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メルマガIDN編集後記集

メルマガIDNの編集後記に書いたものを纏めました
  2002年2月―
龍のページTOTへ


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2012年以前のもの(〜NO255)にはリンク先の変更ができていないものがあります
インデックスよりご覧ください


 「アンドロイドテレビ」が我が家にやってきた 【NO371・171001】
 ボストン美術館の至宝展」を見に行った 【NO370・170915】
 南極観測船「しらせ(先代)」を見学し、南極に思いを馳せる 【NO369・170901】
 方格規矩四神鏡に宇宙の広がりを 【NO368・170815】
 高松塚古墳の壁画の四神の龍 【NO367・170801】
 平安京は四神相応の都 【NO366・170715】
 龍が活躍する陰陽五行思想と四神信仰 【NO365・170701】
 銀座に昭和7年に建設された「奥野ビル」 【NO364・170615】
 銀座の街並み 2017 【NO363・170601】
 パソコンのシステム上の問題を解決〜嘘のような本当の話〜 【NO362・170515】
 パソコンは良き助っ人だけれどトラブルと大変 【NO361・170501】
 サイバーギャラリー:東博の龍 【NO360・170415】
 海外調査とコンサート三昧1998 【NO359・170401】
 バーチャルリアリティは第2世代を迎える 【NO358・170315】
 科学技術と経済の会(JATES)主催の2つの海外調査〜昼は仕事 夜はコンサート〜 【NO357・170301】
 シニアと収入が伴った仕事 【NO356・170215】
 田無神社の五龍神 【NO355・170201】
 東博へ初もうで 2017 【NO354・170115】
 佐伯泰英の『居眠り磐音 江戸双紙』 全51巻を読破 【NO353・170101】
 ゴッホとゴーギャン展を見に行った 【NO352・161215】
 サン・ジョルディと竜の伝説 【NO351・161201】
 龍が描かれた襖絵 【NO350・161115】
 龍をあしらったお守り 【NO349・161101】
 《驚きの明治工藝》に展示された龍 【NO348・161015】
 1995年に買ってもらったThink Pad 755CDVが今のIDNでの活動に繋がる 【NO347・161001】
 妙法寺に棲む龍 東京 杉並区堀之内 【NO346・160915】
 夏の記憶〜サン・アントニオ〜 【NO345・160901】
 《波の伊八》の写真展とトークショー:伊八会代表の當間隆代さん 【NO344・160815】
 平成28年度「高齢社会フォーラム in 東京」に参加した 【NO343・160801】
 科学技術と経済の会のイノベーションシンポジューム:革新技術5題 【NO342・160715】
 佐賀で出会った龍と仲間たち 【NO341・160701】
 須賀神社(東京・四谷)の例大祭で龍踊りが奉納された 【NO340・160615】
 武雄温泉楼門の四つの干支 【NO339・160601】
 演歌大好き 【NO338・160515】
 特別展《生誕150年 黒田清輝─日本近代絵画の巨匠》 を見に行った 【NO337・160501】
 ワイアット・アープが登場する映画 【NO336・160415】
 金沢で出会った龍 【NO335・160401】
 ネット環境を変更〜NTTのBフレッツからJ:COMのケーブルへ〜 【NO334・160315】
 「魔女」はスケープゴート:《魔女の秘密展》を見に行った 【NO333・160301】
 富塚鳥見神社の向拝の龍 【NO332・160215】
 プラド美術館展〜スペイン宮廷美への情熱〜を見に行った 【NO331・160201】
 東海七福神めぐりを振り返る 【NO330・160115】
 龍のコンサート三昧〜40年を振り返る〜 【NO329・160101】
 区民の情報リテラシーの向上に資するタブレットとスマートホンの講座 【NO327・151215】
 江東の地に四神が降り立つ 【NO327・151201】
 『七人の侍』をリメークした『荒野の七人』 【NO326・151115】
 松戸神社の神幸祭の四神 【NO325・151101】
 ホームページ《龍の謂れとかたち》事始め 【NO324・151015】
 藤田美術館の曜変天目茶碗を見た 【NO323・151001】
 龍を描く〜蕭白の襖絵と屏風〜 【NO322・150915】
 伊万里の「古九谷様式」と九谷焼 【NO321・150901】
 高柴デコ屋敷〜三春駒と三春張り子の発祥地〜 【NO320・150815】
 龍の絵柄の絵馬 【NO319・150801】
 龍の彫刻をあしらった扁額 【NO318・150715】
 神社仏閣を守護する龍の彫刻 【NO317・150701】
 鶴谷八幡宮と木彫師・後藤利兵衛義光 【NO316・150615】
 龍を訪ねて京都へ (その2)出会った龍たち 【NO315・150601】
 龍を訪ねて京都へ (その1)天井の龍 【NO314・150515】
 民芸品や郷土玩具の龍 【NO313・150501】
 浅草の龍を訪ねてまち歩き 【NO312・150415】
 松谷みよ子の『龍の子太郎』 【NO311・150401】
 千葉県立美術館で平山郁夫展を見た 【NO310・150315】
 陶磁器を彩る龍(その2) ヨーロッパで出会った龍の絵柄の磁器 【NO309・150301】
 陶磁器を彩る龍(その1) 中国(景徳鎮)・朝鮮・伊万里・京焼・九谷 【NO308・150215】
 沖縄で出会った龍〜その2 那覇市と浦添市にて〜 【NO307・150201】
 沖縄で出会った龍〜その1 首里城の龍〜 【NO306・150115】
 辰年のお年玉記念切手 【NO305・150101】
 龍をあしらった工芸品 【NO304・141215】
 龍をあしらった粋な小物 【NO303・141201】
 龍を染めた手拭い 【NO302・141115】
 明治時代の龍をあしらった金貨と銀貨 【NO301・141101】
 メルマガIDNを発行してから12年と6カ月、第300号を発行しました 【NO300・141015】
 波の伊八は龍の彫刻でも魅了する 【NO299・141001】
 9・11から13年が経った〜WTC(ワールド・トレード・センター)の思い出〜 【NO298・140915】
 《メトロポリタン美術館 古代エジプト展 女王と女神》を見に行った 【NO297・140901】
 古代のロマンに誘う黒岩重吾の歴史小説 【NO296・140815】
 そして太陽の塔だけが残った 岡本太郎考 【NO295・140801】
 ひさしぶりに奈良へ行った 【NO294・140715】
 鳥たちのご馳走 【NO293・140701】
 平家物語〜紙版画と琵琶演奏語りのコラボレーション(2)〜 【NO292・140615】
 東博の特別展『栄西と建仁寺』展を見に行った 【NO291・140601】
 横浜の關帝廟と媽祖廟 【NO290・140515】
 岡本太郎の『明日の神話』 【NO289・140501】
 東京文化会館でのティー・タイム・コンサート 【NO288・140415】
 上野東照宮の唐門の左甚五郎の昇り龍と降り龍 【NO287・140401】
 NHK放送文化研究所の日本人の意識調査 【NO286・140315】
 超高齢社会に期待される情報通信技術(ICT)と社会展開 【NO285・140301】
 甦ったアンプとCDプレーヤー 【NO284・140215】
 歴博フォーラム:初春の馬 【NO283・140201】
 干支と裏干支で縁起を担ぐ 【NO282・140115】
 アドバイザーの活動の実態を知る 【NO281・140101】
 アメリカのクリスマス 【NO280・131215】
 ホームページの引っ越し 【NO279・131201】
 佐原の大祭 秋祭り 【NO278・131115】
 超高齢化社会を担うスマートシニア 【NO277・131101】
 ニュージーランド民話《タニファ》 【NO276・131015】
 興福寺仏頭展を見に行った 【NO275・131001】
 山梨県立美術館で《オランダ・ハーグ派展》を見た 【NO274・130915】
 誇り高きラガード 【NO273・130901】
 テレビ60年 未来へつなぐ(2):スマートテレビのインパクト 【NO272・130815】
 テレビ60年 未来へつなぐ 【NO271・130801】
 《ロマネスク様式の教会》をデジブックに 【NO270・130715】
 川越の喜多院で出会った龍 【NO269・130701】
 シニアの活動の場所 【NO268・130615】
 七支刀 【NO267・130601】
 Surface RTを使いはじめた 【NO266・130515】
 万年筆余話 【NO265・130501】
 甦ったパーカー51 【NO264・130415】
 写真の楽しみ〜デジブックによる銀塩とデジタルの融合〜 【NO263・130401】
 現代の若きお抱え絵師が妙心寺退蔵院方丈の襖絵を描く 【NO262・130315】
 歴博フォーラム〜巳年の初噺〜 【NO261・130301】
 映画 東ベルリンから来た女 【NO260・130215】
 辰年から巳年へ 【NO259・130201】
 東博へ初もうで2013 【NO258・130115】
 東京国立近代美術館〜美術にぶるっ!ベストセレクション 日本近代美術の100年〜 【NO257・130101】
辰年に息づいた三博の龍 【NO256・121215】
 ファンタジーに登場する龍(竜) 【NO255・121201】
 神社仏閣の天井に描かれた龍の絵 【NO254・121115】
 東京駅のドームの十二支のレリーフ 【NO253・121101】
 引き裂かれた龍を祀る三つの寺 【NO252・121015】
 江の島は龍の島 【NO251・121001】
 龍に見立てる:(その3)川端龍子の龍づくし 【NO250・120915】
 龍に見立てる:(その2)厳島神社が龍のかたちに見える 【NO249・120901】
 龍に見立てる:(その1)鳥瞰でみる龍のかたち 【NO248・120815】
 十二支のなかで唯一実在していない龍(辰) 【NO247・120801】
 四神の信仰〜東方と春を守護する蒼龍〜 【NO246・120715】
 龍は四種の瑞獣のひとつ 【NO245・120701】
 カプセル型無人宇宙船《ドラゴン》の快挙 【NO244・120615】
ピーター ポール&マリーの《パフ》は魔法のドラゴン 【NO243・120601】
 オーストラリアからの竜の便り〜葦で造った竜〜 【NO242・120515】
ヨーロッパの善い龍 【NO241・120501】
ギリシャ神話より《ヘラクレスのドラゴン退治》
【NO240・120415】
ゲルマン神話より《ジークフリートの竜(ドラゴン)退治》 【NO239・120401】
聖ゲオルギウスの竜(ドラゴン)退治 【NO238・120315】
天使ミカエルとドラゴンの戦い(ヨハネの黙示録) 【NO237・120301】
ヨーロッパにおける竜(ドラゴン)の系譜
【NO236・120215】
 龍の起源 【NO235・120201】
 いろいろな龍の概念とかたちがつくられてきた
【NO234・120115】
 龍のかたちの特徴をあらわす《三停九似説》 【NO233・120101】
 パーヴォ・ヤルヴィ指揮 パリ管弦楽団の《幻想交響曲》を聴いた
【NO232・111215】
大宅壮一マスコミ塾の第9期の会〜小説『坂の上の雲』と旅順攻略の史実〜 【NO231・111201】
 安部龍太郎の新聞小説『等伯』と《長谷川等伯と狩野派》展
【NO230・111115】
 浅草寺の金龍の舞 【NO229・111101】
 設計の段階で完成したホールの音を聞く 【NO228・111015】
 50年前に提唱された《メタボリズム》が今蘇る
【NO227・111001】
 空海と密教美術展
【NO226・110915】
 隅田川テラスは新しい親水空間 【NO225・110901】
小田島雄志のユーモア
【NO224・110815】
 復興支援のために大船渡へ行ってきた 【NO223・110801】
 お酒と龍
【NO222・110715】
 デジタルアーカイブ《綴(つづり)プロジェクト》
【NO221・110701】
 燈籠の龍 【NO220・110615】
 東京国立博物館で《特別展 写楽》を見た 【NO219・110601】
佐野洋子の絵本 『100万回生きたねこ』 【NO218・110515】
 ボストン美術館 浮世絵名品展 錦絵の黄金時代〜清長、歌麿、写楽〜 【NO217・110501】
 今年も川沿いの散歩道に桜が咲いた/栄福寺のしだれ桜を見に行った 【NO216・110415】
 カナダの北極圏の島のイヌイットの版画 【NO215・110401】
《シニアネット・フォーラム21 in 東京 2011》を終えて 【NO214・110315】
 波の伊八の龍の彫刻 【NO213・110301】
パトリシア・コーンウェルの推理小説
【NO212・110215】
スペインのブイ谷の教会にある壁画《栄光のキリスト》
【NO211・110201】
 東博へ初もうで
【NO210・110115】
 神社仏閣の手水舎と龍
【NO209・110101】
シンポジウム《デジタル時代の文字・活字文化》に参加した
【NO208・101215】
 たかお会の《鋸山ハイキング》に参加した 【NO207・101201】
 徳島の阿波木偶人形会館へ行った
【NO206・101115】
 ジャン・リュック・ゴダール監督の映画《軽蔑》とカプリ島 【NO205・101101】
 《シニアネット・フォーラム2010 in 東北》に参加した 【NO204・101015】
 アトリエコンサート〜J.S.バッハ パルティータ全曲演奏会(その2)〜 【NO203・100101】
 故郷と家族を愛し続けたシャガール 【NO202・100915】
 平家物語〜紙版画と琵琶演奏語りのコラボレーション〜 【NO201・100901】
 龍のコンサート三昧2010 【その10】アムステルダムでの2つのコンサート 【NO200・100815】
 龍のコンサート三昧2010 【その 9】アムステルダムとデン・ハーグでの美術館めぐりなど 【NO199・100801】
 龍のコンサート三昧2010 【その 8】ベルリン国立歌劇場管弦楽団コンサートを聴く 【NO198・100715】
 龍のコンサート三昧2010 【その 7】3回目のベルリン訪門 【NO197・100701】
 龍のコンサート三昧2010 【その 6】ベルリン・フィルの『ヴェルディのレクイエム』を聴く 【NO196・100615】
 龍のコンサート三昧2010 【その 5】音楽にゆかりのある旧東ドイツの都市ライプツィヒ 【NO195・100601】
 龍のコンサート三昧2010 【その 4】ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の演奏会を聴く 【NO194・100515】
 龍のコンサート三昧2010 【その 3】ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団演奏会を聴く 【NO193・100501】
 龍のコンサート三昧2010 【その 2】ミュンヘンは人情味もあるドイツ南部の文化都市 【NO192・100415】
 龍のコンサート三昧2010 【その 1】3回目のヨーロッパへのコンサート旅行 【NO191・100401】
ホールインワンをしてしまった 【NO190・100301】
 ICTの進化により我々の生活はどのように変わるか〜鉄人28号からドラえもんへ〜 【NO189・100215】
 古墳時代の鏡 【NO188・100201】
いけばな 歴史を彩る日本の美 【NO187・100115】
 浅田次郎の『天切り松闇がたり』と名刀《小龍景光》 【NO186・100101】
 唐津と有田2009 【その5】有田にある佐賀県立九州陶磁文化館で伊万里を見る 【NO185・091215】
世田谷美術館で オルセー美術館展〜パリのアール・ヌーヴォー〜を見た 【NO184・091201】
 唐津と有田2009 【その4】再び《有田ポーセリングパーク》のツヴィンガー宮殿を訪れた 【NO183・091115】
 唐津と有田2009 【その3】唐津まち歩きで龍に出会う 【NO182・091101】
 唐津と有田2009 【その2】からつ曳山展示場で14台の曳山を見た 【NO181・091015】
 唐津と有田2009 【その1】再び、博多から筑肥線で唐津へ 【NO180・091001】
 たかお会《八ヶ岳山麓の坪庭と霧ヶ峰高原ハイキング》に参加した 【NO179・090915】
テニス三昧 【NO178・090901】
 不透明な時代を先取りした画家 ゴーギャン 【NO177・090815】
 成田山祇園会に行った 【NO176・090801】
 源氏物語錦織絵巻展を見た 【その2】《柏木三》の絵に源氏の苦悶を見る 【NO175・090715】
 源氏物語錦織絵巻展を見た 【その1】源氏物語 国宝源氏物語絵巻 【NO174・090701】
 縄文的な画家 片岡球子 【NO173・090615】
 柱に龍が彫られている鳥居 【NO172・090601】
 《シニアネット・フォーラム21 in 東京 2009》を終えて 【NO171・090515】
 NHK放送文化研究所のシンポジューム《岐路に立つテレビ》 【NO170・090501】
 能《西行桜》 【NO169・090415】
 お気に入りの時計 【NO168・090401】
 《グランドセイコウ》余話〜進化した時計たち〜 【NO167・090315】
 よみがえった43年前の手巻き機械式腕時計《グランドセイコウ》 【NO166・090301】
 よみがえった40年前のチューナー 《サンスイ TU−777》 【NO165・090215】
 横浜中華街を守護する四神 【NO164・090201】
 千葉神社の妙見尊星王 【NO163・090115】
 《東方神青龍》は東方と春を守護する霊獣 【NO162・090101】
ヨーロッパで出会った龍と仲間たち 【その3】ガウディのサグラダ・ファミリア教会のガーゴイル 【NO161・081215】
ヨーロッパで出会った龍と仲間たち 【その2】絵画に見るドラゴン(竜) 【NO160・081201】
ヨーロッパで出会った龍と仲間たち 【その1】彫刻に見るドラゴン(竜) 【NO159・081115】
 海を渡った伊万里【その2】 ツヴィンガー宮殿(ドレスデン) 【その1】はNO114に 【NO158・081101】
 龍のコンサート三昧2008【その10】《ヴァルトビューネ》でベルリンフィルを聴く 【NO157・081015】
 龍のコンサート三昧2008 【その9】演奏会場が《ヴァルトビューネ》に変更になった 【NO156・081001】
 龍のコンサート三昧2008 【その8】ドレスデンからベルリンへ 【NO155・080915】
 龍のコンサート三昧2008 【その7】ドレスデンの歌劇場で《フィガロの結婚》を見た 【NO154・080901】
 龍のコンサート三昧2008 【その6】プラハからドレスデンへ 【NO153・080815】
 龍のコンサート三昧2008 【その5】スメタナホールでチェコフィルを聴く 【NO152・080801】
 龍のコンサート三昧2008 【その4】《プラハ春》のブレンデルのリサイタル 【NO151・080715】
 龍のコンサート三昧2008 【その3】プラハの春 【NO150・080701】
 龍のコンサート三昧2008 【その2】ダニエル・バレンボイムとウィーンフィル 【NO149・080615】
 龍のコンサート三昧2008 【その1】再びヨーロッパのコンサートツアーに 【NO148・080601】
 浅草まち歩き その2 浅草寺に戻る 【NO147・080515】
 (仮説)北斎の《神奈川沖波裏》には元になっている彫刻があった 【NO146・080501】
 (仮説)左 甚五郎は架空の人物 実は高松又八郎邦教である 【NO145・080415】
今年も花が咲いた(徒然草考) 【NO144・080401】
スペインの小さな街の祭り《フェスタ・マジョール》 【NO143・080315】
 静嘉堂文庫美術館で《曜変天目茶碗》を見た 【NO142・080301】
 濱甼高虎の2代目当主の高橋欣也さん 【NO141・080215】
 「没後50年 横山大観―新たなる伝説へ」展を観る 【NO140・080201】
 スペインの現代絵画の三巨匠のひとり サルバドール・ダリ 【NO139・080115】
ヨーロッパにおける「竜」と「龍」 【NO138・080101】
 スペイン紀行2007 【その6】美術館三昧 【NO137・071215】
 スペイン紀行2007 【その5】サグラダ・ファミリア教会で「今井兼次の世界」の展 示を見た 【NO136・071201】
 スペイン紀行2007 【その4】七支刀にインスパイヤーされた花でメッセージの発信 【NO135・071115】
 スペイン紀行2007 【その3】ソルソーナ市で花展の開催〜いよいよ本番〜 【NO134・071101】
 スペイン紀行2007 【その2】ソルソーナ市で花展の開催〜準備・フェスタの開会・晩餐会〜 【NO133・071015】
 スペイン紀行2007 【その1】ソルソーナ市で花展の開催〜ことの始まりから出発まで〜 【NO132・071001】
 景徳鎮千年展をみた〜伊万里とのかかわりを知る〜 【NO131・070915】
日本橋に空が戻ってくるだろうか 【NO130・070901】
 干支談義 【NO129・070815】
 ポルトガルのドラゴンエース 【NO128・070801】
創流90周年のイベントに参加した 【NO127・070715】
坂井直樹氏の「コンセプト気分の時代 【NO126・070701】
「出前授業」を体験した 【NO125・070615】
 ハイビジョンで「ファッション通信」を見る 【NO124・070601】
 浅草まち歩き その1 浅草寺から周辺へ 【NO123・070515】
絵本「りゅうのめのなみだ」 【NO122・070501】
 今井信子のビオラで「シャコンヌ」を聞いた 【NO121・070415】
川沿いの散歩道に今年も花が咲いた 【NO120・070401】
演歌大好き 【NO119・070315】
戸田幸四郎の絵本「竜のはなし」 【NO118・070301】
 葛飾北斎の 虎図(雨中の虎)と龍図 【NO117・070215】
【その3】梅原猛の『楕円文化論』と「縄文と弥生」 【NO116・070201】
【その2】吉田秀和の「縄文的」なフルトヴェングラーと 「弥生的」なワルター 
【NO115・070115】
 海を渡った伊万里【その1】 シャーロッテンブルク宮殿(ベルリン) 【その2】はNO158に 【NO114・070101】
龍のコンサート三昧2006【1】〜【11】
 龍のコンサート三昧2006−【11】コンサートホールとオペラハウス(ベルリンとウィーン) 【NO113・061215】
 龍のコンサート三昧2006−【10】「リヒャルト・ワーグナー広場」駅で龍を見つけた 【NO112・061201】
 龍のコンサート三昧2006−【 9】モーツァルトハウス(旧 フィガロハウス) 【NO111・061115】
 龍のコンサート三昧2006−【 8】ムジークフェラインザールでウィーンフィルを聞く 【NO110・061101】
 龍のコンサート三昧2006−【 7】難聴になったベートーベンの苦悩 ハイリゲンシュタットの遺書 【NO107・060915】
 龍のコンサート三昧2006−【 6】ムジークフェラインでポリーニを聴く 【NO106・060901】
 龍のコンサート三昧2006−【 5】ベルヒテスガーデンで遊び、国際特急でウィーンへ 【NO105・060815】
 龍のコンサート三昧2006−【 4】ザルツブルグでモーツアルトの室内楽をきく 【NO104・060801】
 龍のコンサート三昧2006−【 3】ベルリンフィルの本拠地「フィルハーモニー」 【NO103・060715】
 龍のコンサート三昧2006−【 2】ベルリンフィルを聴く 【NO102・060701】
 龍のコンサート三昧2006−【 1】ベルリンとウイーンへ 【NO101・060615】
龍のコンサート三昧2006【1】〜【11】
 メルマガIDNが100号になりました 【NO100・060601】
  「くどづくり民家」の再生 【NO99・060515】
 清水にある沙羅双樹を見に行った 【NO98・060501】
 龍と龍水 【NO97・060415】
 川沿いの散歩道に桜が咲いた 【NO96・060401】
 岡村喬生の「冬の旅」を聴きに行った 【NO95・060315】
  子の権現ハイキング 【NO94・060301】
 カメラの世界遺産 ニコンFを使おう 余話 【NO93・060215】
 ドイツ人気質  【NO92・060201】
  カメラの世界遺産 ニコンFを使おう 【NO91・060115】
 トレンド研究会:今年はトレンドを読み本の出版を目指す 【NO90・060101】
 有田と伊万里 (その1)有田・伊万里はふるさとの近く 【NO86・051101】
 有田と伊万里 (その2)有田ポーセリングパークの伊万里と大川内山の鍋島 【NO87・051115】
 有田と伊万里 (その3)「伊万里」を見る−知永古美術館と戸栗美術館 【NO88・051201】
 有田と伊万里 (その4)「伊万里」を見る−松岡美術館と東京国立博物館− 【NO89・051215】
 ほあぐらさん 【NO85・051015】
 ヨット三昧(その2) クルーザーに乗せてもらった 【NO84・051001】
 オーディオ三昧:(その1)アナログ時代の装置が活躍している 【NO82・050901】
 オーディオ三昧:(その2)究極のアナログプレーヤーを開発した寺垣 武さん 【NO83・050915】
 ヨット三昧(その1) 【NO81・050815】
 月下美人 【NO80・050801】
 【その1】縄文的なもの」と「弥生的なもの  【NO79・050701】
 川沿いの散歩道  写真などの紹介はこちら 【NO78・050701】
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 21世紀の方丈庵 【NO72・050401】
  博多から筑肥線で唐津へ 【NO71・050315】
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  清水観音の本堂前に沙羅双樹がある佐賀県小城町は私の故郷
【NO46・040301】
  プロジェクトX  南極余話(その2):南極で25年過ごした居住棟の復元 【NO44・040201】
  プロジェクトX  南極余話(その1) 【NO43・040115】
  ゴーギャン 【NO42・040101】
  韓国へ行ってきた 【NO41・031216】
   【NO40・031201】
  全マニュアルの「ニコンF 」とデジタルカメラ 【NO39・031115】
  パラダイム【その2】 パラダイムの融合(フュージョン) 【NO38・031101】
  パラダイム【その1】 パラダイムシフト 【NO37・031015】
 ペンション  フィールドノート 【NO36・031001】
  助六の宿 貞千代 【NO35・030915】
  土門 拳 記念館 【NO34・030901】
  大宅壮一マスコミ塾 【NO33・030817】
  華三昧 【NO32・030801】
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  メルマガIDNのリッチ度 【NO25・030415】
  脇道にそれる―カール・ベーム 【NO24・030401】
  月2回発行の苦労話や裏話など 【NO23・030315】
  IDNのメルマガとは 【NO22・030301】
  メルマガとは 【NO21・030215】
  20号にして初めての編集後記 【NO20・030201】
2006年以降については目次よりご覧ください
■有田と伊万里 (その1)有田・伊万里はふるさとの近く【NO86・051101】
 
先日、東博の「伊万里と京焼」展を見に行った。伊万里は「華麗なる」、京焼は「雅の」と副題がついている。さすが東博と思わせる展示である。メルマガの今号で井出さんも紹介されているが、一見の価値があると思う。
 私は焼き物を見ることに興味はあるが、体系的に見たことはないし、知識も乏しい。焼き物については、ふるさとへ帰るときに、博多から筑肥線に乗って唐津へ遠回りして唐津焼を見たり、金沢の県立美術館で始めて大樋焼を見て、あめ色に魅せられて、大樋美術館まで足を伸ばす、この程度のことには労を惜しまない。

 ずっと昔、建築の勉強を始めた学生時代の頃のこと、冬休みに帰省したときに、当時ちょっと顔の利いた伯父に紹介状を書いてもらって、柿右衛門窯と有田タイルを見に行ったことがある。柿右衛門は、まだ先代(13代)の頃のことである。具体的に何を見て、どのような説明を聞かせてもらったかは記憶にないが、地味なたたずまいの中に松の薪が整然と積んであったのが印象に残っている。

