と見送る。忠度は「思い残すことはありません」と言って辞する。
 忠度は、一の谷の戦いで奮戦するが、義経の奇襲で武運つたなく戦死。その後平家が滅び、世が静まって、千載集が編纂されるとき、俊成卿は一首選び、勅勘の身であるから読み人しらずとして千載集に入れた。

敦盛:古澤史水(薩摩琵琶四弦と語り) 佐々木史加(語り)
 平家物語でも有名な一ノ谷の戦いでの逸話。平家軍は義経の奇襲により背後から総崩れになり、平家の公達たちは沖にある助け船に向かう。
 敦盛(平清盛の弟である平経盛の末子)は直実の、「あれは如何に、よき大将軍と見受けたり。見苦しきかな、敵に後ろを見せるとは。返えさせ給えや」と、扇をあげて差し招くのに応じて敦盛は馬を帰す。武蔵野の国の荒武者熊谷次郎直実と敦盛は馬上で取っ組み合いになる。
 直実はこの武者を汀にて取り押さえ、首を取らんと兜を取り去る。ところが見れば自分の息子と同じ年恰好の若武者、思わず、今朝方の戦いで薄手を負った我が子を思い出し、哀れが身に沁みる。助けたいと思ったが、源氏の軍勢が迫っており、「後の御孝養(おんけうやう)をこそ仕候はめ」と、直実は涙ながらに敦盛の首を取る。

 今回の演奏の特徴は、いつもの古澤史水に佐々木史加(女性)が加わったこと。語りの中で、直実を史水が、敦盛を史加が受け持った。史加も太いしっかりした声であるが、直実と敦盛の声の対比がはっきりして、より哀れをさそう演奏となった。

風の宴:塩高和之(薩摩琵琶五弦六柱塩高モデル中型
 《風の宴》は、塩高和之のオリジナル曲。彼が今回使った琵琶は、薩摩琵琶五弦六柱で特別に大きくあつらえた独自の特性楽器。弾き手の力量にもよると思われるが、このひとまわり大きい琵琶で細かいニュアンスが表現され、メロディと迫力ある音は聴き応えがあった。
 会場での説明はなかったが、《風の宴》についてネットで調べてみると、初演は 2002年6月8日、西荻窪の《音や金時》とあった。

掛合・薩摩琵琶 さざなみの別れ-知盛と知章
 古澤錦城(薩摩琵琶四弦) 古澤史水(語り)
 塩高和之(薩摩琵琶五弦六柱) 佐々木史加(語り)
 古澤錦城が執筆した、知盛の妻で、知章の母である明子(あきらけこ)のお話。
 時子(清盛の妻)に仕えて17歳で知盛(清盛の弟)と結ばれ知章を生む。壇ノ浦では、建礼門院(徳子)、安徳天皇、二位の尼(清盛の正妻 時子)などと共に、守貞親王の乳母(治部卿)として御座船に同坐していた。船上で、父をかばって知章が一の谷で戦死したことを聞かされ、夫の知盛が平家軍の総大将として壮絶な最期を遂げるのを見届ける。

 二位の尼は幼帝を抱いて海中に身を投じるが、明子は死を選ばなかった。その理由は、知盛と二位の尼から守貞親王を養育することを言い渡されていたからである。
 守貞親王は後に出家して行助入道親王と号したが、子の後堀河天皇が即位した後、太上天皇号を贈られて院政を敷く。承久の乱直後の朝廷内の混乱を収めた。院号を後高倉院という。
 平氏の血を引く天皇の世となって、平家縁の女性たちが権勢を持ったが、後堀河天皇や後高倉院(守貞親王)を支えて80歳まで生きた明子(治部卿)も脚光を浴びた女性の一人。

エピローグ
 美術館の近くの毎年行く蕎麦屋で井上員男さんと奥さまに出会った。私のことも覚えてくださっていて、「久しぶりにここへ来た」とおっしゃっていた。
2008年のIDNの講演会を開催した後日、井上さんよりお礼の手紙をいただいたことも懐かしい。

 今回、用意してあった資料《井上員男の歩み》によると、展示してある紙版画が完成したのが
1994年であるとのこと。
 また、別の資料によると、《富士川》に描かれている鴨は
3,327羽、人物が最も多いのは、《頸渡し》であり、名前を特定できるのが28人、総勢563人が丁寧に描き込んであるのを知った。


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