 有田焼は、日常品として使用し、引き出物や贈答品として常に身の回りにたくさんあった。有田焼や伊万里については、ふるさとの近くであるせいか、惹かれることが多い。

 2000年10月20日から翌年の1月14日までの87日間「大英博物館佐賀県陶芸展」がロンドンで開催された。「佐賀の先人たちが焼き物を通してヨーロッパと交流してから、300年あまりの時を経て、再びヨーロッパの皆様に鑑賞してもらいたい」という目的で開催された。その帰国記念展が2001年1月30日から2月4日まで日本橋三越で開催された。
 
 「大英博物館展帰国記念 海を渡った現代陶芸展」には、今日の佐賀の62名の陶工たちが一人で2作品ずつ出展し、技術と美の粋を見せている。ほとんどが佐賀県陶芸協会の関係者である。パンフレットによると、柿右衛門(14代)が会長で、今右衛門(13代 人間国宝)、井上萬二(人間国宝)、太郎右衛門は顧問という肩書きがついている。
 年代で見ると、1910年代が2人、1920年代が7人、1960年代が3人、1930年代から1950年代生まれが最も多く8割を占め、この3つの世代はほぼ均等である。大御所といわれる人から油の乗りきっている中堅と若手が精魂こめて創り、描いて、焼いた熱気が伝わってくる。今回東博の展示を見て、1960年当初の初期伊万里から今日に至る伝統が今日に息づいているのを見ることが出来る。
 
 次回に、佐賀にある「有田ポーセリングパークと伊万里」、「大川内山と鍋島」について、そのあと、江ノ島の(にあった)知永古美術館の伊万里と今回の東博の展示について勝手なことを書いてみたい。


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■有田と伊万里 (その2)有田ポーセリングパークの伊万里と大川内山の鍋島【NO87・051115】
有田ポーセリングパークの伊万里
 有田に「有田ポーセリングパーク」というテーマパークが1993年に作られた。このパークの目玉のひとつとして、ドイツ・ザクセン選帝候(せんていこう)であり、ポーランド王でもあったアウグスト王によって建てられたツヴィンガー宮殿(1709-1732にかけて建設)が王冠門部分を中心に再現されている。
 1993年12月に帰省したときに、「陶磁の東西交流展」を見に行った。有田・デルフト・中国の相互影響を主なテーマとした、オランダハーグ美術館収蔵品を中心に68作品が展示されていた。
オランダ連合東インド会社(VOC)は、中国の景徳鎮窯磁器生産が17世紀の中ごろに中断することになった時、中国の影響を受けながらも独自の美的世界を展開した有田で作られた磁器をヨーロッパの王侯貴族に届けるために買い付けた。おかげで膨大な量の伊万里がヨーロッパに存在している。
 パーク内のツヴィンガー宮殿には、伊万里港から積み出されてヨーロッパで珍重された磁器が里帰りして展示されていた。有田・デルフト・中国の交流を見ることが出来、伊万里の存在の大きさを見ることが出来た。また、ツヴィンガー宮殿に展示されている、古き時代の大型で美しく彩色された磁器の迫力に驚かされた。

大川内山の鍋島
 伊万里駅から6Km,、車で15分ほどのところに「鍋島」のテーマパークとも言える「大川内山」がある。「大川内山」は佐賀鍋島藩が1675年に御用窯を築いたところで、朝廷や将軍家、諸大名に献上する「鍋島」をここで焼いた。鍋島藩は、有田から三方を山に囲まれた「大川内山」へ藩の窯を移し、ノウハウが流出しないように関所を築き厳重に出入りが制限したたという。近くには高麗などより渡来し隔離されて働き、ここで一生を終えた無縁の陶工の墓や高麗人の墓もある。現在は、テーマパークとも言えるものであり、秘窯の里として国の史跡指定を受けている。
 
 「大川内山」の入り口からなだらかなに登る石畳の通りの両側には老舗のお店が連なっている。店の背後にはたくさんの窯(34の窯元)が現在も生きている。鍋島の伝統が通りに面して顔を見せており、お店の中を見ながら歩いていると時間の経つのを忘れる。ここでは、伊万里の伝統を引き継いで現代に息づいている上質の日用品を購入することが出来る。「大川内山」へは2回行ったが、ここで買ったぐい飲みを愛用しているし、茶器のセットを日用品として使っている。また、「大川内山」の通りの途中にある「せいら」の夫婦茶碗を結婚のお祝いに贈って喜ばれたこともある。


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■有田と伊万里 (その1)有田・伊万里はふるさとの近く【NO86・051101】
 
先日、東博の「伊万里と京焼」展を見に行った。伊万里は「華麗なる」、京焼は「雅の」と副題がついている。さすが東博と思わせる展示である。メルマガの今号で井出さんも紹介されているが、一見の価値があると思う。
 私は焼き物を見ることに興味はあるが、体系的に見たことはないし、知識も乏しい。焼き物については、ふるさとへ帰るときに、博多から筑肥線に乗って唐津へ遠回りして唐津焼を見たり、金沢の県立美術館で始めて大樋焼を見て、あめ色に魅せられて、大樋美術館まで足を伸ばす、この程度のことには労を惜しまない。

 ずっと昔、建築の勉強を始めた学生時代の頃のこと、冬休みに帰省したときに、当時ちょっと顔の利いた伯父に紹介状を書いてもらって、柿右衛門窯と有田タイルを見に行ったことがある。柿右衛門は、まだ先代(13代)の頃のことである。具体的に何を見て、どのような説明を聞かせてもらったかは記憶にないが、地味なたたずまいの中に松の薪が整然と積んであったのが印象に残っている。

 有田焼は、日常品として使用し、引き出物や贈答品として常に身の回りにたくさんあった。有田焼や伊万里については、ふるさとの近くであるせいか、惹かれることが多い。

 2000年10月20日から翌年の1月14日までの87日間「大英博物館佐賀県陶芸展」がロンドンで開催された。「佐賀の先人たちが焼き物を通してヨーロッパと交流してから、300年あまりの時を経て、再びヨーロッパの皆様に鑑賞してもらいたい」という目的で開催された。その帰国記念展が2001年1月30日から2月4日まで日本橋三越で開催された。
 
 「大英博物館展帰国記念 海を渡った現代陶芸展」には、今日の佐賀の62名の陶工たちが一人で2作品ずつ出展し、技術と美の粋を見せている。ほとんどが佐賀県陶芸協会の関係者である。パンフレットによると、柿右衛門(14代)が会長で、今右衛門(13代 人間国宝)、井上萬二(人間国宝)、太郎右衛門は顧問という肩書きがついている。
 年代で見ると、1910年代が2人、1920年代が7人、1960年代が3人、1930年代から1950年代生まれが最も多く8割を占め、この3つの世代はほぼ均等である。大御所といわれる人から油の乗りきっている中堅と若手が精魂こめて創り、描いて、焼いた熱気が伝わってくる。今回東博の展示を見て、1960年当初の初期伊万里から今日に至る伝統が今日に息づいているのを見ることが出来る。
 
 次回に、佐賀にある「有田ポーセリングパークと伊万里」、「大川内山と鍋島」について、そのあと、江ノ島の(にあった)知永古美術館の伊万里と今回の東博の展示について勝手なことを書いてみたい。


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■有田と伊万里 (その2)有田ポーセリングパークの伊万里と大川内山の鍋島【NO87・051115】
有田ポーセリングパークの伊万里
 有田に「有田ポーセリングパーク」というテーマパークが1993年に作られた。このパークの目玉のひとつとして、ドイツ・ザクセン選帝候(せんていこう)であり、ポーランド王でもあったアウグスト王によって建てられたツヴィンガー宮殿(1709-1732にかけて建設)が王冠門部分を中心に再現されている。
 1993年12月に帰省したときに、「陶磁の東西交流展」を見に行った。有田・デルフト・中国の相互影響を主なテーマとした、オランダハーグ美術館収蔵品を中心に68作品が展示されていた。
オランダ連合東インド会社(VOC)は、中国の景徳鎮窯磁器生産が17世紀の中ごろに中断することになった時、中国の影響を受けながらも独自の美的世界を展開した有田で作られた磁器をヨーロッパの王侯貴族に届けるために買い付けた。おかげで膨大な量の伊万里がヨーロッパに存在している。
 パーク内のツヴィンガー宮殿には、伊万里港から積み出されてヨーロッパで珍重された磁器が里帰りして展示されていた。有田・デルフト・中国の交流を見ることが出来、伊万里の存在の大きさを見ることが出来た。また、ツヴィンガー宮殿に展示されている、古き時代の大型で美しく彩色された磁器の迫力に驚かされた。

大川内山の鍋島
 伊万里駅から6Km,、車で15分ほどのところに「鍋島」のテーマパークとも言える「大川内山」がある。「大川内山」は佐賀鍋島藩が1675年に御用窯を築いたところで、朝廷や将軍家、諸大名に献上する「鍋島」をここで焼いた。鍋島藩は、有田から三方を山に囲まれた「大川内山」へ藩の窯を移し、ノウハウが流出しないように関所を築き厳重に出入りが制限したたという。近くには高麗などより渡来し隔離されて働き、ここで一生を終えた無縁の陶工の墓や高麗人の墓もある。現在は、テーマパークとも言えるものであり、秘窯の里として国の史跡指定を受けている。
 
 「大川内山」の入り口からなだらかなに登る石畳の通りの両側には老舗のお店が連なっている。店の背後にはたくさんの窯(34の窯元)が現在も生きている。鍋島の伝統が通りに面して顔を見せており、お店の中を見ながら歩いていると時間の経つのを忘れる。ここでは、伊万里の伝統を引き継いで現代に息づいている上質の日用品を購入することが出来る。「大川内山」へは2回行ったが、ここで買ったぐい飲みを愛用しているし、茶器のセットを日用品として使っている。また、「大川内山」の通りの途中にある「せいら」の夫婦茶碗を結婚のお祝いに贈って喜ばれたこともある。


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■有田と伊万里 (その3)「伊万里」を見る−知永古美術館と戸栗美術館−【NO88・051201】
 
幾つかの美術館で「伊万里」を見て最後が東博の「伊万里と京焼」展に到達することになるが、「伊万里」の奥の深さを知るにつけ、ここに書くことの不遜を自覚している。でも今回たくさんの「伊万里」を見ることにより、単に磁器である作品を眺めるのではなく、「伊万里」の系譜の中でそれぞれの位置づけをしっかりと意識することが身についてきた。私なりに知り得たこと、感じたことを書いてみたいと思う。文字のみではわかりにくいと思われるので、それぞれの美術館のホームペーにのURLを記しておくので、写真もぜひ見ていただきたい。

湘南の知永古美術館 古伊万里と時代箪笥の館
 湘南知永古美術館はJR辻堂から車ですぐ、湘南の海までそんなに離れていないところにある。この美術館は、古伊万里と時代箪笥の館と銘打っているとおり、2つのコンセプトで成り立っている。
 2004年3月に江ノ島館(古伊万里が中心)を開館し、湘南館(時代箪笥が中心)を2004年4月に開館している。

 小冊子「小さな蕾」の2004年4月号に、中村 功、中村 知永子ご夫妻の手記と収蔵品の一部が掲載されている。
 ペルシャの出土品の収集家であったアメリカ人のお宅で、広い階段の踊り場においてあった帳場箪笥の上に伊万里の徳利が置いてあり、外国人がそれを愛用していたのにカルチャーショックを受けたことが始まりだとのこと。
 昭和49年より募集開始。銀行員であったご主人の功さんと知永古さんは、骨董・古美術品の多い東北・日本海側の骨董店を毎月定期的に訪れ、功さんは和箪笥を、知永古さんは古伊万里を集めることから開始。集めた古伊万里の皿でもてなししているうちに、多くの方から譲ってほしいと頼まれ、それならと、骨董商の免許を取り業者の市にも出入りするようになった。

 当初は18世紀後半のものを中心に集めたが、17世紀後半から前半へ、古九谷からついに初期伊万里へと遡ることになったそうである。集めた伊万里が3000点になり、「伊万里300年の歴史を旅する」という理念に沿って様式別にまとめた募集を完成させることが出来た。そして、日本の工芸美として埋没させては申し訳ないという思いから美術館を開館することを決心された。

 江ノ島と藤沢に2つの美術館を開館し1年が過ぎた頃から、2つを同時に運営することが困難になり、古伊万里の江ノ島館を2005年6月に閉館し、同年11月に2つをミックスして、「古伊万里と時代箪笥のコラボレイションにて江戸の粋を見せる藤沢館」をリニューアルオープンした。現在、リニューアル最初の企画展「盃洗・盃台と猪口」(05/11/3−06/2末)が開催されている。
 最近、藤沢館を訪れ、ご夫妻のご説明で企画展を見せていただき、お話を伺った。

 展示室に伊万里の系譜を書いた小さなパネルが展示されており、パネルのコピーがほしいとお願いしたら、その日のうちに知永子さんがメールで送ってくださった。「初期伊万里様式の成立と魅力」と「古九谷様式の成立と展開」についてはホームページに詳しく説明してある。
 メールでいただいた内容は「18世紀の伊万里」と題がつけられており、前半は、17世紀の初期伊万里から古九谷様式、柿右衛門様式を経て、18世紀に入って伊万里磁器の全国普及と大衆化の時期が到来するまでを概観してある。
 後半には、18世紀前半の伊万里の特徴について詳述してある。伊万里と中国製の違い、染付や色絵、赤地の上に描かれた金彩の描き方、柿右衛門様式の終末、梅花・唐草などの描き方など多岐にわたっており、プロの目と知識が示されている。

 知永古美術館所蔵の逸品は何か私が断定することは出来ないが、ホームページの「企画展」と小冊子「小さな蕾」で紹介されている器が共通しているものがあり、おそらくそれらが自信のある収集品であろう。
 私は「染付吹墨二兎文七寸皿 口径 19.5cm 1630〜40」」が印象に残っている。以下に示す美術館・博物館で合計4枚の「白兎文」の皿を見たことになる。4枚を比較して見ると面白い。知永古美術館所蔵のものは陶肌が磁器風の透明感がなく、陶器風で柔らかい感じがする。また、最近見た4枚の中では、兎が2羽描かれており、他に見る短冊は描かれていない。
 企画展「盃洗・盃台と猪口」が終わり、新しい企画展が始まるであろう、来年の春にはまた訪れてみたいと思う。
  知永古美術館のホームページ http://www.chieko-museum.com/

戸栗美術館 初期伊万里と陶片展
 メルマガ発行の直前に時間の隙間を見つけて、松涛の戸栗美術館へ「初期伊万里と陶片展」を見に行った。戸栗美術館は1987年10月に旧鍋島藩屋敷跡地に開館した古陶磁専門美術館で、7000点の伊万里、鍋島などの有田磁器および中国、朝鮮の陶磁器を所蔵している。

本年は「伊万里と鍋島」をシリーズで企画展示しており、今回は「初期伊万里」を中心に105点が展示されている。
・古伊万里 色絵の誕生と変遷(1/4−3/27)
・古伊万里の展開 魅惑の作品類(4/2−6/26)
・鍋島焼名品展(7/2−9/25)
・初期伊万里と陶片展(10/1−12/25)

 会場でいただいたリーフレットによると、今回の展示のコンセプトは『・・・主に磁器草創期より「初期伊万里」を焼成していた小溝窯(おみぞよう)、天神森窯(てんじんもりよう)、山辺田窯(やんべだよう)等の代表的な古窯跡から出土した陶片をキーポイントに、それに類似する当館所蔵の伝世品をあわせて展示します。・・・』と記されている。近年発掘調査により明らかになってきた「初期伊万里」の歴史を示そうとの意図が見える。なお、陶片資料は佐賀県の有田町歴史民俗資料館より借用したものである。

 最近の考古学的な発掘調査の結果、時代を少し遡って1610年代に有田の西部地区で磁器が焼かれ始めたことが定説になってきている。それから色絵磁器が誕生する1640-50年頃までに染付を主体に製作された磁器が「初期伊万里」と総称されている。

 今回は、2階の3つの展示室が使用されている。
 第1展示室は「日本磁器のあけぼの−初期伊万里の誕生−」と題して、磁器草創期の作品が展示されている。モノトーンの意匠、直径の3分の1にも満たない高台、「生掛け」のために生じる掛けむらも随所に見られ、形状にも歪みが見られる。借用した小溝窯・天神森窯・山辺田窯・百間窯・山小屋窯・天狗谷窯などより出土した陶片と所蔵品とを並べて、焼かれた窯を類推して示しているところがユニークである。

 第2展示室は「初期伊万里の奥深い魅力−皿類を中心に−」と題して、絵付けの全くない「白磁 皿」から始まり、「壷」や「瓶」も展示されている。展示No42のうっすらと赤味がかった白磁の瓶は今回のお気に入りのひとつであ。染付けのある10点ほどの瓶も形、地の色、絵柄のバランスがすばらしいと思った。
 第2展示室には、「染付け 吹墨白兎文 口径21.0 cm」と「染付け 吹墨月兎文 口径19.5 cm」が展示されている。当館の蔵品選集にはもうひとつの「染付け 吹墨白兎文 口径19.6 cm」が紹介されている。描かれているのは、兎と短冊は共通であるが、もうひとつの絵は順に雲・月・雲と異なっている。展示されている地の色は、前者が磁器風に青みがかった白であり、後者は展示No42に近い陶器風の白である。白兎文の初期伊万里は、知永古美術館(江ノ島)、戸栗美術館(2枚)、東博と3箇所で4枚見たことになり、それぞれの違いにまで興味が深まった。
 当館のホームページの「学芸の小部屋」では、この絵付けでは兎の耳が長く描かれていること、兎の耳は時代を遡るほど大きく描かれ、時代が下るにしたがって短くなることが紹介されている。

 第3展示室は「初期伊万里の奥深い魅力−立体作品を中心に−」と題され、染付けの壷、茶道具が展示されている。この室の最後には、楠木谷窯の陶片と並んで「染付 唐草文木瓜形皿」や角福と銘のある祥瑞の「染付 山水人文 瓢形皿」などもある。
 パネルによる説明によると、1642〜52に色絵が始まった後、祥瑞手、四方襷文、菱形木文、唐草繋文等と共通のものを「藍九谷・藍古九谷」と言う、と説明されている。私は、これらの丁寧で繊細で洗練された絵付けを見ていると、「鍋島」へ継承されているように感じたが、素人の勝手な見方であろうか。
  戸栗美術館のホームページ  http://www.toguri-museum.or.jp/home.html

見てすぐに、忘れないうちに書いておこうと思っていたら長くなってしまった。
松岡美術館(古九谷・柿右衛門・金襴手)と東京国立博物館(華麗なる伊万里)については次号に続けることにしたい。


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■有田と伊万里 (その4)「伊万里」を見る−松岡美術館と東京国立博物館−【NO89・051215】
松岡美術館―「古伊万里展−古九谷・柿右衛門・金襴手」
 
白金台にある松岡美術館の「古伊万里展−古九谷・柿右衛門・金襴手(2005 9/10-12/24)」を見に行った。
 松岡美術館は1975年11月に新橋の自社ビル内に美術館を開設し、2000年4月に港区白金台の創立者私邸跡地に、建物として独立した新美術館を建設し、移転再開された。

 今回の展示のコンセプトは明快で、館蔵の日本陶磁コレクションより、17世紀から18世紀初頭にかけての江戸時代前期に開花した古九谷・柿右衛門・金襴手の作品に限って約50点が展示されており、いずれも重厚なもので、ずっしりとした見ごたえがある。

 2階の展示室4に入り、独立して置いてある3つの単独ケースの中身に驚かされる。
・色絵芭蕉柳図輪花鉢(17世紀中期 古九谷様式)、径45cm
・色絵牡丹樹木文大皿(17世紀末〜18世紀前期 古伊万里)、新収蔵 56cm
・色絵唐人物図大壷(17世紀後期 柿右衛門様式)、高さ50.5cm
いずれも大型のもので、当館の自慢の収蔵品である。

 L字型の展示室を右回りに歩いて、まず【A側】から【B側】の古九谷様式の19点を見る。
 1610年代に有田の西部地区で磁器が焼かれ始めたことが定説になってきている。1640-50年代より技術革新により色絵磁器が登場する。1640年代中国の技術を導入して始めて焼造された初期色絵磁器「古九谷」様式は、「五彩手」、「青手」、「祥瑞手(南京手)」に大別され、日本固有の意匠をあらわしており、独特の豪奢な雰囲気を醸し出している。
 展示物は、最初から径が30cmを越すものが並んでおり、濃厚な色使いの古九谷様式に圧倒される。中でも江戸時代に作られた、径が44.3cmの「色絵唐人物図鉢」は豪華である。

 【B側】の最後から、「柿右衛門」様式が始まり【C側】に続く。
 1670年代頃からは、「古九谷」の濃厚なものに比べて軽やかなものになり、「濁手」と呼ばれる乳白色の独特の素地に絵付けを施した柿右衛門様式が登場し、ヨーロッパへの輸出向けとして人気を博した。
このゾーンでは、「色絵花鳥文六角壺や色絵粟鶉図八角鉢」が見どころである。

 【C側】の途中より、17世紀後期から18世紀前期に作られた金襴手様式が登場する。
 1690年代になると「オールドジャパン」と呼ばれ、初めてヨーロッパで日本製磁器として認められた古伊万里・金襴手様式が、ヨーロッパでも宮殿の室内装飾品として珍重された。輸出用の金襴手は染付の濃紺に赤と金の組み合わせで強烈な器になっている。

 【C側】の終わりに近いところに、展示品リストに記載されていない「鍋島 色絵紫陽花図皿 17〜18世紀」が1点展示されている。

 【D側】に進むと、大型の瓶や壷が並んでおり、新収蔵の金襴手様式「色絵楼閣美人図大皿 径59cm」などは、古九谷様式の奔放さとは違って、絵付けの細やかさや色使いの華やかさなど、完成度の高さを感じさせる。

 なお、「色絵百花唐人物図大皿 古九谷様式」と「色絵傘人物図有蓋壷 柿右衛門様式」の2点は、同時期に開催されている東博の「華麗なる伊万里、雅の京焼」に貸し出してあり、東博の会場で見ることが出来る。

 展示室の古伊万里関連年表によると、1650年から1757年の108年間に1,233,418品が輸出されており、中国船で運ばれたものも含めると727万品にも及ぶ、と書いてあったのが目を引いた。
松岡美術館のホームページ: http://www.matsuoka-museum.jp/

 
東京国立博物館―「華麗なる伊万里、雅の京焼」
 
東博の「華麗なる伊万里、雅の京焼」を見に行った。
 建物自体が重要文化財になっている表慶館が会場である。表慶館には1階に4室、2階に4室、あわせて8つの展示室があり。単純に考えると、1階の4室を「伊万里」、2階の4室を「京焼」に配分するところであろうが、1階の2室と2階の2室を「伊万里」に、2階の2室と1階の2室を「京焼き」に配分し、この順序を導線としている。2室の「伊万里」を見た後、すばらしい空間の階段室を上がった2室で後半の「伊万里」を見るという配置と導線に対する意図がすばらしい。「京焼き」については、2階の2室を見て、階段を下りて1階の2室を見ることになる。

 「伊万里」の系譜については、それぞれの美術館や学芸員の中で、大筋のところで共通になっているように思われるが、今回の東博の「華麗なる伊万里」では、初期伊万里・古九谷様式・柿右衛門様式・金襴手・鍋島の5つに明快に区分している。展示室毎に1〜2つのテーマ定めて展示し、「伊万里」の全貌を見せようとしているところに特徴があると思う。53点の「伊万里」が展示されている。

T.磁器誕生―初期伊万里
 15〜16世紀の朝鮮の白磁皿と白磁鉢の展示から始まり、景徳鎮窯を経て、「染付吹墨月兎図皿 口径19.9 cm 1620〜30」が登場する。吹墨月兎文については、戸栗美術館のところで述べた。このコーナーでは、重要文化財で初期伊万里の大皿を代表する「染付山水図大鉢 1630〜1640年代 径45.4cm」など、磁器草創期の初期伊万里を15点を見ること出来た。

U.磁器に彩を―伊万里・古九谷様式
 ここでは、「五彩手」・「青手」・「祥瑞手」の磁器が紹介され、古九谷様式の特徴ある磁器を最初に紹介している。古九谷様式の10点の中には、松岡美術館の「色絵百花唐人物図大皿」や重要文化財の「色絵蝶牡丹図大鉢 1640〜1650年代 径40.5cm」を見る。「色絵鳳凰図大皿」は古九谷様式にしては、絵付けが精密で細やかであり、古九谷様式特有の豪放さは見られないが大好きなものである。

 「伊万里」と「九谷」に似ているものがあるなは何故だろうか、という疑問を持ち続けてきた。今回東博で発行された冊子では伊万里についての情報がふんだんに盛り込まれているが、この疑問にも答えてくれる。
 「古九谷」とは17世紀に加賀の九谷窯で焼かれたものという意味。しかし、伊万里の初期の色絵が「古九谷」の名前で親しまれていた焼き物であることが明らかになり、そこで生まれた言葉が「古九谷様式」という言葉である。1647年に酒井田喜三右衛門(初代柿右衛門)が最初に完成させた色絵を買ったのは加賀藩だったこと、1655年に伊万里の技術で九谷の磁器窯が開かれたことなどが記されており、無知なるが故に感じていた「伊万里」と「古九谷」の関係について知ることが出来た。

V.世界へT―伊万里・柿右衛門様式
 オランダ連合東インド会社(VOC)は、中国の景徳鎮窯磁器生産が17世紀の中ごろに中断することになった時、中国の影響を受けながらも独自の美的世界を展開した有田で作られた磁器をヨーロッパの王侯貴族に届けるために買い付けた。おかげで膨大な量の伊万里がヨーロッパに存在している。
 「濁手」と呼ばれる乳白色の独特の素地に絵付けを施した柿右衛門様式は、現在の14代柿右衛門へ脈々と引き継がれていることのルーツを見ることができた。重要文化財の「色絵花卉文有蓋八角壷 1670〜1690年」や松岡美術館より借用の「色絵傘人物図有蓋壷 1670〜1690年」は見ごたえがある。

W.世界へU― そして国内へ
 西欧向けには、柿右衛門様式に変わって、赤を主とした色絵と金彩の「金襴手」へと展開する。一方「金襴手」は輸出向けと同時に国内向けにもつくられるようになった。染付けに、赤・緑・金彩が融合する「元禄柿」や「赤玉」と呼ばれるものなど、作風の違いを見ることが出来る。このゾーンでは豪華絢爛ともいえる大皿や鉢の「金襴手」を8点見た。

X.極められた洗練―鍋島
 伊万里を領内に擁した佐賀鍋島藩が1675年に大川内に御用窯を築き、朝廷や将軍家、諸大名に献上品を焼いた。明治まで続いた窯は30室に及ぶ大規模な窯だったという。つくられた磁器は、木盃形の皿が多く、一尺・七寸・五寸・三寸の定型だった。染付けと色絵によって意匠と技術が極限まで追求されている。
 「鍋島」のコーナーでは、古九谷様式の流れを感じさせる「古格鍋島」、水墨画を見るような青の濃淡で染付けられた櫛歯高台の典型的な皿、伝統意匠である水車、可憐な野の花、組紐の文様、5客の組み物などを皿に限って7点が展示されているが、もっとたくさんの「鍋島」を見たいと思った。
東博URL:「華麗なる伊万里、雅の京焼」が終了したので、現在は展示物の写真を見ることが出来ないようです

まとめ
今回は4回にわたって「伊万里」について書いてきた。
4回の順序は見たり訪れた順番とは異なっているが、整理してみると下記のようになる。
 
・個人の努力の結晶である知永古美術館と、公的な知識と財力と知名度のある東博において、
 「伊万里」の全貌を体系的に見て知ることが出来た。
・戸栗美術館では磁器草創期の初期伊万里をたっぷりと、
 松岡美術館では色絵の世界に浸り、古九谷・柿右衛門・金襴手を集中的に見せてもらった。
・有田ポーセリングパークでの「陶磁の東西交流展」では、
 有田・デルフト・中国の相互影響を見ることで「伊万里」の歴史にも接した。
・伊万里の・大川内山へ2回行ったことは、「鍋島」の発祥の地を訪れたことになる。
・5年前の佐賀の陶工たちの「大英博物館佐賀県陶芸展」では、
 現代の陶工たちの中に「伊万里」や「鍋島」の伝統が息づいているのを見た。
 
 今回たくさんの伊万里を見ることにより、「伊万里」の奥の深さを感じる。でも今は、「伊万里」を見て楽しむための入り口にたどり着いたところ。単に磁器である作品を眺めるのではなく、「伊万里」の系譜の中でそれぞれの位置づけをしっかりと意識することが身についた。

 もう一度ここに登場した美術館や博物館を訪れると、見る目が違っているのかも知れない。以前より希望をしていて実現していない、栗田美術館へ行ってみたいと思う。

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■ほあぐらさん【NO85・051015】

 
2004年の6月にピレネーへトレッキングに行き、花とロマネスク様式の教会を見てきた。帰国後ロマネスク教会について知りたくてホームページをサーフィンしていて、幾つかのページの中で最も充実しているページが「ほあぐら」さんのページだった。
 ほあぐらさんのページは、旅で巡り合って感動を与えてくれた数多くの「美しいもの」の中から、ヨーロッパのロマネスク美術、日本人独特の美意識が創出した造形日本庭園、石の造形と信仰とが生み出した石造美術など、で構成されている。私がとりあえず興味を持って見せてもらったのは、ロッパのロマネスク美術の中のロマネスク様式の教会。ほあぐらさんのページには、掲示板があり、ほあぐらさんと投稿者との楽しい対話を読ませてもらった。その中で、ほあぐらさんが「想いはロマネスク」という本を書かれたことを知った。

 IDNのメルマガの編集後記に、「ピレネー 花とロマネスク教会」を12回にわたって書き終えてときに、掲示板へ投稿した。私もピレネーへ行って、カタルーニャ地方のロマネスク教会を8個見たこと、佐野虔之介さんに案内してもらったこと、旅行記を書いたことなどを紹介し、「想いはロマネスク」の出版社を問い合わせた。ほあぐらさんは、旅行記を載せた私のホームページを見てくれて、本の出版社を教えてくれた。一般の書店の店頭にはなく、在庫があるかわからないとのことだった。何年もご無沙汰していた、会社時代に本探しでお世話になったS書店の親父さんの手を煩わせてやっと入手することができた。
 「想いはロマネスク」は1994年にほあぐらさん夫妻と双方の母親と4人で北イタリアをレンタカーで巡った「母子巡礼の旅」、南西フランスの田舎めぐり、冬のノルマンディー、アイルランドのケルト紀行が収められている。古い都市や街、古い建物や教会がふんだんに登場している。また、ほあぐらさんの食べ物に対する思い入れとワイン狂ぶりをうかがい知ることが出来る。

 2005年の4月に、ピレネーで案内してくれた佐野虔之介さん夫妻が来日された時に、ピレネーへ行った仲間たちと会食をする機会を持った。たくさんの想い出話の後で、ほあぐらさんの「想いはロマネスク」を見せたら、虔之介さんはスペインへもどる前に是非入手したいとのこと。在日期間は翌日の一日のみ。私は再度入手することが可能であり、この本がソルソーナへ行くのもいいかなと思って、気軽に虔之介さんに私の所有物を差し上げることにした。
 そのいきさつを ほあぐらさんの掲示板に書いたら、「佐野さんにお渡しいただいた御礼として、一冊謹呈させていただきたいと存じます」という書き込みがあった。オープンの掲示板から個人的なメールの世界に入って、お互いに自己紹介をし合って、数日してほあぐらさんの実名のサインの入った本が届けられた。
 メールのやり取りの中で、ほぐらさんの知人が虔之介さんの知り合いであること、ほあぐらさんと同窓の親しい知人である、愛地球博のプロデュースをしたHさんと昔仕事でかかわったことがあることなどがわかった。

 最近になってほあぐらさんのページに、1996年の夏に旅をした時の記録としてスペイン・カタルーニャのロマネスクに21箇所が追加記載された。ここに紹介されている教会の中には昨年私たちが訪れた教会も紹介されている。ちょうどこの頃にピレネーで撮った写真の整理を終えた直後であり、一年以上前の想いを新たにし、写真を見て説明を読ませてもらった。

 ほあぐらさんは9月27日に52日間のフランス・スペインへの旅に出発された。フランスのブルゴーニュ・ロワール・コートダジュール・フランスアルプス・ガスコーニュ、スペインのカタルーニャ・アラゴンなどの未見の地を訪ねる予定とのことで、現在は留守である。帰国後に新たなページがたくさん紹介されることを期待している。
 ほあぐらさんと実際にお会いして、おいしい食事とワインを共に楽しむ機会を窺っているが、まだ実現していない。

ほあぐらさんのページ:http://www5e.biglobe.ne.jp/~truffe/roman.html

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■ヨット三昧(その2) クルーザーに乗せてもらった
【NO84・051001】
 メルマガIDN第81号(05年8月15日)でヨット三昧を書いた後、何人の方から、「私もヨットをやったことがある」と言う話しを聞いたり、メールをいただいたりして、以外にヨット人口の多いのに驚いた。そして、メルマガがきっかけで岡角さんにクルーザーに乗せてもらうことになった。岡角さんからは、ずっと以前から、「いらっしゃいよ」、「是非」という会話を何回も繰り返していたが実現には至らなかった。今回は野口さんのおかげで楽しい体験をさせてもらった。
 8月のある日突然野口さんより「よろしければご一緒に多比(沼津近く)の海岸からクルージングに出かけませんか?」というメールをもらった。野口さんは山男と思い込んでいたら、学生時代仙台でスナイプに乗っておられ、私のメルマガを読んで岡角さんにお願いしてくれたそうである。野口さんは9月一杯で仕事を終え、単身赴任から開放されて岐阜へ戻られると聞いていたので、送別もかねて一日を過ごしたいと思った。

 日程調整などすべて野口さんが手際よく準備をしてくれたことに感謝。岡角さんから「ヨット乗艇時の注意事項」というペーパーも送ってもらった。このペーパーにはスピンネーカーに風を一杯にはらんだOZZW号の勇姿の写真もあり期待が膨らんだ。

 当日は最近では一番の早起き。東京駅のホームで野口さんと合流し、7時23分発のこだまに乗り込んだ。しばらくおしゃべりをしていたらすぐに三島に到着。在来線をくぐり抜けて南口を出たところで吉澤さんと合流し、迎えに来てくれていた岡角さんの車に乗り込む。30分ほどで駿河湾の中の最も奥まったところにある多比漁港にある多比ヨットクラブ(TYC)のクラブハウスについた。
 このクラブハウスは、TYCが2000年に30周年を迎えたのを機に,記念イベントの一つとして,建て替えたそうである。TYCは,沼津の多比漁港に係留しているクルーザーヨットを中心に,その近港に係留しているヨット仲間により1970年に結成され、約30艇のオーナー,クルー約90名で構成されている。

 当日同乗してくださるTYCの湯浅さんと藤井さんが現れいよいよ出航の準備。桟橋より少しはなれたところに係留されているヨットのところまで小さいボートで行って、ヨットを桟橋まで移動してくれた。真っ白の長さ8メートルの船体が接岸。早速乗り込んで10時頃に出航。ヨットのエンジンの力を借りて多比のハーバーの外に出る。行きは湯浅さんがスキッパーで岡角さんと藤井さんがクルーというフォーメーションだった。

 当日はうす曇で、暑くなく天候は申し分ない。左手に陸を見ながら若松崎の先にある目的地の大瀬崎を目指す。最初はメインセールのみで航行、そのうちにジブセールも張る。出航直後の風は穏やか過ぎるくらいだったが、いい風のある場所では船体を傾けながら走る。
 航行中、右側には富士山を見ることが出来た。静かな海面の先に陸地と町並みが見え、その上に白い雲が横切り、さらにその上に富士の姿がくっきりと見えた。海上からこんなに長時間富士見続けたのははじめてである。
 
 大瀬崎のバースに一旦接岸したが、バースは陸と接続されておらず、神社に行くことを取りやめにした。岬の突端の神社と、そのずっと先にある富士山をバックに全員の記念写真を撮ってもらった。バースを離れて、岬を回った湾に錨を下ろして停泊。日よけのテントを張り、食事用のテーブルをしつらえて、赤と白のクロスをかぶせて昼食の準備をする。
 時は12時半頃。泳ぐ人をわき目にビールを飲み始める。多比で準備してくれた食べ物、吉澤さんが持参してくれたお弁当、大瀬崎のバースで知り合いの船の船長より差し入れのあったローストビーフもテーブルに並ぶ。湯浅さん持ち込んでくれたワインもいただいて昼食を楽しむ。きれいな海の上で涼しい風を受けながらのビールやワインは格別である。野口さんと湯浅さんは以前の仕事で会社間の関係があったこともわかり、話も弾んだ。

 3時少し前に錨を上げて帰途に着く。湯浅さんはワインが効いたのかキャビンのベンチでひと眠り。お酒を一滴も飲まない岡角さんがスキッパー。車の場合も同じであるが、お酒を飲まない人がいると便利。いつも申し訳ないと思う。
 戻りは風向きの条件で沼津の市街に向かって航行。途中でタックして多比を目指す。途中で岡角さんがラダー(舵)を持たせてくれた。かつて乗っていたディンギーとは違って確かな手ごたえがあった。野口さんが撮ってくれた写真では、うれしそうな顔をしているが様になっていない。
 途中風のないところやいい風を捕まえたところを経て4時半頃に多比に帰港。後片付けを手伝うこともしないで、全くのお客様扱いをしてもらって悪いと思いながらTYCのクラブハウス戻った。
 
 クラブハウスには村松会長がおられたのでご挨拶をし、当日の仕上げに缶ビールを一本ずつ飲んだ。帰りも岡角さんの車で三島まで送ってもらった。ホームに上がってすぐに来たひかりに乗って、当日の楽しかったことと、野口さんの岐阜での生活を話題にしていたら、あっという間に品川に到着。野口さんが10月から岐阜で活躍されることを念じながら下車し、横須賀線(総武快速)に乗り換え千葉に向かった。

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■オーディオ三昧:(その2)究極のアナログプレーヤーを開発した寺垣 武さん
【NO83・050915】
 究極のアナログプレーヤーを開発した寺垣 武さんには1991年に最初にお目にかかり、今年(2005年)8月28日の「第3回池上祭」のイベント会場でお会いした。81歳になられた寺垣さんはお元気で意気軒昂だった。

 1991年8月に、科学技術と経済の会の懇話会でお話を聞く機会があった。当日は寺垣さんが開発されたアナログプレーヤーが会場に持ち込まれ、講演の後、何枚かのレコードを再生し音を聞かせてもらった。視聴の最初の曲は藤山一郎の歌。寺垣さんが、音の良し悪しがわかります、と言われたことが印象に強く残っていた。
 懇話会終了後事務局より懇話会聴講記を書くことを依頼され、「原点回帰から生まれたアナログレコードプレーヤー」と題した1800字ほどの拙文が機関紙「TTレター(第18号)」に掲載された。TTレターをお届けしたことなどがきっかけで、翌1992年4月に寺垣研究所(大田区 矢口)を訪問した。

 今年のある日、テレビの番組で藤山一郎の歌を聴いていて、ふと寺垣さんのことを思い出し、ホームページで寺垣さんを検索してみた。たくさんのページがヒットしたのに驚きながら幾つかのページを見ているうちに、8月28日の池上祭のイベントのひとつに「不思議音機・寺垣武氏の講演・実体験者の募集」という記事を見つけた。
 説明には、「(前略) 氏が3億円の開発費をかけて製作されたアナログプレーヤーΣ5000と独創的な波動理論に基づいて設計された全方位フラットスピーカーをお借りして、オーディオ界の重鎮を唸らせた良質で立体感のあるサウンドを皆さんと体験しましょう (後略)」とある。
 当日、寺垣さん関連のファイルとレコードを何枚か持参して池上本門字近くの会場に行った。100人近い人が集まり、寺垣さんのトークと視聴の会が行われた。
 
 レコードの150ミクロンの溝をカットするのに数百ワットの電力が使用されていることを偶然知った、レコードに刻まれた情報を十分に取り出していないのではないか、レコードは時代の音を刻んだ文化遺産、CDに取って代わり捨て去るのは冒涜である、当時のオーディオは個性を重視した「いい音」を作るという良くない傾向にあった、以上がアナログレコードプレーヤーを開発することの発端になった。

 オーディオは手段(目的ではない)、本質を見極め認識からスタートするべし、素直にものを見る、自然に逆らわない、レコードの溝に刻まれた音を色づけしないで忠実に取り出す装置を開発する、というのがコンセプトだった。
 発端とコンセプトについては、14年前の講演と今回のトークの内容と変わるところはない。

 視聴盤には、オンデコ座、ライオネル・ハンプトン(57年前の録音)、フランク永井、さだまさし、グレン・グールド、ドン・カルロス、聴衆の持ち込んだレコードなどの視聴の後、最後にラッカー盤(レコードのカッティングを行った原盤)による驚異的なダイナミックレンジの音を聞かせてもらった。私も持参した、1956年に、ルイ・アームストロング・オールスターズがバーンスタインとニューヨークフィルと共演した「セントルイスブルース」(カーネギーホールのライブ)レコードをかけてもらった。ニューヨークフィルの前奏が終わり、アームストロングが登場するあたりまで聞かせてもらって満足した。
 
 プログラムが終了した後で聴衆が装置の周りに集まって、近くで見せてもらい、さわりながら寺垣さんに質問を投げかけていた。寺垣さんは、私が持っていた資料に目を留め、なぜその資料を持っているのか、この資料はごく限られた方にしか差し上げてないのに、と質問された。持っていた資料は、寺垣研究所を訪問したときにいただいたものであり、プレーヤー開発に至った経緯、プレーヤー設計のコンセプト、1号機から7号機を経てΣ3000(第11号機)に至る説明書で、それぞれの製品には紙焼きのカラー写真が貼り付けてある。Σ3000については技術的に見た9つの特徴が記されている。

 14年前に科学技術と経済の会の懇話会でお話を聞いたこと、TTレターに聴講記を書いたこと、研究所をお訪ねしたことを説明したら、私のこともTTレターはっきりと思い出してくれた。科学技術と経済の会での懇話会は、たくさん行った講演の中で最も充実したものだったこと(日本の有力企業の技術者がたくさん出席していたこと)、また、会の当時の顔だった只野常務のことも記憶しておられた。

 1992年に研究所を訪問したときに、見慣れないスピーカーが目についた。寺垣さんがプレーヤーの開発を一段落して、スピーカーの開発を手がけ始めた時期だったと記憶している。今回は「波動スピーカー」も聞かせてもらったが、スピーカーについては省略する。

 オーディオテクニカの創業者の松下秀雄社長(当時)が3年間に3億円ほど支援。さまざまな工夫を凝らしたプレーヤーは、リコーの協力を得て、昭和62(1987)年に「Σ3000」として発売、値段は230万円で6台を販売。セイコーエプソンなどの支援により平成6(1994)年にΣ5000を発売、320万円にもかかわらず、30台ほどは売れて評判になり、海外からの取材もあった。続けてセイコーエプソンから140万円の廉価タイプのΣ2000を出して、これは47台ほど売れた。20年間に5.5億円を投じたことになるという。(販売実績などについては、インターネットより最近得た知識)
 
 予定された時間が過ぎ、片付けをはじめる前に、池上祭のコーディネーターやスタッフの方々が記念写真を撮るために装置の後ろに寺垣さんを中心に並んだ。私にも声がかかり仲間に入れてもらった。
 寺垣さんから、どうぞ研究所においでください、という丁重なお言葉をいただいて会場を後にした。

 世の中には「技術の権化」と言われる人に出会うことがある。日立で日本最初の電子顕微鏡を開発した科学技術と経済の会の只野常務もそのひとり。寺垣さんは工作機械で培った技術と技術屋魂を、レコードに刻まれた音を忠実に取り出すことに注力された。寺垣さんのことを書いていて、物理化学の技術を駆使して「耀変天目茶碗」を生み出した安藤 堅さんに寺垣さんとの共通点を感じる。最近、著書「碗の中の宇宙」を入手することが出来た。いずれ編集後記で取り上げてみたいと思う。
スミマセン Σ3000の技術的な9つの特徴や「波動スピーカー」について追加が出来ていません】

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■オーディオ三昧:(その1)アナログ時代の装置が活躍している【NO82・050901】 2017年7月に一部追記
 何時の頃からか、コンサートに行くことやレコード(後にCD)を買うことに変わったが、ずっと若い頃はオーディオに興味を持ち、道具にも凝っていた時期があった。オーディオについては天井知らずの世界であり、あくまでも身の程にあったレベルのお話である。
 1966年頃にスピーカー(今も使っている)を買ったいきさつと、引越しでスピーカーの本体の一個を壊し、イギリスへ出張したときに、「ロンドンの秋葉原」へGOODMANを買いに言った話は、以前にメルマガIDNに連載した「龍のコンサート三昧(第5回)」に書いた。

アンプ
 現在リビングに陣取っているオーディオ機器はいずれも骨董品の部類であり、いずれも高級品ではない。メインアンプは、ラックスのキッドA3500。知人のOさんが組み立てたもので、パソコンの自作に興味が移ったと言って譲ってくれた。夏場に聴いていると、真空管の熱が心配になる。
 長期間なじんだ山水のプリメインアンプ AU−111(1966年購入)は天袋の奥にあり、メインアンプ部はまだ健在のはずである。山水は経営的に苦しくなったが、千葉の担当の方は親切で、長期間アンプのメンテナンスをやってくれた。しかし、プリアンプ部の異常について相談にいったら、もう勘弁してくださいといわれ、AU−111はプリメインアンプとしてはリタイヤーすることになった。
 この時期にOさんが譲ってくれたラックスA3500が我が家で定位置を占めている。山水のほうが馬力はあるが、ラックスのほうが音のヌケがいい。つい最近、山水のAU−111は復刻されて発売になったが、値段を見てびっくりした。

CDプレーヤー
 ヤマハのCD−2000W(1985年購入)。このプレーヤーの音は透明感があって良いが、メカにやや神経質なところがあり、CDの条件によるのかプレーヤーの気分なのか再生時にトラブルがおきるときがある。

テープレコーダー
 ティアックのV−1RX(1982年購入)。ドルビーB・C・dbx の3つの回路を装備している。何回か修理の手が入っているが健在であり、大衆品としては優れものである。

チューナー
 山水のTU−777(1968年購入)が時々鳴っているが、これはアンテナのせいか十分に機能しているとはいえない。
 TU−777のその後:よみがえった40年前のチューナー 《サンスイ TU−777》

チューナー テープレコーダー
プリアンプ
VTR
CDプレーヤー
メインアンプ
スピーカー
 当時はよく秋葉原に通ったし、部品ごとにメーカーの研究所や視聴室を訪れ説明を聞き視聴させてもらった。何回も通っているうちに、日本楽器銀座店の視聴室に置いてあったスピーカーを譲ってもらうという僥倖にも恵まれた。

 スピーカーについてはロンドンの秋葉原へ行った話をご覧ください。

アナログプレーヤー部
 アームはSTAXのUA−3とグレースのG−545Fがあり、カートリッジはフィデリチィ・リサーチのFR−1(MK−2)とシュアーのV15TYPE3が最後まで生き残った。
 モーターは、マグネフロートMF−102SB(1966年購入)。ターンテーブルがマグネットで浮かせてあり、重いターンテーブル(2.2Kg)の慣性を保ちながら、マグネットで浮かすことにより軸受けへの荷重の負担を軽減させている。当時では画期的なアイディアを盛り込んだ製品である。発売もとの東京電子機器はテアックに吸収されて、マグネフロート方式を踏襲しながら新しい製品が販売されていた。
 プレーヤーのケースは、会社で関係のあった木工会社の知り合いに図面を渡して作ってもらった。モーターを載せるボードとアーム用のボードを切り離すなどのノイズ対策への配慮をした。
 秋葉原のテレオンへ行けば、新しいベルト(モーターとターンテーブルを結ぶもの:幅6m/mでエンドレス)を買うことが出来たが、そのうちに販売中止となった。仕方なく「糸」で代替することを試みた。キャプスタン(モーターの軸でベルトを受けるところ)が円筒でなく幅6m/mの中央部の直径が大きく、糸の位置を定めるのに苦労した。また、糸の結び目がキャプスタンを通過するときのノイズを消すことは出来なかった。

レコードからCDへ
 プレーヤーのベルトを買うことが出来なくなってから、音源はすっかりCDに変わってしまった。現在は、CD・テープ・FMチューナーをダイレクトにメインアンプにつないでいる。やはりOさんより譲ってもらったプリアンプC−12をそっくりキッド化したA2021を電源を入れないでスイッチングに使用している。
 道具を求めた時期も今では懐かしいが、道具の追求には終わりがなく資金もままならない。ある時期からソフトに転向。レコードを買うこと(そのうちCDに変わった)と、コンサートに行くことにした。そして、それからの時間のほうがずっと長くなった。

最近のお話:ペンション「フィールドノート」
 2003年5月に行った雫石にあるペンション「フィールドノート」の主人は、深夜に大きい音を出したいためにペンション村の外れの土地を買った。建物の土台も特別仕様にし、自慢のアナログのオーディオ装置が特殊な土台の上に置いてある。私が道具に興味を持っていた時代のものであり、昔を懐かしんで夜おそくまで持参したレコードを聞かせてもらった。
ペンション「フィールドノート」

アナログとデジタル
 今の秋葉原はすっかり変わってしまった。アドバイザー講座を秋葉原で行っている頃、講座の帰りにオーディオの専門館があるのを見つけた。アナログ専門のフロアーがあり、担当の人と話をしていたら、浦島太郎の心境になった。私の頃の道具は、アナログで録音された音源を再生するための道具であり、現在のデジタルで録音し、デジタル処理をした音源を再生するには適していない、と諭された。しかし、私がよく聞く曲は、アナログ時代のものも多いので「まあいいか」と慰めている。

オーディオに関する2005年以降につてはこちらをご覧ください。
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■ヨット三昧【NO81・050815】
 散歩道のある北と南の川は我が家のすぐ近くで合流し、約4Km下ると海に出る。そのすぐ近くに市営のヨットハーバーがある。このハーバーに1991年からヨットを置いていた。
 誤解のないようにまず言っておかなければならないことがある。英語圏の人に、「ヨットを持っている」と言ったら目を丸くされるかも知れない。ヨットとは、映画「太陽がいっぱい」に出てくるような立派なクルーザーのことを言うようで、ここで話題にするセイリング・ディンギィーというタイプの船はボートというのが正しいらしい。

 単身赴任で大阪へ行っていた会社の先輩が、独り身の余裕(寂しさ?)で芦屋の浜でヨットを楽しんでいた。東京へ戻ってくることになって、所有している船のおき場所を探していると、お酒を飲んでいるときに言った。千葉市の広報誌で市営のヨットハーバーの陸置き場の利用者を募集をしている事を知っていたので、問い合わせてみたら、市民であれば権利があるということがわかった。私の名義の置き場にHさんは2〜3年船を置いて夏場にセーリングを楽しいでいたようである。私は置き場の大家で、一緒に乗せてもらったことはなかった。ある日またお酒を飲んでいるときにHさんは、船に乗る機会が少なくなってきたので陸置きをやめたいと思う、船をほしい人がいたら手放してもいい、オブリゲーションなしで、と言った。そのときの心境ははっきりとは覚えていが、「私が引き受けましょう」と言ってしまった。

 まずこのハーバーの教室の講座に通い、試験を受けて、(財)日本ヨット協会の認定証をもらった。1991年の仮認定証には5級と書いてあり、91−09発行の認定証には「ショ級」と書いてある。学科と実技の試験がOKになったところで、ヨットハーバーを利用するための講習会を丸一日受けて、1991年5月に受講修了証をもらった。
 船に乗る資格とハーバーを利用する権利を取得し、船もある。しかし、車の場合と同じでですぐに船を海上に出せるわけでもない。実践の勉強はそれからである。会社の中で同好者を探したがおいそれと見つからない。しかし良くしたもので、当時参加していた「トレンド研究会(非公式な異業種交流会の一種)」のメンバーで市内の同じ区に居住しているTOさんが教えてあげるよ、と言ってくれた。学生時代に琵琶湖でヨットに乗ったことがあり、インターハイにも出たことがあるという。
 その夏は土曜日ごとにハーバーに出かけた。午前中に乗って、昼休みにはレストランでビールを飲んで食事をし、午後に2時間ほど乗って3時頃にはハーバーへ戻った。5月の連休が過ぎると、「そろそろ始めましょう」という年が何年か続いた。
 
 市営のハーバーの外の海域は自由に航行していい訳ではない。正確な面積はわからないが、海岸線に沿った長さはJRの3駅(新検見川−稲毛−西千葉)にまたがり、海岸から沖合いまでの長さはその4分の3程度。このエリアが3つのゾーンに区切られている。ゾーンの目印は、ブイによって示されており、日によって航行できるゾーンが指定される。このエリアについては常に巡視艇が監視しており、沈(ちん)したときも、巡視艇がそばまで来て、自力でヨットを起こすのを見守ってくれる。このエリアから逸脱すると巡視艇が来て注意される。このエリアの外は貨物船や漁船などが航行するので危険な海域である。
 防波堤で囲まれたハーバーの内海から外のエリア出る細い水路のそばに吹流しがある。通常は緑、風速が7mを越すと橙、10mをコ越すと赤に変わる。橙になると、技術レベルの低い艇はすぐに、赤に変わるとすべての艇がハーバーの内海に戻らなくてはならない。

 ヨットに乗っているのは楽しい。水の上は気分がいい。夏も暑さを感じない。海上から眺める陸の景色(人工の砂浜と松林)もいい。魚が泳いでいたり飛び跳ねるのも見ることが出来る。TOさんとの雑談も楽しい。ヨットを走らせるスピードの爽快感がある。ここでは全国のヨットレース大会なども行われることがあり、隣のゾーンから見学したこともある。
 風上に向かって45度方向に上っていく理論を実践する面白さ、風下に向かって走らせる時のスピードはあるが不安定な感じ、方向転換も風上に向かっているときと風下に向かっているときの方法は全く異なっている、目的に沿ったロープワーク、海面の模様で風あるところの見つけ方、セールへ最大限に風を捕らえ方法、自然との戦いは体力と知力が求められる。また規則も紳士のスポーツとしての厳しいものがある。ヨットに乗ることはおわりの見えない奥の深さがある。
 初歩的な経験を重ねてゆくと、以前はテレビでただ見ていただけのアメリカズ・カップも興味が倍増する。ルールを守りながらの、風を有利に捕まえるための相手との駆け引きなど、テレビを見ているとわかるし、解説者の説明の言葉づかいやその意味をよく理解できる。

 数年前にHさんから譲り受けた艇を処分して、TOさんと共同で新艇を購入し、きれいなブルーのサイド、白色のデッキ、純白のセールの艇で楽しんだ。
 
 何年か続けるうちに、TOさんも忙しい状況になり日程が合わないことも多くなった。私も週末はテニスもやりたいし、ゴルフに誘われ、アドバイザー講座も始まって・・・、たくさんの用が重なって足が遠のいた。リタイヤーした後はもっと乗る機会も増えると思ったが、思惑と違った状況が続いた。ひと夏に2〜3回しか乗らない年が何年か続いた。陸置き料は湘南のハーバーに比べると格段に安いが、1日の遊びとしては高負担となり、リタイヤーした後は遊びのダウンサイジングの対象として考えるようになった。このハーバーには貸し艇があるので、乗りたいときには貸し艇を利用しよう、ということでTOさんと合意。今年度になって船を処分することを決心した。

 先日偶然、稲毛駅のホームでTOさんに出会った。「貸し艇でまた乗りましょう」という話になったが、1991年に「50の手習い」ではじめたヨット三昧は当面休止状態になっている。

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■月下美人
【NO80・050801】
 夜の8時過ぎに玄関のチャイムが鳴った。扉を少し開けると知らない女性の顔が見えた。急いでいる様子で「隣のNです」とおっしゃる。隣に住んでいながら以前に奥さんの顔を見たことがなかった。扉を開けると、右手に白い花、左手に水の入った小さな容器、両手の間に緑の大きな葉に見えるものがあり、花と容器はつながっていた。「月下美人の4つの花が同時に咲き出したのでひとつお持ちしました。ご覧になってください」という言葉で事情が飲み込めた。
 ひとまずお礼を言って、左手に花を、右手に水の入った容器をもちリビングのテーブルの上にそっと置いてから、玄関のドアを閉めた。花は蕾の状態はすでに過ぎて花が咲きはじめていた。

 月下美人という花については実物を見たこともなくほとんど知識がなかった。シニア情報アドバイザー講座の事例発表で、第2期生の堀江弘恵さんが「季節の花の写真を添えてはがきを送りましょう」という題で発表されたことがあり、そのときの花が月下美人だったことを思い出した。一夜しか咲かない花を写真に撮り、写真を画像処理して暑中見舞いのはがきに貼る手順を説明してくれた。2001年11月のことである。

 写真を撮るためにNikonFとデジカメを準備しまず最初の撮影。それから月下美人を知るためにインターネットの力を借りた。ネットの向こうには無限に情報があるのに改めて驚く。数年にわたって月下美人の花を咲かせ、写真を撮り、時系列的に生育と開花の様子を紹介している人もある。月下美人オタクとでも言おうか。

月下美人について得た知識。
 ・メキシコの熱帯雨林地帯を原産地とするサボテン科クジャクサボテン属の常緑多肉植物
・学名:Epiphyllum oxypetalum
・闇夜でも目立ち、薄明かりに浮かび上がって見える白い花
・辺りに顔を近づけると目に沁みるほどの強さの素晴らしい芳香を漂わせる
・茎のほとんどは昆布状の扁平な葉状茎になっている
・夜に咲き始め朝に一夜限りで儚く花はしぼむ(開花期:7〜11月)
 
 美しく咲きつつある真っ白な花は、デジカメが被写体として最も不得意とする対象である。花の白い色と微妙な陰影を出すのはとても難しい。しかし、デジカメのいいのは、撮ってすぐに結果を確認できることであり、今回は自宅ではパソコンに移し、拡大してすぐに確認することが出来るところである。
 
 目視で花が咲く変化を見ることは出来ないが、いつの間にか花は咲き形は大きくなってゆく。20時26分から23時17分の間にデジカメで約40枚、NikonFで数枚撮影した。
 華会の写真の現像とプリントでいつもお世話になっている写真屋に、フロッピーとフィルムを持ち込んだ。その足でアドバイザー講座に出かけ、夕方にもどるときプリントをもらった。写真屋の親父は、いつものようにプリントの段階で微妙な補正をしてくれた。心配した純白の花の陰影も思ったより良く出ている。夕方にお隣へ写真を届けた。
 
 隅田川では花火大会が行われている夏の夜に、月下美人とともに優雅なひとときを過ごすことがが出来た。朝まで花は咲き続けることもあるという説明もあり、期待しながら眠りについた。
 朝起きて月下美人を見た。昨夜はあんなに大きくしっかり咲いていた花はしぼんで、蕾のように見えた。葉状茎から花につながっている茎も力なく、ひと夜の夢が終わったのを知った。

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■「縄文的なもの」と「弥生的なもの」 その1 【NO79・050715】

 「縄文」と「弥生」を対比して考えることに興味を持ったのは、丹下健三の「桂」に関する文章を大学の建築科の図書室で読んだ20代始めの頃である。「縄文」と「弥生」について語ることは日本文化論に踏み込む大事になる。ここでは表面をなでるだけになるのをお許しいただきたい。「縄文」と「弥生」についての文献はたくさんあるが、3つの文献を取り上げてみた。


 <谷川徹三 縄文的原型と弥生的原型 岩波書店 1971年>
 朝日新聞(昭和40年)の『日本の美』と雑誌「世界」(昭和44年)の『日本の美の系譜について』として書いたものに「縄文」と「弥生」の対比を見ることが出来る。谷川は、日本の美の原型を縄文土器と弥生土器に見ることが出来るとし、この両者は美の性格において対照的に異なっている、と言っている。縄文土器は自由で奔放な形と装飾性に見られる怪奇な力強さを特色としており、そこには渦巻いている幻想があり、暗い不安が秘められた情念の焔を上げているようなところがあり、弥生土器は、器物の機能に従った安定した美を示し、すなおで優しく、明るくて親しみ深い、と言っている。

 
 『日本の美の系譜について』の中では、両者の原型の持つ意味を三角錐の形を借りて図解して示している。
・縄文的原型:動的・装飾性・怪奇・有機的 (動的 が三角錐の頂点)
・弥生的原型:静的・機能性・優美・無機的 (静的 が三角錐の頂点)
ヨーロッパ風に言えば、ディオニュソス的(縄文)とアポロ的(弥生)という対立概念との類似も見られる、とも言っている。


 さらに、2つの原型の対照を、日本の造形芸術の歴史の中に幾つかの例を示している。
・貞観の仏像彫刻と藤原の仏像彫刻
・桃山の障屏画と初期肉筆浮世絵
・日光と桂
・瀬戸黒や志野や織部の茶陶と柿右衛門や京焼
・北斎と広重
・伎楽面と能面(この項は本文の中より追加)


谷川は、これらの比較の説明の後に、「この2つの原型の中で、日本の美の正系は弥生的系譜の中にあることも、ここで改めて言って置いた方がいいでしょう」と言っている。


<高橋富雄 NHK市民大学 地方からの日本史 1987年10月―12月>
 講師は当時の盛岡大学教授 高橋富雄、福島県立博物館館長とプロフィールが紹介されている。この講座の初日が『縄文日本と弥生日本』というテーマ。高橋は、日本文化論において、「縄文的」と言うことと、「弥生的」と言うことを併称して日本文化の二大典型(プロトタイプ)という風に考え持論を展開している。

 

 高橋の視点の特徴は、「顕著な地域的な違い」に着目したことであろう。縄文は東北型日本文化(東日本・東北日本を中心とする東型)、弥生は西南型日本文化(西日本・西南日本を基盤とする西型)と、2つの「風土」の類型として区別している。さらに、弥生型西日本が「先進の中央」、縄文型東日本を「未開の地方」と類型している。


 高橋は、谷川の考え方を紹介した後で、下記の対照の例をあげ、日本文化におけるアポロ的とディオニュソス的、西的と東的という構造的な差違の問題を、中央型対地方型の類型差のそれとして扱うことが出来る、と言っている。

(原文のまま:「弥生的なもの」が左側に記載されている)
・神護寺薬師如来と黒石寺薬師如来
・定朝様式と鉈彫り
・本居宣長と安東昌益
・北原白秋と宮沢賢治


 高橋着目した大地溝帯(フォッサ・マグナ)。地質学上そのように呼ばれている、日本列島を大きく東西に2分している地質上の構造体(糸魚川−静岡構造線)は糸魚川−岡谷市−山梨県西辺−静岡市に至る。高橋は、地勢的な摂理による東と西の理法がほとんどそのまま歴史の理法になる、とも言っている。


<ワルター・グロピウス 丹下健三 「桂」日本建築における伝統と創造 1960年>
 1913年生まれの丹下が47歳の時、『桂にいたる伝統』の中で、「縄文的なもの」と「弥生的なもの」に言及している。

丹下は、「縄文的なもの」について、自然との奔放な戦いの中から生まれてくるような、量感にあふれた強靭な意欲と、自由で敏捷な感受性が現れている、生命の流出が自由な空間性と抵抗的な量感をともなってほとばしっている、ヴァイタルなもの、生成的なもの、ギリシャにおけるディオニュソス的、3次元的、動的、生成的と表現している。
 「弥生的なもの」については、整正さが支配しており、悟性的なものの表れを見る、自然の恩寵を知ったものの静かな感情、自然に対する受身の妥協からくる静かな平板性、悟性による抽象性、エスセティクなもの、アポロ的、2次元的、静的、形式的と表現している。


 丹下は「伊勢神宮」は弥生的なものに属するが、弥生的性格からくる明快な幾何学的秩序だけで説きあかすことの出来ない要素が含まれていることを説明し、本題の『桂の創造』へ筆を進める。(途中の説明は省略して結論へ)

 「桂」は弥生的なものと縄文的なもの、あるいは上層文化の伝統の形式と下層文化の伝統の形式という2つの系譜−これを言い換えれば伝統と破壊が、この桂に自由な精神をみなぎらせ、また創造性をさらに緊張したものにしている、と書いている。


 梅原 猛を登場させるスペースがなくなったのは残念であるが、「縄文」と「弥生」については、さまざまな見方や考え方があり、日本の伝統や文化や芸術を語る切り口として興味深いものがある。私個人的には、「パラダイム」を考える時の有力なアイテムのひとつとなっている。

 

 私は「縄文的なもの」と「弥生的なもの」は、明確に対照として見える場合と、両者が融合している場合(今の言葉ではフュージョン)があると思う。また歴史の流れの中に、「縄文的なもの」を否定し「弥生的なもの」が次に現れて、次の「縄文的なもの」が新たな時代を作ってゆくという歴史が循環する現象を見る。縄文時代から弥生時代への変化、平家から源氏への変化、などその典型である。

 奈良と京都をおとづれる時に、両者に明らかな違いがあることを感じてきた。奈良は「縄文的なもの」であり、京都は「弥生的なもの」の典型であると考えると、違いがわかるような気がする。奈良と京都を対照として見るという記述を見たことはないが、「縄文」と「弥生」を考える時に長期間意識していたことである。


 岡本太郎を現代の「縄文的」な人の代表と考えたときに、「弥生的」な人の代表は平山郁夫?、などと考えるのは面白い。35年も前に大阪万博の「太陽の塔」の仕事で岡本太郎の自宅を訪問したことがある。岡本太郎に直接接した際の強烈で「縄文的」な印象は今でも残っている。同席していた、音楽プロデュース担当の黛 敏郎は「弥生的」な感じがした。


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■川沿いの散歩道
 【NO78・050701】
 平成16年度に最も注力した仕事の報告書を提出し一段落したことにより、5月の連休には自宅にいる機会が増えた。朝食を終えてパソコンの前に座ると、やるべきことやりたいことがたくさんあり、つい長時間椅子に座っていることになる。体を動かすことの必要性を感じた。

 私の部屋の窓の下には水路があり、水路のそばには遊歩道が整備されており、時々歩いている人の頭が移動するのが見える。私も休日にテニスをやる日には、数分間この遊歩道を通って、準備運動を兼ねて走りながらコートへ行く。この遊歩道を歩いてみようと思った。

 最初は、テニスコートとは反対の方向に歩いた。水路の両側に遊歩道が設けられており、その片側を早足で30分歩いても、水路と遊歩道はもっと先まで続いており、その日は途中で引き返した。川のほとりは緑がいっぱいで、花がたくさん咲いているのに驚いた。
 家に戻って千葉市の地図で確認すると、折り返した地点の少し先が薗生(そんのう)で、水路の源流になっていることがわかった。宮野木ジャンクションの中心あたりを源流とするもうひとつの水路は、我が家のすぐ近くで合流し海の方へ流れている。合流地点より以前によく通ったヨットハーバーのある海までは約4Km。

 合流地点より、右方向の上流を「南の散歩道」、左方向の上流を「北の散歩道」と勝手に名づけることにした。

 次の日には、「北の散歩道」を上流に向かって歩いた。上流に行くにしたがって水路の幅は徐々に狭くなってゆく。こちらの遊歩道は途中で舗装が途絶えて砂利道が続いており、源流までたどりつくことが出来なかった。
 次の機会には、水路の合流地点より下流へ下ってみた。こちらの水路脇は、遊歩道とも街路とも区別がつかない状態で、途中で遊歩道がなくなっている。道路を歩いて迂回し、水路を横切りながら、水路が14号線を横切るところまで行った。これより下流は水路の幅も広くなっており、水路・歩道・車道という構成になっており散歩道という感じではなくなっている。

 以上でこの水路のおおよその状況がわかった。また、「北の散歩道」にある掲示板で、この水路は「草野都市水路」という名前であり、遊歩道は「水循環・再生下水道モデル事業」として整備されたことがわかった。掲示板には、都市下水路の親水性を増進するとともに、良好な都市景観を形成するために、管理用地を利用して緑化するための植栽を行い遊歩道を設置したもの、と紹介してある。集水面積:836ha、水路延長:6.4kmであることを知った。

 千葉市のホームページの中に「草野都市水路」が簡単に紹介されているのを見つけた。下水道局 都市排水課に電話したら、都市下水路係のNさんが出て、次の日までに親切にデータを調べてくれた。この水路は約30年ほど前に作られたこと、北の水路が2004m、南の水路が3148m、下流は合流地点から花園橋までが1340mであることを教えてくれた。遊歩道の整備は、途中にある標識で平成6年度から7年度にかけて整備されたことがわかった。

 遊歩道の路面は、20cm×10cm×8cm(高さ)のブロックが敷き詰められている。表面の角は面がとってあり、目地が見える。遊歩道と水路の間は丈夫なフェンスが設置されており、水路に入ってはいけないという表示板も随所に置かれて安全性を確保している。先日、パリが2012年のオリンピック誘致活動の一環として、街のイメージ向上のために石畳の道路を復活している状況をテレビで見た。パリは本物の石の様で、目地をはっきりと見える石畳だった。
 何回か歩いて、北と南の水路の源流まで到達し、南の源流にあった園生池は、緑豊かな広場としての整備されていること、水路沿いの遊歩道には、たくさんの桜が植えられていること、休憩のためのベンチも備え付けてあること、夜間は街路灯でライトアップし、安全で親しみやすい遊歩道となっていることなどがわかってきた。
 
 5月の終わりころから、デジカメを持って南と北の散歩道を歩いた。水路と遊歩道の表情、水路沿いの花、遊歩道のほとりの花、花で彩る家、管理されている水路と遊歩道などをテーマに写真を整理して、「南の散歩道」を私のホームページに加えた。「北の散歩道」についても、いったんページを作成したが、歩くたびに新しい発見があり、現在追加・修正を行っている。

 歩くときにイヤホーンを装着し音楽を聴きながら歩くことも考えたが、音の風景(サウンドスケープ)を楽しむためにやめにした。花の種類の多さについて、水路と遊歩道に植えられている桜の多さに圧倒される。今は緑が濃くなってきているが来年の桜の季節を楽しみにしている。


川沿いの散歩道の紹介はこちら

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■映画も楽しい 〜ルキノ・ヴィスコンティ〜【NO77・050615】

 ルキノ・ヴィスコンティ(Luchino Visconti)は興味を持っている映画監督のひとりである。記憶に残っている監督作品をいくつかあげてみよう。

郵便配達は二度ベルを鳴らす(1942)、夏の嵐(1954)、山猫(1963)、地獄に堕ちた勇者ども(1969)、ベニスに死す(1971)、ルードウィヒ 神々の黄昏(1972)、家族の肖像(1974)、イノセント(1975)、など興味を引く作品がたくさんある。

「キネマ旬報ベスト・テン全史(19461996)」の「戦後ベスト・テン入選監督ベスト35(外国編)」によると11位にランクされている。

 

 ヴィスコンティ論に深入りするのは本意ではないが、私の感じたことの一端を書いてみる。

 ヴィスコンティは1906年に貴族の家庭に生まれ1976年に死去。ジャン・ルノワールのもとで助監督をつとめながら、1942年の「郵便配達は二度ベルを鳴らす」で第1作デビューし、ドイツ3部作など佳作を多く残した。ヴィスコンティは舞台演出家としての顔も持っている。

 ヴィスコンティの映画づくりを一言で表現すると、「デカダンスdekadence (注参照)という言葉が最適であろう。 ヴィスコンティは、「デカダンス」を表現するのに、「貴族」を選んだ。ヴィスコンティ自身が貴族の出身であることから、貴族について知り尽くしており、緻密な表現には驚かされる。

 

<取り上げたテーマ>

 ヴィスコンティが映画で取り上げるテーマをあげてみよう。ヴィスコンティはこれらのテーマについて、繰り返し追求している。

・愛:男と女、家族、特に彼の場合には「男と男」が加わる

・美:美しさ、若さ、貴いとされているもの、知的なもの、威厳と気品、官能

・葛藤:上記の愛と美の対極にあるもの。欲望、嫉妬、頽廃、憎悪、病気、醜さ、老い、生と死

 

<映像での表現>

・背景:風土、田園、まち、建物、戦争、政治、色彩

・場:宮殿、住まい、庭、インテリア、

・道具:食器、衣装、装身具、宝石、家具・調度品、乗り物(馬車)、

・生活:仕事、社交、舞踏会、食事、酒

・趣味:音楽、スポーツ、アートワーク

・宗教:信じること、罪

 いつのころからかこのようなことを頭に入れながら彼の映画を見るようになったが、映像のひとつひとつにこれらの要素が丁寧に描かれており何回みても興味が尽きない。

 

 「ベニスに死す」では音楽にマーラーの交響曲第五番が使われている。カラヤンがマーラーを演奏するときに言った「マーラーの音楽は崇高と通俗の紙一重のところにある(表現は正確でないかもしれない)」という言葉に対して、ヴィスコンティはどのような感じを持つだろうか。

 「宗教」についても彼独特のこだわりがあるようだが、私にはよく理解できない。宗教に対する考え方について理解ができれば、ヴィスコンティの映画をもっと深く感じることが出来るかもしれない。

(注)デカダンス dekadence :19世紀末の仏などの芸術家たちを支配した精神の退廃的傾向。自己中心的であり、また何事にも懐疑的で、強い倦怠感を抱き、珍奇なものを求めて、耽美的・官能的な刺激に浸ろうとする。(コンサイス カタカナ語辞典)


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■映画も楽しい 〜世にも怪奇な物語
【NO76・060501】

 05年5月16日のNHKのミッドナイト映画劇場で「世にも怪奇な物語」が放映された。映画は映画館で見るものと思うが、今回はテレビ(字幕つき)で見たことによるお話。

 「世にも怪奇な物語」は3つの短編で構成されており、仏・伊合作のオムニバス、原作がエドガア・アラン・ポウ、監督はロジェ・ヴァディム、ルイ・マル、フェデリコ・フェリーニの3人、音楽はニーノ・ロータ、出演者としてジェーン・フォンダ、アラン・ドロン、ブリジッド・バルドー、テレンス・スタンプ、という顔ぶれに惹かれてずっと昔に映画館で見た。データで見ると1967年の製作で、前回話題にした「キネマ旬報ベスト・テン全史(1946−1996)」によると、69年に洋画部門にノミネートされ44位にランクされている。

 
 今回はテレビで映画を見た後でポオの原作を読んだ。我が家の本棚の隅っこの推理小説群の中に、谷崎精二訳の「ポオ全集」全6巻が保管されていた。春秋社版、昭和44年(1969年)に新装版第一刷発行と表示されている。全集の中にはたくさんの小説や評論があり、第6巻は全詩集となっている。いざ函から本を取り出そうとしたら本が膨張したのか、函が縮んだのかびくとも動かない。函を少し壊してやっと取り出すことが出来た。3つの作品のどれも映画と原作の題名が異なっており、対応させることに一苦労した。映画の原作として取り上げられた作品はいずれも短編であり、電車の中で読むのにちょうどいい長さだった。


第1話「黒馬の哭く館」

原題:「メッツェンゲルシュタイン」、監督:ロジェ・ヴァディム

 第1話はポウ全集の第2巻の「幻想的、怪奇的な物語」の中のひとつ。原作でフレデリックは、名前は同じだが、18歳の莫大な遺産を引き継いだ男爵である。恥ずべき淫蕩、恐ろしい不信、古今未曾有の残虐については映画と共通している。いく世紀の間仲たがいしてきたベルリフィッツィング家のウィルヘルムは馬と狩猟が好きの年老いた、耄碌(もうろく)した老人となっている。

映画では、22歳の若さで、莫大な財産を相続した伯爵家の令嬢フレデリック(J・フォンダ)は気まぐれでわがままなので、彼女に逆らうものは居なかった。以前より対立していたベルリフォジング男爵家の若いウィルヘルム(P・フォンダ)だけが従わなかった。敵対するウィルヘルムにフレデリックが惹かれるようになることから物語が展開する。対立する2人の位置づけが全く異なっている。

  映画では、馬を織り込んだ壁掛けの怪、ウィルヘルムが厩の火事のとき馬を助けるために死ぬこと、暴れる黒い馬、大火事でのフレデリックの最後について原作からもらっている。


第2話「影を殺した男」

原題:「ウィリアム・ウィルスン」、監督:ルイ・マル

 第2話もポウ全集の第2巻に収められている。同じ姓名、同じ容貌の二人のウイルスンが登場。本能的で淫蕩的な悪の限りを尽くす悪のウイルスンが、道徳的で良心的なもう1人の善のウイルスンにことごとく行動を妨害される。思い余った悪が善を刺し殺す。悪のウイルスンは善のウイルスンを殺したと思ったが実は自分を殺していた、というお話。

 原作の中で「法律をものともせず、しかもきびしい掟の網をもたくみに免れた乱行」と書いてあるが、映画では猟奇趣味が過ぎると思われる逸話を創造し映像化している。原作では、「エカルテ」というカルタ賭博で若い成金の息子グレンディニングから巻き上げるお話がある。映画では、悪のウイルスン(アラン・ドロン)とグレンディニング(ブリジッド・バルドー)が対戦し、グレンディニングは金がなくなり、自らを賭けて負け窮地に陥る。そのとき善のウイルスンが突如現れていかさまを暴露しグレンディニングを助ける。悪のウイルスンの死のシーンについては原作と映画は若干異なっており、映画は平凡である。原作を映像にするのが困難だったのかも知れない。


第3話「悪魔の首飾り」

原題:「「悪魔に首を賭けるなかれ」、監督:フェデリコ・フェリーニ

 ポウ全集では第4巻の「耽美小説編」に収められている。母親の特異な個人的欠点と貧乏が根底にあり、トビイ・ダミットは生まれて5ヶ月目から悪事に長足の進歩を遂げた。賭けが好きで、やがて「悪魔に僕の首をかけよう」というのを決まり文句とした。

 散歩の途中で渡った屋根つきの橋の最後に回転式の木戸があり、ダミットはドアを回転させて通るのをいやがって、木戸の上でピジョン・ウイング(スケートの回転法の一種)を演じて見せると言いはった。勢いをつけて走ったダミットは木戸の上で鮮やかに飛び上がり、足がすばらしいスケートの型を描いて見せるが、橋を補強するために木戸の上にあった平たい鉄棒で首を落として死んでしまう。

 フェリーニは、テレンス・スタンプをイギリスのかつて有名で今はアルコール中毒のシェークスピア俳優をトビイ・ダミットに仕立てた。映画のダミットは新車のフェラーリの提供を条件に映画出演のためにローマにやってきたという想定。ダミットはローマ郊外の町をフェラーリで疾走する。車は工事中の橋の手前で急停止する。ダミットはフェラーリのスピードを駆って橋のない部分を飛び越えることに成功するが、橋の上に張ってあったロープで首を落としてしまう。

 
 この映画では脚本も担当している3人の監督の発想の豊かさに脱帽する。原作からいただいたのはその物語の主題となっているワンポイントであるといえよう。第1話ではタピスリーの馬と、永年の宿敵である2人。2話では2重人格のウイルソンの猟奇。第3話ではスピードを出して飛んで首を落とすこと。監督はそれぞれに自分の想像を膨らませて映像化した。ロジェ・バディムは時代をしっかり捉えた耽美的な美しい画面を創り、ルイ・マルは猟奇的な逸話を創造し、フェデリコ・フェリーニは自分の映像を全編にちりばめた。フェリーニの「甘い生活」では浜辺で必死に叫んでいる「少女」の声に耳を貸さず皆引き返してしまう最後のシーンが暗示的だった。「悪魔の首飾り」でも、原作の「奥ゆかしい小さなびっこの老人」の変わりに「少女」を登場させた。ここでは不吉な表情をした少女に招かれるようにダミットはフェラーリで橋のない川を飛び、首を落とす。空港から映画関係の表彰式の会場までの車の窓からみた夜の街のシーンにはフェリーに好みがふんだんに使われている。また、酔っ払ったダミットが夜の街をフェラーリで疾走るところも圧巻である。 

 
 今回、映画の原作であるポウのいくつかの短編を読み直して気がついたことがある。お話しの語り口がまるで文楽の三味線の始まりに似ているのである。調子を整えながらいつの間にか旋律が現れて本題に入り大夫の語りが登場する。ポウは自分の広範囲な知識を披瀝しながら語り始め、そのうちに物語の本題に入る。とてもポウの博識にはついてゆけないが、「悪魔に首を賭けるなかれ」の導入部では「コック・ロビン」など知っている言葉も登場する。これはヴァン・ダインの「僧正殺人事件」に登場し、横溝正史は「悪魔の手毬歌」で日本のお話に仕立て直したという、推理小説の知識が役立った。


 映画「世にも怪奇な物語」は、背後にポウが存在するからかも知れないが、たくさんの楽しみを与えてくれる数少ない映画のひとつであることをあらためて認識した。

(注:人の名前や「びっこ」などは、谷崎精二の「ポオ全集」の訳をそのまま使用しました)


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映画も楽しい 〜好きな監督と映画〜【NO75・050515】

これまでに見た映画で何が好きかという問いに答えるのは難しい。見たときの心理状態等のもろもろの条件に左右されると思うが、見たときの年齢が最も影響するかもしれない。好きな映画と監督の関連は大きい。

 

「キネマ旬報ベスト・テン全史(19461996)」に、戦後のキネマ旬報に掲載された毎年の映画の評価結果が掲載されている。その年に封切られた作品と選考委員名がマトリックスの採点表になっており、評価の集計の詳細を見ることができる。この冊子にはいくつかのコラムがあり、その中のひとつに「戦後ベスト・テン入選監督ベスト35(外国編)」というのがある。上位15人を上げてみると下記のようになっている。入選回数が同じの場合は、評価のマトリックス表で得点の多い順に並べられている。

1位−5位:ウイリアム・ワイラー(11回)、フェデリコ・フェリーニ(10回)、イングマル・ベルイマン(9回)、フランソワ・トリュフォー(8回)、ディヴィッド・リーン(8回)

5位−10位:ウディ・アレン(8回)、ルネ・クレマン(7回)、ヴィットリオ・デ・シーカ(7回)、ルイ・マル(7回)、ジャン・リュック・ゴダール(7回)

11位−15位:ルキノ・ヴィスコンティ(6回)、シドニー・ルメット(6回)、ミケランジェロ・アントニオーニ(6回)、エリア・カザン(6回)、キャロル・リード(6回)

 

このリストにより戦後の監督の評価を知ることができる。しかし、60年代から70年代にかけては、「キネマ旬報」と「スクリーン」のベスト・テンの評価とずいぶん異なっていることがあり、二つの雑誌を比較して見る映画を選択していた。ここに登場していない私の好きな監督の中で、ジョン・フォードは22位(4回)になっているが、最も好きなフレッド・ジンネマンが35人の中に登場していないのは不満である。ウディ・アレンについては私の印象の少ない監督である。

フレッド・ジンネマンの作品を古い順に並べてみよう。不思議な少年(1946)・暴力行為(1949)・?山河遥かなり(1949)・真昼の決闘(1952)・地上より永遠に(1953)・オクラホマ(1955)・?夜を逃れて(1957)・尼僧物語(1959)・サンダウナーズ(1960)・日曜日には鼠を殺せ(1964)・わが命つきるとも(1966)・ジャッカルの日(1973)・ジュリア(1977)・氷壁の女(1983)

ジンネマンの映画は、困難な状況の中で、自分の信念を貫くといったテーマ追求している映画が多い。ジンネマンの作品の中で最も好きな作品は、「真昼の決闘」、「日曜日には鼠を殺せ」、および「わが命つきるとも」の3本である。

 

ジンネマンのほか、監督で好きなのは、ジョン・ヒューストン(白鯨)やウイリアム・ワイラー(大いなる西部)。ヌーベル・バーグ時代のルイ・マル(恋人たち)とフランソワ・トリュフォー(突然炎のごとく)。西部劇では、ジョン・フォード(駅馬車)は別格としてジョン・スタージェス(OK牧場の決闘)が第一。興味のある監督としては、フェデリコ・フェリーニ(甘い生活)とルキノ・ヴィスコンティ(ベニスに死す、など)をあげておこう。

 

これは余談であるが、勝手な私見を述べてみると、ジョン・フォードと黒澤明、ジョン・スタージェスと松田定次の映画に対する思い入れや映画づくりに共通性を感じる。前者は社会派から娯楽性を持たせたダイナミックなアクションに変化して行ったこと、ジョン・フォードとジョン・ウエインの関係、黒澤明と三船敏郎の関係に類似点を見る。後者については西部劇と時代劇での娯楽に徹した面白い映画作りに傑出しているところがあると思う。


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■映画も楽しい 〜映画事始め〜【NO74・050501】

映画を見た最も古い記憶は文字も読めない小さい頃に誰かについて行って見た時のこと。映画館が暗くなって上映が始まり、文字だけの画面が延々と続き、2文字になってやっと絵が出ることを期待したら、また文字の画面が続いてがっかりした。今思うと2文字は製作スタッフの紹介の後にでる「出演」という文字だったことになる。

一方、色が飛び切りきれいだった画面の記憶もあり、この映画は「地獄門」だったと思っていた。「地獄門」は衣笠貞之助監督、長谷川一夫主演で1953年に製作されているので、年齢と合致しない。また、邦画の最初の「総天然色映画」は1951年の木下恵介監督による「カルメン故郷に帰る」なので、最も古い記憶の映画は白黒だったことになる。この2つの記憶は正確ではないが、私にとっての映画の記憶の原点にある。

 

 子供の頃に映画を見る機会は、小学校へ巡回で来る映画を講堂で見ることがあったこと、正月やお盆映画を超満員の町の映画館へ見に行った程度である。近くの町では洋画を上映する映画館はなかった。また、私の通った高校は近くの町にあったが、映画館へ行くことが禁じられていた。

そんな時代に、NHKのラジオ番組「映画の時間」をよく聞いた。南部圭之助、双葉十三郎、飯島 正、荻 昌弘、淀川長冶などの解説により、面白い外国の映画があることを知った。

 

後になって大学2年の時に、文学部に飯島 正の映画の講座があることを知り、教室にもぐりこんだ。理工学部の生徒が混じっているのを知っていたと思うが、おとがめもなく講義を聴くことができた。この講座で飯島 正先生は映画の話のほか「俺は最近こんな本を読んだ」と紹介してくれることに時間を使った。また、試写会の切符を持ってきてくれた。「もぐり」も遠慮なくいただいて、京橋の東京国立近代美術館フィルムセンター(当時の正式名称は違ったかも知れない)のライブラリーの試写会などに通い、フランスの無声映画を見た。

 

東京に来て生活になれた頃から洋画を見ることを始めた。新宿伊勢丹の前にあった日活名画座で見る機会が最も多く、最初の頃は洋画1本を見る代金は60円だった。日活名画座では古い洋画の再上映を行っていた。古本屋で「スクリーン」と「キネマ旬報」を年代順に買いそろえて、各年度のベストテンより20位くらいまでをノミネートして網羅的に見た。このような見方をしたのは、「ウエストサイド物語」が封切られた1961年頃(ウエストサイド物語」が封切られた年)より始まった。1年間に103本見たことがある。

 

 社会人になってからはコンサートの方に気持ちが傾いていったが、映画館通いも続いた。築地の松竹で「人間の条件」の全編を特集したことがあり、土曜日の深夜から日曜日の明け方にかけて見たことなども記憶に残っている。


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■ミネルバのフクロウは、迫り来る黄昏に飛び立つ【NO73・050415】

 今日の午後、浜 矩子教授の話を聞いた。同志社大学大学院ビジネス研究科教授との情報は得ていたが、思い出せなかった。かつて三菱総研に所属していたとの講師の紹介を聞いたあと、壇上の顔を見たときにはっきりと思い出した。三菱総研が年初にクライアントを招待して催すイベントのある年に登場したパネラーの一人であり、テレビでも見たことがあることをはっきりと思い出した。

 

 講演のタイトルは『世界と日本の新たな地平:「これまで」と「これから」はどう違う?』だった。60分間の講演のまとめの言葉が「ミネルバのフクロウは、迫り来る黄昏に飛び立つ」。ミネルバのフクロウとは、ヘーゲルが1820年に著した「法哲学」中の、「ミネルバのフクロウは、迫り来る黄昏(たそがれ)に飛び立つ」と述べている一節に拠っている。「ミネルバ」とは、ローマ神話で、「知恵の女神」を、「フクロウ」は「使者」を意味する。「黄昏」とは、「ひとつの時代の枠組みが役割を終えたとき」と言う意味であると浜教授は説明された。家に戻って少し調べてみると、浜教授と同じ意味に使われている例を見つけることができた。私なりに考えてみると、古い時代から新しい時代に転換していく時に、人の英知が新しい時代を切り開らいてゆく、まさに私たちが、21世紀という新しい時代に英知をもって望むべき、と理解する。

 

 浜教授の話の骨子は、世紀末である90年代の「これまで」と始まったばかりの21世紀の「これから」についての説明であり、パラダイムシフトの提示と言ってよい。新旧のパラダイムを示す言葉がたくさんあげられた。二極時代=多極時代(無極時代)、自由無差別互恵主義(お返しの論理・融和)=差別的相互主義(仕返しの論理・排除)、弱者のもたれあい時代=弱者同士がつぶしあう時代、閉ざされた大国=開かれた小国群、集権的管理=競争的分権、国を重視=地域を重視、国民たちの時代=市民たちの時代、など。

 

 浜教授は現時点は新旧時代の「踊り場」にあると位置づけている。これからはどの方向の階段を、どのようにして上るべきか混沌としている。正しいと思って階段を上り、扉を開けたらとんでもない世界が広がっているかも知れない。われわれはこれからの進むべき道を間違えてはいけない。今こそ人の英知を働かす必要があるという警鐘が、講演の結論としての「ミネルバのフクロウは迫り来る黄昏に飛び立つ」につながる。

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■21世紀の方丈庵【NO72・050401】
 「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人と栖(すみか)と、またかくのごとし。」で始まる、「方丈記」を書いた鴨長明はどのような庵(いおり)でこの書を書いたのかご存知でしょうか。
 長明は大八車2台に積んで、どこにでも移し替えられる組み立て住宅を、京都の南東、宇治桃山の南麓、日野の里山に「方丈庵」を結んだ。屋内の広さは「方丈」、すなわち1丈(約3M)四方の正方形で約9平方メートル(約5畳)程度。長明はそこで「方丈記」を書いた。1212年、58歳の時。

 松村賢治さんは「21世紀の方丈庵」を考え、「庵(いおり)を結び炭をおこす」という本を書いた。科学技術と経済の会の機関紙「技術と経済」のぶっくれびゅーにこの本を取り上げ、04年6月号に投稿した。私の知人を通して、掲載された機関紙を松村さんに届けてもらっていた。
 先日、「古民家の知恵」を学ぼうとという会で松村さんの講演を聞く機会があった。講演では、「旧暦と暮らす」と「庵(いおり)を結び炭をおこす」を中心に松村さんの思いが披瀝された。

 松村さんは、長明の「方丈庵」を原点とし、同じ規模(建築面積)の「21世紀の方丈庵」を提案している。配布された資料のタイトルは「組み立てキット 陸上のヨットキャビン 方丈庵21 自作タイプ・囲炉裏付ミニロッジ」となっている。
 ゼネコンの設計部や設計事務所の経験のみでなく、世界一周をするまでに親しんだヨットのキャビンのリッチで合理性な空間、地震による大津波で被災したパプアニューギニアでのゲストハウス造り(NGO団体大阪南太平洋協会の活動)、デンマークで見た手造りハウスの新鮮な驚き、いなかの民家、江戸・明治時代の長屋などの多彩な経験や知識が生かされている。
 村松さんが作成した長明の方丈庵の復元図や、松村さん自身の庵「ラグジーキャビン12坪アレンジ版−楽居庵」や、「21世紀の方丈庵」の数例の写真と図面をOHPスライドで見せてくれた。


 松村さんの主張は庵のことのみでない。「週末いなか暮らしのすすめ」ではマルチはハビテーションについて、「暮らしに炭火を」では、生活の中での「火」を取り上げている。震災体験の教訓として、都市と田舎の交流ロッジに囲炉裏を導入しようと考えたこと、火を囲んだ対話が人の心をオープンにすること、七輪の効用を発展させた七輪内臓の卓袱台「まが玉姫ちゃぶ」を開発し普及させる試みについて、今回は生の声で聞くことが出来た。
 長明の方丈庵にも「21世紀の方丈庵」にも吉田兼好の「徒然草(55段)」にある、「家の造りやうは、夏をむねとすべし。・・・」という思想が存分に生かされている。

 松村さんは、現代の世の流れは「退廃途上国」に向かっているとの問題意識を持ち、「自分に出来ることから始める」ことのひとつとして、炭火のある「21世紀の方丈庵」を提案。庵の作り方においても、インターネットで仲間を集め、オーナーの役割が定められ、ボランティアで労働力を提供した人は、年間何日かの庵の利用権を得る方式がとられる。これは、「結(ゆい)」とか「もやい」に通じる21世紀の互助制度でもある。松村さんは、旧暦による自然とともに生きる知恵や、庵造りをとおして生まれる都会と田舎の交流など、21世紀の新しい文化について語ってくれた。


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■博多から筑肥線で唐津へ【NO71・050315】

 いなかの実家に行くときには、福岡空港よりバスで佐賀へ行くか、福岡空港より地下鉄で博多に出てJRの特急で佐賀へ行くルートをとるのがほとんどである。以前より博多から筑肥線で玄界灘を見ることの出来るルートで行ってみたいと考えていた。2001年の暮れに甥の結婚式に出席することになり、時間的にゆとりがあったので積年の思いが実現した。


 福岡空港より乗った地下鉄は筑肥線に乗り入れており、90分ほどで唐津に到着する。福岡空港からは随分便利になった。右に玄界灘が見えてくると車窓が豊かになり、やがて列車は「虹の松原」を抜ける。虹の松原は唐津湾沿いの長さ5KM、幅1KMほどの松林。約100万本の松が植えられており、日本3大松原のひとつに数えられている。松原の陸側には、海抜284Mの鏡山がある。春の鏡山からは、みどりの麦畑と菜の花畑が格子状に広がり、その向こうが虹の松原、その先に唐津湾を望む。鏡山は新羅へ出兵する武将と松浦の娘佐用姫の恋伝説の舞台となっている。

 やがて海に通じる松浦川を渡り、唐津線に寄り添い唐津駅に到着。出来たてのシュウマイと暖かいうどんの昼食。


 天候不順のなか、まず唐津神社へ。唐津へ来ることが出来たことを感謝し旅の無事を祈る。すぐ近くの、からつ曳山展示場で14台の曳山を見る。11月の「唐津くんち」でそろいの法被を纏った唐津っ子がねり回す勇壮な装置。「一閑張(いっかんばり)」と呼ばれる工法による曳山は、木組み・粘土の原型や木型上に和紙を数百回張り重ね、麻布を張り、幾種類もの漆で塗り上げ金銀を施して仕上げたもので、完成までには2年前後の歳月を要するという。


 唐津城の三の丸跡に立てられた唐津西ノ門館(出土文化財管理センター)を見た後、旧家の大島邸を見て、石垣の散歩道を歩いてもうひとつの旧家である高取家を訪れる。いずれも中には入ることが出来ず門の外より前庭と建物をうかがう。高取家の先を左に曲がると「西の浜海水浴場」の砂浜に出る。子供の頃の夏休みの大きな楽しみであったところだが、今見ると以外に小さく感じた。


 街なかにもどり、唐津焼きの窯元のお店を6軒ほど見て、さらに窯元が共同で運営している展示場を訪問。唐津焼きを堪能し、唐津焼きを理解した気になる。唐津焼は約400年前、朝鮮から渡来した陶工たちによって広まった。「登り窯」も彼らがもたらしたといわれている。斑唐津、朝鮮唐津、三島唐津、絵唐津などがその代表である、と観光案内のパンフレットに書いてある。唐津焼の魅力は素朴で飾り気のない土の味わいである。


 2000年10月から2001年1月にかけて、「大英博物館佐賀県陶芸展」が催され、佐賀の陶芸家62名の124点が展示され大好評を博した。その「帰国記念展」が2001年1月30日から2月4日にかけて日本橋三越で開催された。出展者は県内の在住者であるが、有田の陶工が圧倒的に多い。勿論、14代柿右衛門や13代今右衛門なども名を連ねている。その中の唐津在住者としては、大橋 裕、熊本 千治、中里 重利、中里 太郎右衛門、中里 忠寛の5名が名を連ねている。三越で見た124点のすべてについてすばらしいと感動した覚えがあるが、唐津の5人の10作品を「大英博物館佐賀県陶芸展」のパンフレットで見ると、唐津の伝統と今が融合した作品をとおして、5人の意気込みに圧倒される。


 唐津を訪れた日は、みぞれまじりの雨。予定より早めに唐津線で小城(おぎ)へ向かった。実家は、私が小さい頃「小城郡三日月村」と呼ばれた佐賀平野でも山よりの田舎にある。実家のある田舎は理屈抜きに懐かしいが、両親が亡くなってからは訪れる機会はめっきり少なくなってしまった。


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■文楽『伊賀越道中双六』【NO70・050301】
 年度末が近づいて、気持ちの落ち着かない日が多くなった。今年度続けてきた研究会の10回目の出席が悪く、臨時の会議を行うことになった。いつもこの会議は3時から5時に開催しているが、この日は出席者の都合で午前中の開催となった。当初はこの日の午後には、3月1日に開催される「シニアネットフォーラム21 in 2005」のシニアネット交流広場に展示する資料を印刷してくれるところを捜し歩く予定にしていた。午前中の会議を終えてお昼を食べた後、麹町にあるこの協会の印刷機でA3サイズのカラー印刷が出来ることがわかった。事務局長のSさんに相談したら、快くコピーすることを許してくれたので、1時半頃には当日の午後の用事を終了することができた。

 持ち歩いていた人形浄瑠璃「文楽」2月公演の新聞切り抜きを見たら、第2部の開始が2時30分となっているのがわかった。文楽の前売りは人気が高く、発売後にすぐに売り切れるのが通常である。しかし、補助席の当日売りが残っている場合があることを知っていた。この協会から国立劇場まで歩いて10分ほどで行くことが出来るので、駄目を覚悟で行ってみることにした。数日前には皇太子さまと雅子さまが観劇されていたことが話題になったこともあって、空席を期待できなかった。当日売りの窓口へ行って見ると、窓口に並んでいる人はいない。半ばあきらめの境地でたずねてみると、窓口の女性は気の毒そうな顔をして、見にくい席でよければありますと言う。上手(かみて)の最後列の端から2人目の席。でも迷わずチケットを入手して入場する。開演18分前になっていた。

 コンサートの場合は、この18分は「ゆとり」であるが、文楽の場合は忙しい。荷物を預けて、パンフレットを購入、出演者を確認し、演目の解説を読む、出来れば「床本(大夫の語りがそのまま書かれている本)」を読む。当日は、2部の最初の演目の解説を読み終わったところで開演となった。この日は幸運だった。大夫の竹本住大夫に野澤錦糸。呉服屋十兵衛(息子)を吉田玉男、お米(娘)を吉田蓑助という豪華版だった。

 

 演目は近松判二と近松加作の合作『伊賀越道中双六』のうち「沼津の段」。1783年に大坂竹本座で初演されたものであることを解説を読んで知る。生き別れた親子が敵同士となって再会する。父と息子と娘の関係が次第に明らかになり、2人の子のために命を捨てる父と、義理を踏み越えて父に応える息子の悲劇。高齢の玉男をいつまで見ることが出来るかと思うとつい真剣になる。父平作の吉田文吾は熱演。蓑助の出番は以外に少ないが、いつものようにきれいな形を見せてくれた。
 
 2部のふたつ目の演目は、「嫗山姥(こもちやまんば)」の「郭噺の段」。「しゃべり山姥」と通称される段。八重桐が郭話にかこつけ、夫坂田時行の薄情をなじるところが聴きどころ。最後に八重桐が超人的な力を得て立ち回るところでは「ガブの首」を用いているとのことであるが、距離の遠い私の席からははっきり見ることが出来ず残念だった。
 
 何時の頃から始まったかはわからないが、今回は舞台の両側の上部に字幕が出ていた。オペラなどではよくみるようになったが、やはり便利である。住大夫の言葉はいつも聞き取りやすいが、わかりにくい大夫も多いので助かる。
 次回の東京の公演は5月。「冥土の飛脚」が予定されているのでまた行ってみたい。 【生部】


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■第69号は盛りだくさん【NO69・050215】

 第69号は盛りだくさんになった。新企画の「会員のホームページ紹介」を開始し、金田さんが1番バッターを引き受けてくださった。伊藤政弘さんが復帰され、「海外旅行体験話クラブ」が再開される。3月21日の初回は、佐藤昌子さんがプレゼンテーターを快諾され、伊藤さんも自ら登場される。佐藤さんは「渡るアメリカに鬼はなし」をメルマガIDNに12回連載された方。伊藤さんも「アラスカ紀行」を12回連載。次の会には羽澄さんも控えている。伊藤さんが開催の趣旨にも書いているように気軽に参加してほしい。お三方の名文をメルマガIDNのバックナンバーでご覧になれます。

 今回の編集は長時間を要し、時間と元気がなくなってしまった。編集後記に書く内容の心積もりはあったが今回はやめにする。本日の夕方、奈良原理事長経由で飛び込んできた小坂武夫さんの「武兵衛の近況」も次回に掲載させてもらうことにする。【生部】

■スペイン巡礼でピレーネーからレオンまで470kmを踏破した村山雅彦さん【NO68・050201】

 マルチメディア振興センターの異業種交流会の懇親会で、天地シニアネットワークの小俣さんと話す機会があった。その後、メルマガIDNを送り、天地シニアネットワークのメルマガ「ネットワーク テーブル」を送ってもらうようになった。
 04年の6月に私もピレネーへ行って、ロマネスク様式の教会に心引かれて戻った直後に、村山雅彦さんが連載している「スペイン巡礼の記―ピレーネからレオンまで470kmを徒歩で、ひとりで大丈夫?」に興味を持ち、初回から改めて読み返した。04年の7月初めは第10回を連載中で、その後も継続し今年の1月に最終回の24回を迎えた。


 村山さんはスペインの巡礼の旅を計画し、03年8月27日(水)にパリからピレネー山麓へに到着。それから03年9月19日にかけてピレネー東麓の街、サン・ジャン・ピエ・ド・ポーから、スペイン中央高地の中ほどの都市レオンLeonまでの累計473kmを踏破された。


 村山さんは、思いもかけず食道と声帯にガンないしガン性のポリープ有りとの宣告を受け、それらの手術のため6週間ほど入院された。これからの「第二の青春」を楽しむためにも、とりわけ精神的に回復できたと言う自信を感得したいために「計画から実行まで一人でやることで、とにかく病気に負けなかった、という証しにしたい」の一点張りで奥様の説得に努めた結果漸くお許しが出て、出発されたそうである。


 早朝に宿を出発しその日の行程が始まる。歩きながら色々なことを反省したり、空想したり妄想にふけったり、風景や建築美術も楽しみむ。教会や聖堂をおとづれる。半日歩いて、午後は知り合った連中とワインやビールの杯を傾けながらのお喋りをする。いろいろな人々との出会いを楽しむ様子が毎日の記録として書かれている。


 「病気に負けなかったという証」という大袈裟な命題を掲げて歩き始めたが、同じような気持ちで歩いている人々がかなりいることを発見した。肺癌の手術をして完治しそのお礼参りの巡礼をする人、巡礼結願ののち手術や化学治療に臨むので、ご加護を願う旅をしている人。自分自身でも、はじめは恐る恐る体力との綱引きのつもりで歩いていたが、その綱引きのこつが分かってくるとあまり気にせずに歩けるようになった。いくつもの聖堂・教会を巡拝しているうちに、神々しくも恐ろしげなものに対する抵抗感が薄れ、また優しげで慈しみ深いものに対して素直に頭を垂れる気持ちになっているのに気付く。はじめは「負けないぞ」と挑戦的であったのが、なんとなく柔らかなというか、平かなというか、そんな気持ちで帰国することが出来た。最終回ではこのようなことが書かれている。


 メルマガ「ネットワーク テーブル」の村山さんの文章を読み続けるうちに、直接お話を聴きたいという気持ちが強くなった。思い切って小俣さんにメールで、IDNのふれあい充電講演会の講師にお迎えできないかうかがってほしい、とお願いをした。直接村山さんと面識のある天地シニアネットワーク代表の津田さんの労により、3月の講演会においでいただくことの了承を得た。村山さんは、04年5月にサンティアゴまでの後半部分も踏破されそうで、今からお話をうかがうことを楽しみにしている。


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■ハムレットが父の亡霊と出会った場所【NO67・050115】

 昨年の秋にスェ−デンに住宅の情報化についての調査に行った。ストックホルムを中心に、マルメで最後の仕事をを終えてコペンハーゲン経由で帰国することになっていた。航空券のオーバーブッキングのために帰りの予定が遅れることになり、コペンハーゲンで2泊、まる一日の余裕ができた。一日を有効に過ごすいくつかの候補の中で、ハムレットの舞台となったクロンボー城を訪ねてみることにした。

 大宅壮一マスコミ塾での稲田さんの講演を思い出したのがきっかけとなった。稲田さんはロンドン勤務時代と日本で、シェークスピアの37作品のうち35作品の舞台を観ている。講演では、第一作の「ヴェローナの二紳士」から三十七作の「ヘンリー八世」についての原題、ジャンル、舞台(国)、観劇年月、稲田さんの評価などの一覧表を示してくれた。またシェークスピア劇の基礎知識として、シェークスピアの時代背景、演劇(者)の社会的地位、当時の劇場構造、朗誦術、当時の演出などについても説明してくれた。

 この講演会を計画しているときに、稲田さんはワークショップをやると言った。シェークスピアの名台詞集より自ら朗誦するのと同時に、女性との掛け合いをするので相手を探してほしいと言い、さらに、ハムレット三幕一場の有名な「あるべきか、あるべきでないか・・・・」のところを私にやりなさいと要求があった。最初は冗談だろうと気楽に考えていたら、ある日テープが送られてきた。仕方なくテープを一生懸命聴いて練習し、脂汗を流しながら恥をかいたことを思い出した。

 

 クロンボー城はコペンハーゲンの北約44kmのところにある。コペンハーゲン中央駅より列車で行った。ヘルシンオア駅を出ると小さな入り江の向こうに世界遺産に指定されているクロンボー城はすぐそこに見える。エアスン海峡の最狭部にあり、対岸のスェーデンの町との距離はわずか5Kmである。城は15世紀に作られ、いくつかの変遷を経て1924年に現在の姿になったそうである。城は広い中庭のあるほぼ正方形の形であり、北棟に王の住居、西棟は王妃の住居、南棟には教会などがある。

 

 城内を見学する途中で案内の女性に「ハムレットが父王の亡霊に出会った場所はどこか」と質問した。この女性の答えは、「特定できない」ということだった。英語を正確に理解できたわけではないが、以前は城壁が幾重にも設けられていた形跡があること、衛兵たちは常に城壁を移動していたことがその理由である。またシェークスピアはこの城を訪れたことはないのではないか、とも説明してくれた。劇では、ハムレットは城壁の上で父王の亡霊に出会い、城壁をおりて広場で、父王が弟により耳に毒薬を流し込まれて殺されたことを語る場面になっている。しかし、今のお城からは、劇に書かれた暗いイメージは感じられない。ただ、地下の兵舎や地下牢の通路を歩いていると不気味な感じは残っている。


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今年は「海外旅行体験話クラブ」を復活しよう 【NO66・050101】

 以前には「海外旅行体験話クラブ」が活発に活動していた。2001年7月に第1回が開催され、伊藤政弘さんが登場している。以来2001年9月までに8回開催されている。開催された結果については、IDNのホームページの「海外旅行体験話クラブ日記帳」で紹介されている。日記帳には、7回目の金田さんまで掲載されているが、第8回は私が登壇している。

IDNに入会してすぐに、金田さんのお話を聴く機会があって、次回のプレゼンテータを志願した。手元に残っている開催案内によると、テーマは「昼は仕事、夜はコンサート三昧」となっている。

 会社人生のなかで最初に海外出張をしたのは1973年、最後の1998年までの25年間に8回欧米に出かけ、延べ18回のコンサートに行った。これらのコンサート体験をその時々のエピソードを交えながら話した。

 

 海外出張関連の資料は会社人生を終える時に必要なものだけを厳選して会社に保存し、残りの大半は処分した。そのなかでコンサート関連の資料は未整理のまま箱に詰め込んで自宅に持ち帰っや。倉庫に保管して時間的な余裕ができたら整理しようと思っていた。この機会に一気に資料の整理を行おうとしたがかなり難航した。出張した年月日・訪れたホール・演奏曲目・演奏者に加えて、出張の目的・コンサート以外のことなど印象に残ったことも書き加えてまとめた。当時はプロジェクターの準備もできないので、写真を大き目に焼いて説明に使った。

「海外旅行体験話クラブ」で話をしたのをきっかけに、メルマガIDNに「龍のコンサート三昧」(注)を連載させてもらった。コンサート三昧は「遊び」のことであるが、海外出張とその時々のコンサートのことを振り返るのは、はからずもこの三十数年を総括することにもなった。

 

「海外旅行体験話クラブ」の運営は伊藤政弘さんが担当していた。伊藤政弘さんはIDN設立時に貢献された方である。ご自身の事情でしばらくIDNの活動から離れておられたが、最近復帰して「ふれあい通信」の編集を担当してもらっている。「ふれあい通信」の17号・18号の合併号の最後のページに、「海外旅行体験話クラブ」の発表者募集の記事が出ているのをお気づきだろうか。近々具体的な案内をしますので是非参加してください。スピーカーとして、聴衆として、海外体験者の輪の一員として。【生部】

 

(注)「龍のコンサート三昧」は下記でご覧いただけます。

http://www15.ocn.ne.jp/~ryuss/index.htm


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■アトリエコンサート 【NO52・040601】

  ひさしぶりに伊藤ハープシコード工房の「アトリエコンサート」に行った。チェンバロ製作者の伊藤福一さんが春と秋に開催しているもので、今回は第12回目。2000年の春の第4回に出席したのが最初だった。伊藤さんの工房は千葉の房総半島の中ほど、ゴルフ場が沢山ある地域の真ん中にあるが、我が家からは40分ほどで行くことが出来る。

  伊藤さんは自ら製作したチェンバロを使用する、若手の奏者によるコンサートを開催してきた。工房の隣の住宅のホールが演奏会場になっている。住宅の1階には、玄関を入ったところに広い土間があり、上がり框が段になって和室につながる、という昔の農家を思わせるつくりになっている。土間はきれいな瓦タイルが敷き詰めてあり、履物は脱いであがる。床に椅子を並べ、段になっている上がり框も客席。ホールは2階から屋根裏までの吹き抜けになっており、吹き抜けに面した2階の廊下は特設のバルコニー席となる。以前には20人強の聴衆だったが、今回は50人近くの参加者で、2階のバルコニーまで満員だった。

  今回の奏者は91年に芸大の器楽課ピアノ専攻を卒業した上尾直毅さん。アムステルダム・スウェーリンク音楽院に続いてデン・ハーグ音楽院を卒業後、オランダ室内管弦楽団のチェンバロ奏者を務める傍ら、ヨーロッパ各地で鍵盤楽器奏者として活動した。18世紀フランスで流行した小さなバグパイプ「ミュゼット」についても研鑽を積み、研究成果をインターネット上に発表している。

  アトリエコンサートでは、奏者のトークも楽しみである。上尾さんは、チェンバロとクラヴィコードについて説明してくれた。クラヴィコードの原理はチェンバロと同じで、弦をつめではじく。黒鍵(白と黒がピアノとは逆になっている)が31程度で、サイズは小ぶりであり、発生する音も小さい。しっかり弾かないと指をはじかれることもあり、子供の忍耐力を養う目的でも利用されたと説明してくれた。

  曲目は、J.S.バッハ(フランス組曲第5番・パルティータ第4番)、C.P.E.バッハ(幻想曲イ長調・スペインのフォリアによる12の変奏曲)、W.F.バッハ(幻想曲ホ短調)、J.ハイドン(ソナタヘ長調)。バッハ父子とハイドンやモーツアルトの活躍した時期は重なっている。上尾さんは聴衆に興味を持たせながら説明をしてくれた。また、パルティータの曲の説明の中で、ニ長調はトランペットの調子であり、神と王のための曲、序曲は王様の入場、アルマンドとサラバンドはミステイリアス、など。演奏者であるのに、音楽の先生かと思えるほどの説明上手だった。

  普通はアンコールはやらないと言いながら、J.S.バッハの「インベンション第1番」を弾いてくれてコンサートを終了。戸外では鶯の鳴き声も聞こえていた。演奏終了後、前もって準備してあったドリンクとおつまみを皆でホールと和室に並べて演奏会場が懇親の場に変身。上尾さんも伊藤さんも参加してそれぞれが、ワインやコーヒーや紅茶と会話を楽しんだ。住宅の1階と2階には5台のチェンバロが置いてあり、演奏に使用されたチェンバロやクラヴィコードに触ってみることも許されている。隣の工房にも足を運び、製作中のチェンバロを覗き込んで、楽器の構造も知ることが出来た。

  伊藤さんはサラリーマンをやめてチェンバロの製作を始めたそうだが、「どうしてチェンバロつくりをはじめたのですか?」とたずねたら「なんとなく」とはにかんだ様子で返事が返ってきた。運転をしなければならないので、ワインとチーズを横目で見ながらコーヒーとクッキーをご馳走になって帰途についた。

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■ホロヴィッツ【NO51・040515】
  
クラシックを聞き始めた頃にホロヴィッツのレコードに出会った。1953年から65年の間、ホロヴィッツは演奏活動を行なっていなかった。長年、脅迫神経症と恐怖症に悩んでいたことが原因だったそうである。63年の1月と11月に沈黙を破って2枚のLPがリリースされた。第1集にはショパン(ソナタ2番)・ラフマニノフ・リスト(ホロヴィッツ編のハンガリア狂詩曲19番)、第2集にはシューマン(子供の情景)・スカルラッティ・シューベルト(即興曲作品90の3)がおさめられている。この中で特に印象に残っいるのは、ショパンとシューベルトである。最近買った「HOROWITZ  PLAYS  CHOPIN(米盤)」を久しぶりに聴いてみたが、新鮮である。ショパンのソナタの2番については、ポリーニのCDを聞いている。昨年には横山幸雄を聴きに行ったが、十分な満足を得られない。シューベルトの作品90の3についても、ルプーやブレンデルもいいけど、やはりホロヴィッツ。先入観があるかもしれないが好き。

  『レコード芸術』の04年5月号に、「ホロヴィッツの伝説」が特集として掲載された。ホロヴィッツの晩年のマネージャーだった、ピーター・ゲルブ(現ソニークラシカル社長)が執筆している。ホロヴィッツの晩年の様子をつぶさに知ることが出来て興味深い。記事の見出しには、ホロヴィッツは、20世紀最高のピアニストのひとり、波瀾万丈な生涯、独特のピアノ奏法、自由自在な編曲、特異な慣習、ベールにつつまれた鍵盤の魔術師、等と書かれている。

   ウラディミール・ホロヴィッツは、1904年(1903年説もある)10月1日ロシアのキエフで生まれたピアニスト。1922年にキエフでデビューして大きな成功を収めた。1926年1月にはベルリンにデビューして成功を収め、さらに1928年にはアメリカにもデビュー。トスカニーニの娘ワンダと結婚。1942年にアメリカ市民権を取得。最晩年まで衰えぬ活動をつづけて、1989年11月5日にニューヨークの自宅で、85歳の生涯を閉じた。

  ホロヴィッツは1982年から海外に演奏活動を再開している。ロンドン・パリ・ミラノなど。1983年には日本も訪れている。初来日した時の演奏を評して、吉田秀和さんが「ホロヴィッツはひび割れた骨董品」と言ったが、なぜそのようなことになったか、レコード芸術の記事で事情がよく分かる。ホテル・オークラの最上階の部屋を改造し、占用のキッチンもしつらえ、そこにこもって、大量の薬物を使用し、カンパリを呑みたい放題飲み、山盛りのキャビアを食べ、B級の恐怖映画の中毒にもなった。心身共に最悪の状態だったらしい。
  その後は体調も回復し歳晩年まで比較的順調にコンサートも開催し世界中から好意をもって迎えられている。1986年には61年ぶりに祖国に里帰りを果たし、我が国も訪れ、この時は好評を博している。
 
  1998年にニューヨークに行った時、カーネギーホールに行った。ロビーに出て階段を上がり、バルコニー席の後ろの通路を散策した。そこにはたくさんの演奏家の写真が飾ってあった。その中にホロヴィッツの若い日の写真もあり見入った事を覚えている。ホロヴィッツがアメリカデビューしたのは25歳の時であるが、もう少し後の写真であろうか。

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■推理小説【NO50・040501】
 
私にとっての推理小説の原点は、子どもの頃に読んだ江戸川乱歩の「怪人二十面相」である。明智小五郎と小林少年と少年探偵団の活躍に心をときめかせた。江戸川乱歩により私の推理小説の世界は広がっていった。子どもの頃に「盲獣」という小説を読んで、「怪人二十面相」とのあまりのちがいに驚いたが、後に江戸川乱歩の別の世界があることを知って、「2銭銅貨」から始まって、「陰獣」等の一連の作品を読んだ。

  我が国の推理小説としては、坂口安吾や横溝正史に始まり、松本清張など、お定まりのコースを歩んでで行った。又、江戸川乱歩の名前の由来は、エドガー・アラン・ポーにある事を知り、このことは欧米の推理小説にのめりこむ入り口の一つとなった。世の中には推理小説と名のつくものが無数にある。幸いなことに推理小説の評論の書も沢山ある。最初は推奨されている推理小説から読み始めた。有名とされるものを読み進んでいくと、自然に好みの作家も見えてくる。クロフツの小説に登場するフレンチ警部と、イギリスの国内やヨーロッパを(地図を見ながら)犯人を追って旅行するのは楽しい試みだった。

  数ある推理小説の作家の中で、ヴァン・ダイン(1888−1939)は最も好きな作家のひとりである。ヴァン・ダインはアメリカに生まれ、絵画と文学、劇、音楽に関する評論を書いており著作も沢山ある。(途中の経緯は省略する事として)彼は推理小説を書く事を思い立って、ファイロ・ヴァンスという探偵を誕生させ12編の推理小説を書いた。彼の推理小説の特徴は、「物理的事実と心理的事実とが矛盾する時は、物理的事実の方が間違っている」ということばに代表される。ヴァンスは、「新しい独自の心理学的方法」を用いて、事件を解決する。

  一件矛盾する表現であるが、少し補足してみよう。推理小説の醍醐味は、密室とアリバイであり、物理的事実の代表である。いわば機能的な問題解決の方法といえよう。ヴァンスの推理の方法は、心理的事実にもとづいて推理を進める、演繹的手法である。密室やアリバイが完璧であっても、心理的に見て疑問があれば、物理的事実に隠された事実があると仮定して、推理を進め犯人を追いつめて行く手法をとる。

  ヴァン・ダインは12の作品を世に出したが、12の作品の大半にテーマを設定している。彼の博学が、読者に知的満足を与えてくれる。「カナリヤ殺人事件(ポーカー)」・「僧正殺人事件(チェス)」・「カブト虫殺人事件(エジプト学)」・「ケンネル殺人事件(古代中国陶器と犬)」・「ドラゴン殺人事件(竜伝説と熱帯魚)」・「カシノ殺人事件(ルーレット)」・「誘拐殺人事件(宝石)」・「ウインター殺人事件(スケート)」・「グレイシー・アレン殺人事件(喜劇女優)」。これらのテーマと心理を絡ませてストーリーを組み立てている。

  又、ヴァン・ダインは、推理小説は「一種の知能的ゲーム」として、作者が読者に対してフェアプレイであるために「推理小説作法の20則」を示している。「謎を解くにあたって、読者は探偵と平等の機会を持たねばならない」から始まって、20番目には、「使う事をいさぎよしとしない手法」として10項目をあげている。本のタイトルは6文字にするなど、他の推理小説作家に見られない徹底ぶりである。

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■テレビはこれからどのように進化して行くか【NO49・040415】
  IT化の進展のの中でメディア間の葛藤や融合が取りざたされているが、テレビそのもの将来の姿は以外に知られていない。テレビ放送が始まったのは1953年のことであり、白黒がカラー化されたテレビは我々の最も身近なメディアとなっている。ケーブルTVも「放送」の範疇であり1998年からは一部デジタル化され、最近ではインターネット接続のメディアとしても活用されている。

  1996年6月にCSデジタル多チャンネル放送が新しいメディアとして登場し、CS事業者の覇権争いの後に、スカイパーフェクTVに統合された。 2000年12月には従来のアナログの衛星放送に加えて、デジタル衛星放送が開始された。「110度のCS放送」では、衛星放送と同じアンテナで受信が可能となった。

  一連の放送に関する変革の最後に登場するのが地上波放送のデジタル化である。2003年12月には関東・近畿・中京の3大広域圏で放送が開始され、2006年には全国展開される。その後は従来のアナログ放送とデジタル放送が併存するが(サイマル放送)、2011年にアナログ放送は終了する計画になっている。現在の受信機では受信できなくなることを意味する。

  4月8日にNHK放送文化研究所主催の「2004年春の研究発表とシンポジューム」をNHKホールに聴講に行った。ここでは、地上デジタル放送の総合情報メディアとしての可能性について、研究発表、海老沢勝二会長の基調講演、2つのシンポジュームが行われた。

  地上デジタル放送が開始された4ヶ月後の視聴可能世帯は1200万世帯、61万台の対応可能なテレビが購入されたとの報告があった。(関西:20万台、中京:6万台と推定される)

 当日のシンポジュームの中から地上デジタル放送の特徴について紹介してみよう。

・高画質、高音質:
  大型の画面でハイビジョン(HD)の画面を楽しむ事が出来る。
・マルチ編成:
  ひとつの電波帯の中で通常の放送(SD)3波やデータ放送を併行して
  送信が可能(多チャンネル化)。時間帯により、HDを1波、SDを3波の
  組み替えが出来る
・インターネットとの接続:
  通信回線(電話など)を接続する事により、テレビでインターネットの利用がが出来る。
  また、通信回線を利用しテレビ受像機に新しいサービスを提供。
  テレビを情報通信のポータル(中心的な位置づけ)にする可能性がある
・双方向:
  通信回線を利用して、視聴者の意向(アンケートなど)を同時に収集し
  番組造りに即反映する
・携帯電話での受信:
  携帯電話で地上デジタル放送の受信する新方式が決定。
  対応可能な製品の供給が開始される。
・携帯電話とテレビの連携:
  携帯電話機をテレビのリモコンに活用。テレビの番組選択と連動して番組の情報などを、
  携帯電話のディスプレイから得る
・移動体受信:
  移動しながらの受信しても映像・音声が乱れない(日本の特徴)。
  カーナビゲーションとの融合された新しいサービスの提供
・サーバー型放送:機能の一部について
  家庭に大容量の蓄積装置(サーバー)が配備することにより、すべての放送を録画しておき、
  好きな時に好きな放送を見る事が出来る。有料放送については、受信時ではなく見た時に
  支払う(ペイパービュー)。また、番組の途中から追っかけてみる(追っかけ再生)事が出来る

  上記は地上デジタル放送の特徴のすべてではない。テレビ局側のメリットとして、ビジネスチャンスの拡大、番組制作の多様化・効率化、番組(コンテンツ)のマルチユースの実現、視聴者との一体化等があげられる。くらしに役立つ最新のデータ放送など、視聴者としても多様なサービスを受けられるメリットがある。

  しかし、地上デジタル放送の普及については必ずしも順調でないのも、当日の調査報告の中からうかがえる。ラジオ放送のあとテレビが登場した時、白黒テレビがカラー化された時のような強烈なインパクトがない。放送事業者にとっても、地方局まで含めたデジタル化の投資負担は、ビジネスとしての可能性が今一つはっきりしないこともあり、悩みが有りそうである。

  当日のシンポジュームには、放送事業社(4社)、有識者(坂内正夫東大教授)、評論家(天野祐吉コラムニスト)、コンテンツ製作者(重信浩テレビマンユニオン会長、企業(出井伸之ソニー会長)、自治体の長(梶原拓岐阜県知事)等の多彩な顔触れが登場した。5月2日の3時から4時50分まで、当日のシンポジュームがNHK教育テレビで放映される。興味のある方はご覧いただきたい。

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■「平家物語・探訪」の中原郁生氏の奥様よりお手紙をいただきました【NO48・040401】
 
メルマガIDNの46号に「清水観音の本堂前に沙羅双樹がある佐賀県小城町は私の故郷」と書いたら、中原氏の奥様よりお手紙をいただいた。その一部を紹介したい。

(前部略)
  この度メルマガ46号の編集後記を読んで驚いてしまいました。生部さんが佐賀県小城町の御出身であること、清水観音をご存知である事等々。亡夫中原が沙羅双樹とナツツバキのことを書いた後、朝日新聞の「声の欄」の投稿者の証言を得て確信を持った中原は更に広い範囲で各地に伝わる平家伝説や民話を集めたいという思いから「平家物語・探訪」を纏めたものと思われます。

  少し時間が掛りましたが、メルマガに発表されて早々に、しかも身近なところで生部さんとのご縁は奇しきものとしかいいようがございません。中原の熱い思いのなせるものなのでしょうか。生前の主人は多忙な人だったので「声の欄」の投稿者河本某なる人と文通したとか、沙羅双樹の花の散る美しい光景を見たというのは聞いていません。そのファンタジックな光景はさぞやすばらしいものだと想像に難くありません。一度出会いたいものだと思っています。
  「平家物語・探訪は」武部氏のリライトと青木氏の美しい写真で15話、約2年間に亘り発表の予定と伺っています。格調高く出来上がっているのが大変嬉しく、ご協力くださる方々に感謝しています。これからの展開が楽しみになってまいりました。
(後略)

  日経新聞に長期間に亘って連載された池宮彰一郎の「平家」を毎朝電車の中で読んだのも記憶に新しい。IDNでは講演会に古澤師をお迎えし、「敦盛」を聞かせてもらった。更に、2月のシニアネットフォーラムの懇親会の余興にも古澤師にお願いし、「敦盛」を演奏してもらって参加者の好評を得た。また、4月の講演会では川本泰生氏が謡曲「敦盛」の一節をご披露していただく事になっている。
  「平家物語」の序文の二文節「祇園精舎の鐘の声」と「沙羅双樹の花の色」は、よく知っているが、古澤師より頂いた詩を見ながら聞いて始めて内容を知り、琵琶の音と共に無情を感じる事が「出来た。

  下関支部レポートとして、一回おきに中原郁生氏の遺稿が連載される。以前からの構想である「平家物語サミット」の実現に道を開く事が出来ることを期待したい。

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■メルマガがウイルス騒ぎに巻き込まれました【NO47・040315】
  最近ウイルスWORM_NETSKY.Dが猛威を振るっている。迷惑を被っている人、自分の責任ではないのに他人に迷惑をかけてしまったひとのはなしを頻繁に聞く。最近、メルマガが投稿を受けるためのアドレスがウイルス騒ぎに巻き込まれ、自動転送を受けていた生部の受信サーバが機能停止に追い込まれました。顛末を書いてみる。

<前提>
・メルマガへ投稿があると、「メルマガへの投稿(ご意見)をありがとうございました。内容を検討させていただき別途連絡をさせていただきます」というコメントをつけて自動返信していた。
・生部宛てに投稿メールが転送される設定になっていた(現在も同じ)

<予兆>
・Sさんよりウイルスメールが生部に送られてきた。
・Sさんよりメルマガの投稿アドレスを介してメールあり。「投稿したおぼえがないのに、メルマガより返事ががきた。どうなっていますか?」という問い合わせがきた。
・「ウイルスに犯された人(Xさんと仮称)がSさんの名前で投稿したのでしょう」と返事をした。(3月5日)

<発端>
  生部へSC社より1分間に数十個のメールが送られてきた(5日の夜)。生部は受信をあきらめ放置。この段階で生部のメールは受信不能に陥る。

<展開>
・SC社よりIDNへメールアリ:「メルマガのアドレスから5万通を超える不正メールが5日深夜から送り続けられています。何度も電話・メールにて問い合わせをしておりますが、未だ対策処置、弊社への返答が何もなされておりません!10:30までに返答が無き場合には、警察ネット犯罪の方へ通報いたします」(8日)
・SC社へ電話:SC社へメルマガが自動返信メールを送りつづけている事を確認。同時に、SC社は、お客様より受信したメールに対して自動返信を行なう設定になっている事を知る。
・電話の後にメルマガからの自動返信を解除。SC社への連続したメルマガよりの自動返信はとまった。
・SC社としてのとラブルは解決。生部のメールは受信不能。

<状況の理解>
・Yさん(Xさんと同人物と思われる)のパソコンに侵入したウイルスが、SC社の名前を使って投稿した
・メルマガは即SC社に自動返信した
・返信をもらったSC社は、メルマガに対して即自動返信した
・返信をもらったメルマガは即SC社へ自動返信
・完全にループ状態が成立。SC社は連続的に大量のメールを受け取ることになった
・メルマガより転送設定がなされている生部のところへは、SC社よりメルマガに送られたメールがすべて転送されてきた。生部の受信サーバーは機能停止

<コメント>
・今回は、双方が自動返信をしており、不幸なケースだったが、ありうること
・SC社からの連絡があり、自動返信の設定を知るまで、状況がわからなかった
・IDNとして、外部への対応体制(電話やメールへの即応)が不備
・WORM_NETSKY.Dを仕掛けたやつは、けしからん
・ウイルス対応をしていないと他人に迷惑をかける事がある

  この後、生部の受信メールの回復までには、時間と手間を要した。プロバイダーのサーバの中を操作する方法があることを岡角さんや國重さんから教えてもらった。プロバイダーの対応に疑問を感じたが、受信サーバの中を一括削除の処理をしてもらって一応解決に至った。
  メールの受信に対しては、受信用の暫定アドレスでしのいだ。トラブルの期間中、折角頂いたメールを見ていないために失礼があった事には申し訳なく思っている。

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SF21からADF2004へ【NO46・040301】 
  「シニアネットフォーラム21 inTokyo」は最終段階の追い込みに入っている。報告書が完成し、ホームページが出来上がれば一応終了という事になる。関係された方はお疲れ様でした。まだ継続していただいている方はご苦労をおかけします。会計の処理も早く終了して、打ち上げ会で労をねぎらいたいと考えています。又、秋にむけて「IDNアドバイザーフォーラム:ADF2004」の企画を始めたい。今年は有志の参加による(仮称)実行委員会を設置する案など検討中です。

リレー連載「楽しくITライフ」開始【NO46・040301】
  前回の45号から新連載を開始した。岡角さんと小坂さんには長期間ご苦労をおかけしました。終わりを宣言したら、もっと続けて欲しいとの声がたくさん聞こえてきました。又登場してもらえる事を期待しましょう。新シリーズでは、1番バッターに末藤さんをお願いした。アドバイザー講座の「活用事例」の発表を聞いて、私も余裕が出来たらぜひ描いてみたいと思った。
  昨年10月にアップルコンピュータの原田社長の「日本における事業展開と戦略」という題の話を聞く機会があって、Mac魂に感じるところがあった。新しい銀座のお店の空間にも思い入れが感じられる。今回は高津さんに「Macで楽しいシニアライフ」をお願いした。
   今後については、IDNでアドバイザーの資格を取得された109名(2月末現在)の豊富な事例の中から順次登場してもらおうと思う。ぜひ、自選他薦をお願いします。

清水観音の本堂前に沙羅双樹がある佐賀県小城町は私の故郷【NO46・040301】
  正確には、佐賀県小城郡小城町。私の生まれたところは、隣の三日月町、幼少の頃は三日月村といった。清水(「きよみず」と読む)には滝があり名前の示すようにきれいな水に恵まれて、鯉料理が有名である。小学生の時には遠足で行った。帰郷のおりには鯉を食べによく行ったが、沙羅双樹については聞いたことがない。両親が既に亡くなっているので、帰郷の機会は少なくなっているが、最近とみに多くなった同窓会の誘いに応じて行って見るのもいいかなと思う。沙羅双樹の満開は5月との事であるが、菜の花と麦の頃に佐賀空港に降りると、有明海の青と佐賀平野の黄色と緑の綾模様を楽しむ事が出来る。

  清水の沙羅双樹、塔に魅せられた山際さん、南極へ行った林田カメラマンなど、メルマガの中で思わぬふれあいの機会が生じた。編集担当の特権で、勝手な事を書かせてもらっている。メルマガの読者の皆様にも話題がおありではないでしょうか。ふれあい広場への投稿をお待ちします。

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■プロジェクトX  南極余話(その2):南極で25年過ごした居住棟の復元【NO44・040201】
  前回に南極へ行った林田カメラマンのことを書いたら、水口さんより、林田さんはお父様の同僚だった、と思わぬメールを頂いた。ふれあい広場に掲載させてもらった。

  さて本論。大型トラック1台分のパネルや梁などの材料や部品を、極地研究所の倉庫からお借りして技術研究所の大型実験棟の中に持ち込んだ。1981年6月のこと。パネルや部品は1956年に制作し、南極で居住棟として25年間使用したものを解体して日本へ持ち帰ったものである。

  1957年7月から58年12月までの1ケ年半は国際地球観測年にあたっていた。殊に南極と北極は主要観測地としていされており、南極については未知の地域が大部分を占めておりその観測調査が究めて緊要なものと考えられていた。世界主要国9カ国と共に日本も地球物理的な諸現象の観測に参加する事になり、昭和30年に閣議で正式に決定された。戦後10年経った我が国は国力も十分でないなかで賛否両論戦わされた。全国的な盛り上がりを見せるまでのいきさつについてはプロジェクトXでドラマティックに語られていた。

  未知の南極に建物を作るために建築学会のなかに委員会が構成され、建物つくりのプロジェクトが開始された。1955年(昭和30年)12月のこと。
  建物を計画する時の主な条件を記す。外気温は最低−60度C、室温を15度Cを確保。最大風速は秒速80M、積雪2M(屋根面)。気候的な条件もさることながら、建設に素人の観測隊員が人力で作る(組み立てる)事が出来る事、宗谷に積んで運ぶ事、1年後には晴海埠頭から宗谷は出発する、という当時としては途方もない条件での出発だった。
  困難を乗り越えて完成された4棟の材料と部品は、翌1956年11月に宗谷に載せられて南極を目指した。居住棟は南極で25年を過ごした。観測隊の方々は、日本へ向けての出発準備で忙しい中解体して観測船「ふじ」に積み込んだそうである。南極にはまだ1956年に運ばれた同じ建物が残されている事を知った。先日の番組の中で、赤い色をした四角い建物が見えた。内部にバーのカウンターが残されていたあの建物が4棟のうちの1棟である。

  建物の大きさは、長辺26M、短辺16M、天井高2.4M、面積420平方メートル(ベッド数7)。床パネル14枚、天井パネル14枚、壁パネル22枚。パネルの大きさは長辺2.4M、短辺1.2M、厚さ10CM。
  天気のいい日にすべてのパネルをあたかもプラモデルのように実験ヤードに並べた。2枚の壁パネに1部破損が見られたがその他は健在だった。床パネルは、雪中に長く埋もれていたためか、床表面の仕上げ部分は相当傷んでおりの乾燥した状態で埃がすごく喉をやられた。パネルを組み立てるための楔を利用した金物のコネクター(380個)、金属製の梁(30本)もすべてそろっていた。 

  25年前のマニュアルにしたがって組み立て作業を行なった。私はすべて人力で行なう事を望んだが、諸般の事情でクレーンの力も借りた。木製の土台を設置して、金属製の床梁― 床パネル―壁パネル―金属製の屋根梁―屋根パネルの順に組み立てた。特にパネルの組み立ては、コネクターでパネル間を結合する事であっけないほど簡単だった。パネル間の接続はコネクタをハンマーで固定する工法で釘などは1本も使っていない。試しにパネルの位置を変えてみたが全く問題がなく、パネル形状の精度も抜群であることがわかった。2日間で、大型実験棟の中に25年前の姿に復元することが出来た。日本最初の木質パネルによるプレハブ、といわれているが、先輩達の知見と努力に改めて感じ入った。
 
  材料と部品一式を極地研究所にもどしたが、床パネルを1枚、壁パネル2枚をサンプルとして実験用に残した。パネルとしての強度試験、パネル枠の木材の強度試験を行ない、25年後に劣化が見られないことを確認した。合板の接着剤の劣化はみられなかった。断熱材(スチロポールP)には黴が見られ断熱性能は低下している事を確認した。これらの一連の作業の結果については、プロジェクトXにも登場した平山善吉先生などと共同執筆で報告書に纏めた。
 
  復元した建物を見学するためにたくさんの人が見えた。越冬隊長の西堀栄三郎さんをはじめ、関係者をご招待してささやかなパーティを催し往時を偲んでもらった。

  その後、映画「南極物語」(1983年 蔵原惟繕監督)のために映画スタジオ内での組み立てに協力した。タローとジローが南極に取り残されて、建物の中につるされている折り鶴を小窓を通して見るシーンを撮ると聞いた。
  1997年に「日本南極観測40周年記念 不思議大陸南極展」が開催された時に、国立科学博物館の前に組み立てられて展示された。
  性能実験をする際、床パネルから45CM角を2枚切り出して、1枚を技術研究所に保管し、1枚を船の科学館に届けた。同館のそばの海に係留されている宗谷の「船室」に展示してあったが、今はどうなっているか確認したいと思ったが時間がとれなかった。

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■プロジェクトX  南極余話(その1)【NO43・040115】
  1981年のある日、生部は所長室に呼ばれた。「極地研究所に保管してあるパネルや部品を借用し、この研究所に持ち込んで建物として復元する事。パネルや部品は1956年(昭和31年)に当社が強力して制作し、南極で居住棟として25年間使用したものを解体して日本へ持ち帰ったものである。またパネルの一部を切り出して部材の性能実験をせよ」と命じられた。生部は困難を乗り越え一連の仕事を終了した時に、先輩達の偉業に心を打たれた。……プロジェクトXではこのようなナレーションになるのだろうか。

  南極に関しては、それ以前に想い出がある。1971年に技術研究所をPRする映画「創造の技術」製作の担当を命じられた。当時若かった監督の北村皆雄さんは、「林田重男さんがカメラを担当してくれるのであれば、監督を引き受ける」と言った。日本映画新社で相当の議論があったらしいがOKが出た。北村監督の脚本の完成に相当の時間を費やし撮影が開始されると、会社の作品(建築)と技術を求めて、北村監督と林田カメラマンとスタッフ達に同行し日本中をロケして回った。

  ロケと平行して、実験室での実験の再現などの撮影を経て最終段階に入った。日本映画新社のスタジオでの録音にも立ち会った。作曲家の冬木透さんがスクリーンの映像の前で指揮をして演奏する音を録った。ナレーターに城達也をと言ったら、予算が足りないと言って断られ、池田孝一郎さんが担当した。彼も当時はTBSのプロ野球の実況などで有名だった。「創造の技術」は、16m/mイーストマンカラー  3巻30分の映画として完成した。最終シナリオの裏表紙には、関係者全員の直筆の署名がある。
 

  この林田カメラマンが、昭和31年の第1次南極観測に同行し、4万4千余キロの大航海と昭和基地の建設をフィルムにおさめた。宗谷が嵐に遭遇したシーンを撮るために我を忘れた林田さんを繋ぎ止めておくのにまわりの人達が苦労した話は有名だったと聞いた。
  林田さんの記録映画は、この「南極物語」の他「カラコルム(1956)」「黒部峡谷(1957)」「アフリカ横断(1958)」「東京オリンピック(1965)撮影団のひとりとして」等の代表作がある。一企業の技術研究所のPR映画を撮る事など考えられない事だった。林田さんが「創造の技術」のカメラを担当してくれたのは、15年前に南極の建物の制作と建設に協力した、この会社と技術研究所を記憶していたからかもしれない。

   ロケの合間に林田さんから、東京オリンピックの映像として、水平線から引きずられるようにして昇る大きな真っ赤な太陽を撮影した時の苦労話などを聞いた。林田さんは1985年(昭和60年)に亡くなった。
  北村さんは会社を作ってドキュメンタリーを撮り続けており、テレビでの放映や映写会の日時を年賀状などで知らせてくれる。今年も「修験羽黒山 秋の峯」の案内をくれた。見に行くのを楽しみにしている。

  プロローグのつもりで、林田さんの想い出を書いていたら長くなったので、本題の「南極より持ち帰った居住棟の復元」については次回に。

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■ゴーギャン【NO42・040101】
  1973年にルーブル美術館に行ったときにゴーギャンの「白い馬」を見た。当時のルーブルでは、印象派の絵画は別館にあった。本館の有名な絵画や彫刻を見る前に案内図を頼りに別館に行き印象派の絵をたくさん見た。その中にゴーギャンもあった。私がゴーギャンに興味を持った最初である。

 1987年3月から5月に東京国立近代美術館でゴーギャン展が開催された。出品作品一覧によると、1880年から1902年までの絵画に彫刻を含めて151点が展示されている。ゴーギャンをまとめてこれだけ見る機会はないであろう。とにかく圧倒された。全世界からゴーギャンが集められたようで、特にエルミタージュ美術館のゴーギャンが大量に展示されていたのが印象的だった。しかし、ルーブルからは出展がなくゴーギャン展としては片手落ちと言えようが、前年の1986年12月にオルセー美術館が開館しており、印象派の作品はルーブルからにオルセー移管された。開館当初にゴーギャンの不在が許せなかった事情もうなずける。

  次に「白い馬」に再会したのは、1989年の秋にオルセー美術館で。夜のパーティーで通役を通して「日本からの客の中で一風変わっている」と話しかけてきた人が居た。いくつかの話の中で、オルセーにあるはずの「白い馬」を見たいと言ったら、奥さんが絵描き(通訳の人は画家と言わなかった)なのでどこにあるか聞いてあげるといって電話してくれた。「オルセーの3階に確かにある、白い馬は少し青くなっているよ」とジョークを交えて教えてくれた。次の日は土曜日で調査団の休日。オルセーにはゴーギャンのコーナーがあり、大好きな「ヴァイルマチ」や最後の作品「雪のブルターニュ風景」などゴーギャンを満喫した。

  ゴーギャンは1848年にパリで生まれ幼少時をペルーの首都リマで過ごし、若い頃は船乗り、パリの株式仲買人となり、成功を収めつつあった35歳の時に画家を目指した。文明に毒されない楽園のタヒチに2年間と後に6年間滞在し、最後はドミニカ島で1903年に55歳でなくなっている。ゴーギャンの一生は単純なものではないことを福永武彦の「ゴーギャンの世界」(昭和36年)で知った。

  第1次タヒチ時代のゴーギャンの絵は、美しい色づかいが特徴である。第2次タヒチ時代に描いた「我々はどこから来たか、我々は何者か、我々はどこに行くのか」という題の作品を長い間見たいと思っていた。1995年にチャンス到来。ボストン美術館で139×375CMの1897年に描かれた大作に対面することが出来た。ゴーギャンのこれまでの試みがすべてつぎ込まれている。ゴーギャンは病気や借金や最愛の娘の死の知らせなどで絶望の淵に追い込まれていた。自殺を決意し「遺書」としてこの絵を描いて自殺を図るが未遂に終わる。この絵は、青やエメラルドグリーンが基調となっており右から左へと物語になっている。

  なぜゴーギャンに惹かれるのか。色、形態(フォルム)、自然と楽園、力強さ、新しいことへの冒険心、強烈な自己主張、波乱万丈の生涯、不遇の中でのがんばり、自由な暮しへの憧れ、・・・・・・。ゴーギャンの絵の中には不可思議なことがたくさん書き込んである。不透明な時代を先取りして表現することを取り入れた画家として評価するのは、私の勝手な解釈だろうか。

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■韓国へ行ってきた【NO41・031216】
  11月24日から27日まで駆け足で「韓国のIT事情の調査」に行ってきた。韓国のIT化は突出しているところがあり、日本も学ぶべき点が多いので,住宅情報化推進協議会の会員企業のメンバーによる調査団に参加した。
  韓国では、e-KOREAの段階からからu-KOREAへと進化し、2007年に向けて一層の飛躍を目指している。(u:ユビキタスの意味) e-KOREAの5年間で韓国に起こった具体例を調査した。電子政府や電子自治体の特徴、韓国の住宅事情、住宅の情報化の現状と今後の方向、学校のIT化の状況などを、政府・自治体や先進的な企業の担当者より説明を受け、事例を見せてもらった。

  韓国では、住民票が必要な時に区役所へ行かないで自宅のパソコンや地下鉄のコンコースに設置いてある端末でアウトプットできる。所有する不動産や自分の税金に係わる情報など自宅より役所のサーバへアクセスすることにより、見ることができる。その他便利なサービスが実現しているが、個人認証が出来ることが前提であり、成人になった時点ですべての人が指紋を登録しなければならない。全員背番号制に近いことが実施されている。個人的には便利さを受け入れたいと思うが、日本では一般に受け入れられるシステムであるか疑問である。

  小学校の教室には、インターネットに接続されているパソコンと大型のテレビが常備されて授業に使われている。パソコン教室でブラインドタッチの練習をしているところや、電子図書館も見た。子供のIT教育には雲泥の差があると思う。将来の日韓の子供たちのITスキルの格差は歴然となるであろう。以前にe-Japanに対するパブリックコメントを書いた時のことを思い出しながら心配になった。

  韓国ではゲームが盛んである。PC房(PCバン)と呼ばれる、インターネットカフェというよりゲームセンターに近い施設が全国に2万箇所もある。ネットワーク対戦ゲーム(RPG)が日常的に行われており、韓国のIT化促進に貢献しているが、若者だけでなく成人も含めて「のめりこみ現象」による生活破綻などの問題点も露呈している。

  本題の住宅の情報化については、わが国の先進的な企業のショウルームに見るサービスメニューが、実現しつつある。住戸内ではもちろん外出先の携帯電話から、宅内の機器(空調機や照明器具など)を制御するのはごく普通に行われている。大型の冷蔵庫の扉に住戸内のコントロール盤が取り付けられている例(最も使い勝手のいいところとされている)も複数のショウルームで見た。

  「e-デモクラシー」と称して、インターネットで住民の意向を聞き、行政の決定に活かす試みがなされている。環境を重視する親水空間(水辺)に夜間のひとの安全のために照明施設を新設することへの意見を聞く。ネットを通じた住民の意見はすぐに集計し図化され、区のホームページに公開されている。

  韓国の人達と混じっていると、不思議な感じがしてならなかった。成田から2時間半で行く事が出来るソウル。地下鉄の椅子に座っている仲間は、どちらが韓国のひとか一瞬わからなくなる。しかし周りのハングル文字は全く理解できないし、言葉もわからない。欧米のどこかの街に放り出されたほうがまだましと感じた。

  これまであまり興味を持たなかったこともあり、韓国のことはよく分からない。しかし、日本に戻ってから日経新聞のソウル支局長の書いた本も読んだし、新聞の記事にも目が向くようになった。

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■塔【NO40・031201】
  山際得悦氏の自費出版で、「塔に魅せられて−近畿・岡山編」が出版された。山際氏は全国に散在する230基の塔をすべて網羅することをライフワークとして取り組んでいる。「関東編(1990年)」、「東日本編(1996年)」、「中部日本編(1999年)に続く、シリーズの第4作にあたる。
  山際氏は、塔を見た時に受けた強烈な印象を語り、その塔を訪れた時の状況・塔を見た感想・塔に対する説明・写真(撮影日を記入)・塔の所在地(案内図つき)を記している。

  私が塔について最初に思い起こすのは、真夏、庇の下に深い影を宿した法隆寺の五重の塔と春たけなわの大池の向こうに望む薬師寺の三重の塔である。

  もう一つは、梅原猛の1976年に出版された「塔」という本である。「5年前のある日、突然に古代史への情熱が、私を襲った」と書き始められている「塔」は、1970年から71年にかけて「芸術新潮」に連載したエッセイを基にしたものである。
  梅原猛は、塔という非実用的でありながら、しかも人間の政治的・文化的意志をはっきり示す建造物の創始とその発展の経過をたどることによって古代日本の政治と文化を捉えようとしたわけであるが、書いて行く過程において、興味は塔を超えて進んでしまった、と言っている。

  著書「塔」は古墳時代から奈良時代までの一つの文化的通史の試みであり、一連の古代研究のきっかけとなった。「塔」にかかわる研究と思考の中から、「隠された十字架」や「水底の歌」等の名著が生まれている。

  「隠された十字架」は法隆寺が聖徳太子とその一族の怨念を鎮魂するために建てられたとする仮説を、真理への情熱と通説を打破するために書かれた。
  「水底の歌」では、万葉歌人柿本人麻呂がそれまで考えられていたような身分の低い下級官僚の歌人として平凡な人生を終えてのではなく、持統帝に寵愛され、宮廷歌人として名声をほしいままにし、異例の高位に上りながら藤原不比等の登場とともにその地位を失い、流人として諸国を放浪し、ついに海の藻屑となって死んだのではないかと推理している。

  毎月投稿している「科学技術と経済」の「ぶっくれびゅー」に山際氏の「塔に魅せられて」を取上げた時に、ずっと以前に熱心に読んだ梅原猛の3冊の本を懐かしく思いだした。

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■全マニュアルの「ニコンF 」とデジタルカメラ【NO39・031115】
  私が中学生の頃、いとこが持っていたのキャノンのD型やL型に触らせてもらいカメラに興味を持った。ある日、父がアサヒフレックスを家に持ってきた。一眼レフカメラを初めて知り、実際に撮影してみて一眼レフにも興味を持った。その後アサヒペンタックスが発売され、ミノルタSRも出て、ニコンFが昭和34年に登場した。

  私は雑誌「アサヒカメラ昭和34年(1959)9月号」を後生大事に持っている。ニューフェース診断室でニコンFが取り上げられているからである。私がこのカメラを購入したのがそれから4年後のことであり、以来、仕事に趣味に一度の故障もなく伴侶として仲良く過ごしてきた。お花を初めて以来、定期的に撮ることになりニコンFの活躍の機会が多くなっている。
  当時の学生の身分では、とてもニコンFを買うことが出来ないのは当然であり、ウインドウを眺めていた。幸運があった。東京オリンピックのために代々木のワシントンハイツを選手村にする事になった。ワシントンハイツには当時米軍の宿舎が建っていた。これらを壊す前に建物の図面を遺すために図面をトレースするアルバイトの仕事があった。カメラの代金の大半をこのアルバイト代で支払ったと思うが、高かった。「アサヒカメラ」によると、F2レンズ付きで67,000円である。この後に発売されたF1.4レンズ付きを買ったので、もう少し高かったはずである。その1年後に社会人になってもらった初任給が25,000円だったと記憶している。
 
  最近デジカメを買った。ついに買ってしまったとの感がある。デジカメは「写真を撮る機械」であると思うが、カメラメーカーの製品であるせいか、それほどの抵抗感はない。確かに便利である。小さくて軽い。自動露出と自動焦点は今時のカメラでは当然。撮った写真をすぐ見る事が出来る。オート撮影の時でも、絞りまたはシャッター速度の優先設定が出来る。ストロボが内蔵されているが、発光するかの選択が自由に出来る。ホワイトバランスの設定で色温度の補正が可能(蛍光燈や白熱灯による色の変化が補正される)。これがデジカメの最大の特徴だと思う。
  お花の写真に関しては、お稽古した花を持ちかえって、自宅で活けてみたものを次回にパソコンの画面で先生に見てもらう事が出来るようになった。以前は24枚撮影した後に現像をしてプリントになるまでにタイムラグがあった。設定をいくつか変えて撮影したものを、フロッピーで写真屋に持ち込んでプリントしてもらってみたが、厳しい事を言わなければ問題はない。しかし今は、デジカメでの記録のみにする決心はついていない。
  しばらく併用してみるが、そのうちにデジカメ一本になっているかも知れない。かつて、アナログのレコードからCDに乗り換えたように。

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■パラダイム【その2】パラダイムの融合(フュージョン)【NO38・031101】
 
前回はパラダイムの変化の捕らえ方として、「重・厚・長・大」から「軽・薄・短・小」へ、いや、現在から将来にむけては「楽・速・安・感」であるとの例を示した。これは、パラダイムをAからBへの変化をとして示したもの。しかし、実際は「楽・速・安・感」のソフトが重視される世に向かっているが、「重・厚・長・大」や「軽・薄・短・小」で代表されるハードが不必要と言うわけではない。

  AからBへの変化を、正円Aと正円Bと考えてみよう。「円」はひとつの中心を持つカテゴリーとする。ここで「楕円」と言うカテゴリーを提示する。楕円は、ひとつの系の中に二つの焦点をもつ。すなわち、ひとつの系の中にAとBのカテゴリーが包含されている。これからのパラダイムはAかBかではなく、AとBが融合したフュージョンの世界をイメージですることが重要である。

  円と楕円のちがいについてもう一つの見方。円は、規則的で生真面目で変化に乏しい感じがする。一方楕円は、不安定で、どこに転がるか分からない捕らえどころの無さがある。楕円は、行く先の不透明な現代によりマッチしたパラダイムの捕らえ方と言えよう。

  楕円をイメージしながら物を見、考えていると、異なったジャンルで同じ意味のこと言っている例にたくさん出遭った。以下に幾つかを示す。

・花田清輝:楕円幻想―ヴィヨン―
  楕円は焦点の位置次第で、無限に円に近づくことも出来れば、直線に近づくことも出来ようが、その形がいかに変化しようとも、依然として楕円が楕円である限り、それは醒めながら眠り、眠りながら醒め、泣きながら笑い、笑いながら泣き、信じながら疑い、疑いながら信じることを意味する。(中略)焦点こそ二つあるが、楕円は円と同じく、一つの中心と、明確な輪郭をもつ堂々たる図形であり、円はむしろ、楕円の中の特殊な場合・・・・(「復興期の精神」1966)

・博報堂:遊楕円
  生活機能毎に円(正円)を描いてきた暮らしが、遊びというもうひとつの焦点を得て「遊楕円化」している。(「生活新潮流」/生活総合研究所1986)

・谷口正和:融合の渦
  この河にあふれる融合の渦。男と女の、西洋と東洋の、昔と今の融合の渦。相反する概念が流入しあって作り出す、まったく新しい情報化現象・・・・(「第3の感性」1986)

・悠 雅彦:楕円音楽
  これまでの音楽はカテゴリー単位で独立した、いわば円の音楽だった。円には中心点がひとつしかない。つまりあるカテゴリーではジャズが、別のカテゴリーではクラシックが中心点となり、円のようにたったひとつの中心点がカテゴリーを支配する――これが音楽における普通の在り方だった。ところが楕円には焦点がふたつある。音楽にもジャズとクラシックというように焦点がふたつあってもいいという考えが生まれたのは、近年になって異質な音楽が垣根を越えて融合し会うフュージョンが時代の波にのって音楽界を賑わせてた事実からいっても、少しも不思議ではないと思う。つまり、一方が中心となり、他方がこれに従属すると言うのではなく、両焦点が対等に併存し合ってひとつの世界を形成するのだ。(ジャック・ルーシエ「プレイ・バッハ」解説1985)

  例を読むことで、単純にAからBへではなく、AとBのフュージョンというパラダイムの捕らえ方もあることを理解していただけてと思う。これからのトレンドの見方に対して多少の参考になれば幸甚である。メルマガIDNにおいても、フュージョンの世界にも踏み込んで行けたらと思う。

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■パラダイム【その1】パラダイムシフト NO37・031015】
  「重・厚・長・大」から「軽・薄・短・小」へ。いや、現在から将来にむけては「楽・速・安・感」、前者はハードの変化であり、これからは、ハードからソフトの時代を示す。これは、「パラダイム」とは何かを示す典型的な例。
  「パラダイム(paradaigm)」と言うことばのルーツは、科学の問題を解くための規範的な「型」のことであり、ここでは「同時代に共通して用いられている思考のパターン」と言う意味で使ってみたい。パラダイムの変化を二つの相対することばで表現すると、時代の様相をより明確にイメージすることができる。

  1990年1月に出版された「メガトレンド2000(ジョン・ネスビッツ、パトリシア・アバディーン著)」が「パラダイムの変化」に興味を持つようになったきっかけである。この本の中には、時代を明快に切る沢山のパラダイムの例が示されている。以来、パラダイムを示すことばの収集を続けている。新聞や雑誌で興味のあることばを見つけると手帳にメモを残し、いくつか蓄えられた時に整理してきた。勿論、その新聞記事を切り抜き、雑誌の記事はコピーを残した。

  書棚の隅っこには、何冊かの本も生き残っている。パラダイムの予言(谷口正和)・第3の感性(谷口正和)・コンセプト時代の気分(坂井直樹)・知的野蛮のすすめ(小川明)・キーワードで見るマルチメディアな風景(北川高嗣)・シナリオ1990(日本能率協会)、これらは10年も前の本であるが、時代の先を見据えたことが現実となっていることも多い。

  「生活」と「社会」ブロックの中よりいくつか例を挙げてみる。
[合理性−感性]・[知識−知恵]・[左脳−右脳]・[文明−文化]・[ものの豊かさ−心の豊かさ]・[ハイテク−ハイタッチ]・[マス−パーソナル]・[大衆−個衆]・[私も(me too)−私だけ(me only)]・[オンスケジュール−オンデマンド]・[プッシュ−プル]・[十人十色−一人十色]・[コストセーブ−タイムセーブ]・[一律情報−比較情報]・[一方向情報−双方向情報]・[物的消費−サービス消費]・[使い捨て−再利用]・[勤労−余暇]
  たくさんの例を書いてみたが、要は「個」が大切、「個」の要求は多様であり、多様なニーズや潜在的な要求(Wants)に応えることが大切、と言うところであろうか。

  パラダイム事例収集の最新のものは、「A系テイスト」から「B系テイスト」。これは「アルファ」から「ベータ」と同じ考え方。ファッションの世界で使われているそうで、才色兼備で影響力の強いエリート女性を「アルファ・ガール」と呼ぶ。アルファには「優で一番」の王道を行くイメージ。しかし現代ファッションを牽引する力においては、アルファよりベータが勝る。ストリートから発した「B系」、ブラック&ソウルやビートのB、アルファの王道を尻目に脇道を横のりでいく二番手ないしは番外のニュアンスを含むB。これはファッションのお話であるが、共感ことが沢山ある。

 NPOの活動は「A系」と言うより「B系」に属していると言えよう。IDNも「B系」のいい味を出しながら活動できることを願っている。

次回は「パラダイム」の続きとして、「AからB」という概念から「AとBの融合・ヒュージョン」という考え方について。

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■フィールドノート【03NO36・1001】
  「フィールドノート」とは、盛岡から小岩井牧場を抜けてもっと奥に入った雫石にあるペンションの名前。ずっと前にこんなペンションがあると教わっていて、行く機会があった。
  御主人自慢のアナログのオーディオ装置がそろっている。アンプのアキュフェーズはクラシックにもジャズにも良い高級アンプ。20年もののスピーカーのヤマハNS1000Mは、どちらかというとジャズ向き。プレーヤーのマイクロRX-2000もスゴイ。モーターとターンテーブルを1Mほど離して木綿糸でつなぐという懲りよう。針はデンオンDL-103。装置の乗っている建物の土台も特別仕様になっている。深夜に大きい音を出したいために、ペンション村の外れの土地を買ったと主人の言。
  近くの温泉の露天風呂にはいり、夜にはオーディオを満喫。持参したレコードの中から、バッハを何枚か聴いた後、1956年に、ルイ・アームストロング・オールスターズがバーンスタインとニューヨークフィルと共演した「セントルイスブルース」(カーネギーホールのライブ)を久々に聴いた。ご主人と奥さんも付き合ってくれた。三匹の犬達も。

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■助六の宿 貞千代【NO35・030915】
  助六の宿「貞千代」は地下鉄銀座線田原町駅から歩いて8分、浅草駅から歩いて10分のところにある。江戸情緒がふんだんに味わう事の出来る宿であり、江戸前の遊びを体験することが出来る。

  貞千代は昭和22年に旅館として営みを始めた。今の主人の友彦氏は東北大学で鉱山学課出身であるが、今は「山師」であると言っている。二人の姉は嫁に、後を継ぐ事になっていた姉には養子のきてがなく、兄は板前になってしまい、仕方なく後を継いだ。しかし彼は浅草生まれで浅草育ち、浅草がすきで「助六」をキャラクターにして浅草らしい旅館に仕上げた。

  江戸時代の浮世絵や骨董品を集めて雰囲気造りをした。部屋の壁には錦絵、床の間に押し絵羽子板、お茶を運ぶお小姓のからくり人形など。廊下の壁には、広重の「吉原桜吹雪」や「梅の花盛り」鳥居清信や国貞など浮世絵の浅草風俗が目を楽しませてくれる。部屋番号は、「い組三番」や「は組二番」など町火消しのイメージで火の灯った角行燈に示されている。「火の用心」カチカチカチと廊下の夜回りがあるという。

  建物は表から見ると3階建てだが実は7階建て、表の格子戸も黒、外観も白と黒の2色で統一されている。看板は当たり矢の中に「さ」の字をあしらったもの。先日行った時には玄関先に人力車が置いてあった。

  二つ目の落語家より稽古をする場が欲しいと頼まれ、勉強会の場を提供し彼らに仕事を与えることも続けてきた。この動きが宴会で芸・遊びを楽しむコース「江戸趣味プラン」として展開されている。ほうかん  たいこもち・落語家・投扇興・獅子舞・津軽三味線・小唄俗曲・都都逸など、14のコースが準備されており、宴会の余興として楽しむ事が出来る。

  お風呂は2つある。「桜が湯」が桧の風呂、「ご福の湯」が黒御影石造り。江戸名井22ヶ所の中より、浅草の二つ名井の名をとって名づけられている。泊りではなくても宴会の前に一風呂浴びるのも楽しい。

  食べ物は、「江戸町衆料理」。鬼平犯科帳にでてきたり、町衆が良く食べられた料理を出してくれる。テーブルに巻き物になって置かれているメニューに、「江戸時代は、武士より町人、職人などの方が食べる事は贅沢だった」と書かれ、料理名が並び、最後に料理長の名前も書いてある。

  8月26日に大宅壮一マスコミ塾のメンバーと有志24名が「貞千代」で納涼会を行ない、宿の主人である望月友彦氏の話を聞いた。友彦氏は下手な噺家よりはなしが上手い。帰りに友彦氏の著書「江戸の粋花川戸助六」をお土産に頂いた。

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■土門 拳 記念館【NO34・030901】
  8月14日から16日まで出かけたために、メルマガIDN33号の発行が17日になってしまった。山形道の月山インターからすぐ、大井沢へ行った。通りから橋を渡った川のほとりにペンションが建っている。橋の上から川の上流に月山を望む事が出来る。

  残念な事に天気が悪かった。ペンションで合流した人たちと散歩程度の山歩きをする予定だったがあきらめて、以前に通り過ぎるだけで寄る事の出来なかった「土門拳 記念館」へ出かけた。

  土門拳(1909−1990)は山形県酒田市の生まれ。報道写真の鬼といわれたこともあるリアリズムの写真を確立した。有名な写真集が沢山ある中で、今回は「室生寺」と「筑豊のこどもたち」が展示されていた。「室生寺」では、ずっと昔に雑誌や写真集で見て感動した写真が、迫力のあるモノクロ大型パネルで58点も展示されていた。「筑豊のこどもたち」では、貧しいなかでもけなげに生きる子ども達を通して、土門拳の優しさを見た。

  1974年に酒田市名誉市民となった土門拳は自分の作品を酒田市に贈りたいと言い、市は記念館を作って応えた。飯森山公園の中の広大な緑の中に、池を配し鳥海山を望むことが出来るところに建物は建っている。谷口吉生の設計、イサム・ニグチの彫刻、勅使河原の庭園とオブジェなどで記念館全体がひとつの作品とも言える趣がある。

  記念館には、生涯にわたる全作品を網羅する写真が収蔵されている。現在の展示は9月28日まで、10月から12月(21日まで)は「木村伊兵衛と土門拳」、今年の暮れから来年の春にかけては、「古寺巡礼(自選展)」、「傑作選(モノクロドキュメント)」、「風貌」の展示が予定されている。展示が変わるたびに訪れてみたいが、千葉からは少し遠い。

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■大宅壮一マスコミ塾【NO33・030817】
  2001年11月のふれあい充電講演会で井出さんに「やきものを楽しむ−酒を飲む器−ぐいのみ」の講演をお願いした。井出さんは秘蔵のぐいのみを多数お持ちいただいた。ぐいのみの歴史・分類・魅力・良さの評価・徳利との組み合わせ・季節との関わり・窯や技法別の陶芸作家などについて講演を聞き実際に器に触らせてもらった。

  その数日後、大宅壮一マスコミ塾第9期生一同は大宅壮一の命日に墓参りを済ませた後、鎌倉を散策した。陶器屋さんを覗いた時にIDNでの講演会の様子を幹事のOさんに話したら、Oさんはぜひマスコミ塾でも講演をお願いしたいと強く希望した。井出さんは快く引き受けて下さって、2002年1月に、「猪口の歴史と楽しみ方」が実現した。

  この講演会は新宿の「石の花」での開催で、マスコミ塾第9期の新年会も兼ねていた。この時には、井出さんのご厚意によりぐいのみで実際にお酒を飲んだ。手に持った感触・お酒を注いで口元へ運ぶ感覚・実際に飲む時の感触を味わう事が出来た。会が終了してすべてのぐい飲みが箱に収まるまで、酔っ払って割るのではないかと心配したのを記憶している。
  それ以来、IDNとマスコミ塾との講師や講演会参加者の相互乗り入れが始まった。 

  昨年は大宅壮一の33回忌にあたり、初期の塾生の方々も共に命日に墓参りをした。初期の頃の講師陣には、大宅壮一は勿論、梶山秀之・草柳大蔵・大森実などが顔をそろえ、「もの書きへの望みを持つ野にある者たちを集め、その出発への可能性、その実現に塾の目的はあった」。塾生になるには、1時試験として論文を提出し、それを通ると上記の顔ぶれによる面接試験があったそうである。

  私は、1999年7月に縁があって「ゼネコンから見たマルチメディア」という題目でマスコミ塾第9期の勉強会の講師を務めさせてもらった。その後、塾生の皆さんの同意を得て第9期生の一員に加えてもらった。
  マスコミ塾第9期の勉強会は、月に1回の開催だったが、今年から年に6〜7回の開催となった。11月23日は鎌倉の瑞泉寺へ墓参りに行くことが定例になっている。勉強会の講師にお迎えする方は実に多彩であり、講師の希望によりノートを取る事も禁止される事がある。マスコミ塾第9期の運営はオープンであり気楽に集まって勉強をし、その後の懇親会では楽しくお酒も呑んでいる。
 
  8月は特番で、26日に浅草の「助六の宿貞千代」で、宿の主人でもある望月友彦氏の話を聞く。演題は氏の近著より「江戸の粋−花川戸助六  江戸と歌舞伎の世界」。桧風呂又は石風呂にはいり、会席料理(江戸町衆料理)を楽しむ会が予定されている。

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■華三昧【NO32・030801】
  メルマガ前号の発行は7月15日を過ぎて深夜の発行になった。編集後記を書き始めたが、力尽きて省略してしまった。

  平成15年千葉ブロック花展が7月12日から14日に予定されていた。7月10日の3時頃人形町の花屋さんに花を求めにに行った。先生が心配してくれて、一緒に選んでくれた。80歳の元気いっぱいの雅水先生とお茶をした後、花屋さんの車に同乗して夕方の部活に行った。月に2回、前に勤めていた会社の部活に参加させてもらっている。当日の部活で活ける花材も花展に使うことにして、たくさんの花を自宅に持ち帰った。

  12日は朝9時に全員集合。午前中は昨年の反省をもとにした改善案による会場の設営。午後になり各人の作品の制作を開始。会長先生の一団も到着し、メインのコーナーも制作が開始される。夕方近くになり、完成した人から会長先生のご指導をいただく。直接ご指導をいただく機会は、年に一度この機会のみである。
 夕方になり、会長先生のグループと千葉のメンバーとの会食が始まった。全員が居なくなったところで、私の役割の写真撮影を開始。今年は会長の作品も含めて27作品と会場全体の様子など写真に収めた。

  13日(日)と14日(月)にお客様をお迎えする。私は、13日の午前中に本部の研究会に出席。6月に欠席した分と7月分の二つの花を活けて当日の先生の指導を受けた。午後は千葉の会場に行き、お客様の様子を見る。そして先輩達の作品をゆっくり見せてもらった。写真撮影の時は、構図と照明に気持ちが集中しており、作品を鑑賞していない。
  14日(月)は午前中仕事に出て一旦帰宅、5時頃に会場に到着し終了時刻を待つ。6時に片づけを開始。夕方に来る事のできない人の分も全員で対応し、最後に会場の原状復帰を確認し終了。お互いの苦労をねぎらって解散。

  今回の花展のために、12日の大宅壮一マスコミ塾で中国人カメラマンの講演(向島百花園)、14日のIDNの講演会(薩摩琵琶による平家物語)に参加することが出来なくて残念だった。
  14日の夜はかなり疲れており、15日の夜も用があり、メルマガの発行が遅れ、編集後記も途中まで書いて、ついに力尽きてサボってしまったことの顛末です。

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■ぶっくれびゅー【NO30・030701】
  2002年3月より毎月書評を書いている。(社)科学技術と経済の会の機関紙「技術と経済」の「ぶっくれびゅー」にA5版1ページ(約1200字)を。毎月20日が締め切り、15日にメルマガの発行を終えると、次の課題としてすぐ目の前に控えている。

  執筆を始めて1年経ったところで、しばらく休みたいと言ったけれども、編集の担当者からは続けて欲しいとの要請があった。月に2回メルマガの原稿の集まり具合を気にしている身にとって、必ず原稿をもらえるありがたさも良く分かる。月に一冊、読者へ紹介できる本をノルマとして読むのは大変である。しかし続ける事によって、月に1冊必ず本を読んできた実績は残った。この会のある懇親会で、私がとりあげた本を買って読んだよ、と声をかけてくれる方も居て、続ける元気を与えてもらうこともある。

   8月号の原稿の校正が本日終了した。今回は「こどもに教えるITの仕組み(発行所  DAI−X出版)」  を取上げた。e-japanの最近の動きから始めて、IDNは「シニア情報生活アドバイザー」育成講座ヲ16回開催したこと、講座を実施する過程で、初心者に(PCだけではなく)IT全般についてやさしく分かりやすく説明する教材があれば便利だと常々思っていたこと、を書いた。

 「こどもに教えるITの仕組み」  は大人と自負する人たちが物事の本質を再確認し、知識を整理して子供たちの疑問にきちんと答えられるように、と考えて制作されている。子供たちだけではなく、高齢者やITに関する知識の低い人に教える時の貴重な教本となる。

  「ITって何?」から始まって、パソコン・FAX・携帯電話・カーナビ・ゲーム・GPSなどについて解説がなされ、インターネットやメールについては多くのページが割かれている。セキュリティについても、ウイルスやインターネットでの買い物の安全性など的確に指摘している。各項目毎のストーリーチャートにより内容の難しさの程度が示されており、単純な例えやイラストもふんだんに使われているので分かりやすい構成になっている。

 以上、「ぶっくれびゅー」に書いた内容を一部引用。PCからITへ知識を容易に広げるのにとてもいい本なので紹介した。

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■「ウイルスメール」【NO29・030615】
  昨日の午前中はテニスで汗を流し、1週間のストレスを解消。午後は29号の編集作業に没頭した。伊藤さんの連載が最終回を迎えた。佐藤さんの連載も佳境にはいり、子供たちに浴衣を着せてお茶会を行なったシーン、今回は小さな写真も載せる事にした。下関支部レポートの写真は省略させてもらった。

  夜になって、未着の原稿を期待してメールを取得したら、何と画面いっぱいのウイルス関連のリストが映し出された。OCNからのウイルスメールに関するレポートはいつもの通りであった。複数のメールは、アカウント(@マークの前)は同一の名前、ドメイン('マークの後、メールサーバ)は複数である。添付ファイルの名称も複数。ウイルスは、最近多い「WORM_KLEZ.H」である。これまでの例とは違った現象。

  ウイルスメールを受信した人やプロバイダーから、私のアドレスから発信したメールにウイルスが含まれていた、とのコメントをもらう事がたまにある。気持ちのいいものではないが、詳細に問い合わせ、メールの発信時刻には私のPCはOFF状態だったり、ネットワークへの接続をしていなかったことを確認する。私と関係のある誰かがウイルスに汚染されて、私の名前を語ってウイルスメールを発信しているらしい。詮索すると、ウイルスメールの発信者を特定する事が出来る場合があるが、今回は一晩過ぎたら継続していなかったので、そのままにしてある。

  メルマガIDNの送信には、メールソフトにEudoraを使用。送信先は、アドレス帳には記載せず、別途WORDのファイルにリストを作成し、送信時にメールの送信先(Bcc)に貼りつけるようにしている。私のネットワーク環境はまだISDNであり、送受信時のみ接続するように設定している。一旦私がトラブルと、百数十名の方に迷惑をおかけするので、大変神経を使っている。

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■「連載もの」について【NO28・060103】
  メルマガ創刊当初の連載は2本だった。

  「楽しくパソコンライフ」は創刊以来継続している。岡角さんと小坂さんに交替で執筆を担当してもらっているが、開始以来好評である。特に、シニア情報生活アドバイザーの方々には関係があり、知識の向上に役立っているようである。しかし、28回を数えると書くべきテーマの選定が困難になっている事も感じられる。「ご質問やご意見がありましたら,気軽に下記のアドレスまでメールを下さい」というコメントを書いている事にお気づきだろうか。今後は皆様からの質問にお答えする事も加えて継続して行きたい。

  もう1本は趣味的なものを、と位置づけている。一応運営委員会の了解を得たものの、編集担当の特権として「龍のコンサート三昧」を第4号より12回連載した。過去25年間に8回欧米へ出張し、延べ18回コンサートに行った事を中心に、関連するエピソードなどを書かせてもらったが、私の最も好きなことを総括する事ができた。月に2回の執筆はつらい事もあったが、メルマガの編集の大変さを和らげてくれる効果もあった。

   私の後を受けて、伊藤さんが「アラスカ紀行」を連載している。アラスカへの思い入れが感じられるし、過去の事をこんなに正確に今書く事が出来ると感心している。6回終了したところで、後編としてもう6回の連載をお願いした。伊藤さんからは12回迄の原稿を頂いており、次回が最終回となる。

  次の連載の候補を選定する時期に来ている。ぜひ自薦、他薦を期待します。

  佐藤さんの「渡るアメリカに鬼はなし=マラソンおばさんとアメリカの子供達との交流」の連載は偶然から始まった。アドバイザー講座の懇親会で隣に座り、数分話をしたところで「ふれあい広場」への投稿をお願いした。2回、3回となり、現在は連載の形になっており、メルマガのしんがりを務めてもらっている。佐藤さんも相当にお忙しそうであるが、終了した時に連載の苦労話などうかがってみたい。

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■コンテンツの多目的利用【NO26・030501】
IDNではいくつかののメディアで、会員や一般の方に情報を発信している。
◇ふれあい通信:会員対象・IDNの機関紙・紙メディア 
◇ホームページ:公開
◇メルマガ:会員及び関係者対象・電子メディア(電子メール)
◇講演会案内:会員及び関係者対象・紙メディア(郵送)・電子メディア(メールに添付)
◇メーリングリスト:特定目的のために関係者のみ

  メルマガ発行後、ホームぺージにバックナンバーとしてアップロードして、過去のものを見る事が出来るようにした。当初からの購読者には必要ないが、途中からお届けしている方からの要求も多いので、バックナンバーのページを開設した。

  講演会については、講演会担当がA4サイズの「チラシ」を作成。広報担当がメールに添付して会員宛てに送信。メルマガ担当は「チラシ」の内容をメルマガ用に編集しなおす。同時にホームページ用にも編集してアップロードする。
  講演会が修了すると、講演会担当が、「講演会報告」をメルマガに投稿。メルマガに掲載したものをほぼそのままホームページの「講演会日記帳」にアップロードする。勿論、「ふれあい通信」にも講演会の実施記録が掲載される。

  「シニア情報生活アドバイザー講座」については、日程と開催場所が決定したところで、ホームページに掲載、同時にメルマガで案内している。講座が修了すると、受講者に受講感想をお願いし、メルマガの「ふれあい通信」欄に掲載、その後ホームページにアップロードして、受講者名簿と一緒に掲載している。

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■メルマガIDNのリッチ度【NO25・030415】
  1年前に発行した直後のころ、メルマガというのは「マガジン=雑誌」、写真やイラストをふんだんに入れて楽しいものにして欲しいという声が出ました。しかし、「メルマガというのはテキストベース」という気持ちが強く、昨年の4月15日発行の第1号は、すべてテキストで作成しました。基本的には、今もこの気持ちは変わっていません。

  現在メルマガを読んでいただいている方のネットワーク環境は、アナログの電話回線・ISDN・ADSL・ケーブルテレビ・FTTH(光ファイバー)と多様です。具体的にこの構成がどんな比率になっているかは把握していませんがいたずらにリッチ度を上げる訳にも行きません。リッチ度とスピードはトレードオフの関係にあります。

  実際にテキストのみで作ってみると味気なく、文字の壁になり読むのが苦痛になることもあり、リッチ度を少しずつ変化させてきました。タイトルの色を変え、文字の大きさも変え、写真やイラストも少し加えてみて(これは切手みたいに小さくして)変化を持たせています。リッチ度を上げる度に送信と受信のテストを行ない、おおよその時間を把握して実行に移しています。

  堀江さんからは、数個のアニメが届いていますが、まだ使用していません。このアニメについては、HPから頂いたものということで、リッチ度の問題とは別に原作者の著作権もあり採用に至っていません。限られた方とはいえ百数十人にお送りしているので逡巡しています。

   今回は25号の発行になりました。月に2回発行しているので、メルマガIDNは2年目に入ったということです。ひとえに原稿を書いて下さった皆様のおかげです。皆様がすべてをお読みいただいているとも思っていませんが、興味のあるところを読んでいただいて、反応していただくのが編集者の支えになっています。

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■脇道にそれる―カール・ベーム【NO24・030401】
  30日の夜メルマガの編集始めた。日曜日の9時からは仕事部屋の装置のFMでNHKの3チャンネルの音を聴いている。その夜は、いつもの池辺晋一郎の番組でなく、カール・ベームとウイーンフィルの演奏をやるという。編集作業を急きょ中止してリビングのテレビを見に行った。「想い出のシンフォニー」という番組で、古い名演奏を特集。番組は、1977年の3月のNHKホールでの演奏会の録画で、ベートーベンの「運命」とアンコールで演奏された「序曲レオノーレ第三番」だった。

  ベームとウイーンフィルは1980年にもう1度来日している。そしてその翌年の1981年にベームは亡くなっている。最後の来日の一つ前、1977年の彼らの一連の演奏は定評のあるもので、その中でもブラームスの「交響曲第一番」の演奏は最もすばらしいと思う。演奏を聞いていて感動し身体が熱くなるのとは違った感触で、自分だけでなく回りの皆もシンと静まりかえった感じで聞き入っていた記憶がある。テレビでの演奏でも、会場が熱気よりも静けさに覆われているように感じられて不思議な感じがした。

  インタビューの中でベルリンフィルとウイーンフィルを比較して、ベームは面白いことを行っていた。前者はどのような指揮者と演奏しても中程度以上のレベルの演奏をする。後者は、演奏者達がエロイカの第一楽章のテンポの取り方はおかしい、おれたちが一番良く知っている、などと言い出す。しかし、すぐれた指揮者と楽員が一体となった時には予測できないような境地に至ることがある。ベームだからこんな事が言えるのであろう。

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■月2回発行の苦労話や裏話など【NO23・030315】
  1年近く前のある日、IDNでもメルマガを出そうということになりました。発行の主旨については22号で述べた通りです。発行間隔については、月に1回?、月に2回?、と一応議論しましたが、2回出して見ようということで始めました。回数については、10号のアンケートで読者の皆さんの意見も聞きました。85%の方が「発行回数は適当と思う」という回答でした。「大変だろうから1回にしたら」という声も聞きますが、2回発行を続けて次号で1年になります。

  以前は、月半ばの場合は、15日の24時までに発行することにしていました。原稿の遅れ、編集する時間が取れない、いろんな理由で24時すれすれというのが何回かありました。「龍のコンサート三昧」を連載している時は、時間切れになり、自分のものが粗雑になり心残りの発行もありました。

  編集の途中6割から7割出来たところで、予備のアドレスに送信しておきます。操作ミスやアクシデントで、折角創ったものが消滅しないようにバックアップのためです。夜の10時頃に最後の原稿を頂いて一応出来上がると、共同編集者の小坂さんに「○日×時版」として送ります。小坂さんは、「これから見るから」というメールをくれます。私は風呂に入り出た頃に、小坂さんからチェック済のメールが来て、最後の校正をし発行の運びとなります。

  現在もこれに似たスケジュールで編集作業をしていますが、原則としては、発行日の前日に編集を終了し0時を過ぎたら皆さんに発送するようにしており、投稿の締めきりも前日の22時頃でお願いしています。

  今回も制限時間いっぱいとなりましたが、月2回発行を今しばらく続けてみようと思います。
  毎回原稿をいただいていいる方も大変ですが、よろしくお願いします。
  皆さんの投稿をお待ちします。

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■IDNのメルマガとは【NO22・030301】
メルマガIDNの第1号で、奈良原理事長は3点を期待すると言っています。

第1は、「貰って嬉しいメール」にしよう!
    知って得する情報や,心の通う面白い話題を伝えて欲しい
第2は、「めだかの学校メール」にしよう!
    一方通行にならないことです
第3は、「全員参加のメール」づくりをしよう!
     恥づかしがらずに,"自分が主役"で活躍して欲しい

理事長の、そして皆様のご期待にそえる内容になっているでしょうか?

  IDNの活動(事業)の3本柱である、アドバイザー講座・ふれあい充電講演会・社会人や学生の進路支援を中心に据えています。
  連載ものを2本掲載しています。趣味の世界をベースにしたものでは、生部の「龍のコンサート三昧」に続いて伊藤さんの「アラスカ紀行」が佳境に入ってきました。
  「楽しくパソコンライフ」では岡角さんと小坂さんが奮闘しています。だんだんネタがなくなってきたので、皆さんの質問を求めています。きっと悩みを解消してもらえますよ。
  下関支部便りでは遠隔地の仲間の皆さんの活動状況武部さんと青木さんに伝えてもらっています。

  最近始めた「ふれあい広場」は理事長の第2・第3の期待にそうものです。もっと沢山のかたの登場をお待ちしています。佐藤さんの「渡るアメリカに鬼はなし」は連載になっており、今後の展開が楽しみです。

  貰ってうれしく、双方向で、全員参加のメルマガ創りを目指したいと思いますので、皆様の一層のご協力をお願いします。

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■メルマガとは【NO21・030215】
  メルマガという言葉は珍しくありませんが、現代用語の基礎知識2002によると、
「インターネット上の雑誌。略してメルマガ」と書いてあります。
  あまりにもそっけないので、インターネットで検索して、何個かの説明を総合してみると、
「新聞・雑誌・ちらし・会報などの要素をあわせ持った、インターネット上の刊行物。情報系(パソコンの最新情報、株の情報など)、ショッピングサイト系(ショップごとの掘り出し物情報など)、芸術系(自作の詩や小説など)。多くは無料で発行されています。(メルマガ発行をビジネスにすることについては割愛します)

  メルマガを受信するには、まず、メルマガを発行している会社のホームページへ行きます。そこで、ジャンル分けや発刊周期などを参考にしながら、面白そうなメルマガを探します。そこに自分のメールアドレスを登録すれば、そのメルマガを受信することが出来ます。
  購読を申し込む前に、バックナンバーで、内容を確かめておきましょう。また、断りかたが明記されていない場合は、登録しない方がよいでしょう。登録したアドレスが不当に利用されることがあることも記憶しておいて下さい。

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■20号にして初めての編集後記【NO20・030201】
 
10ヶ月前にIDNの運営委員会でメルマガIDNの刊行を決定して、早いもので20号をお届けするることになりました。原稿を書いていただいている方と読者の方に感謝いたします。
  現在お送りしている方は129名と1団体です。少しずつ増加しています。内訳は、IDNの会員59名(メール受信の可能な方)、シニア情報生活アドバイザー講座受講生55名(内17名は会員とダブルカウント)、会員などの紹介者32名です。

  20回の編集をとおして、感じたことやお伝えしたいこと、ウラバナシんどたくさんありますが、次号から少しずつ書いてみます。
  その中でもっとも感じることは、「出来るだけたくさんの方に登場してもらいたい」ということです。シニア情報生活アドバイザー講座の受講生の方は沢山登場してもらっています。残念なのは主役であるべき会員の方の登場が少ないことです。
  「ふれあい広場」は皆様の声を発表する場です。20号からは、メールアドレスをクリックすればメールの送信画面が立ち上がります。投稿をお待ちしています。何かが始まるかも知れません。



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・IDN関連:メルマガなど
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  20号にして初めての編集後記 【NO020・030201】
 メルマガとは 【NO021・030215】
 IDNのメルマガとは 【NO022・030301】
  第69号は盛りだくさん 【NO069・050215】
  メルマガがウイルス騒ぎに巻き込まれました 【NO047・040315】
 「ウイルスメール」 【NO029・030615】
  「連載もの」について 【NO028・060103】
  コンテンツの多目的利用 【NO026・030501】
  メルマガIDNのリッチ度 【NO025・030415】
  月2回発行の苦労話や裏話など 【NO023・030315】
 リレー連載「楽しくITライフ」開始
【NO046・040301】
 メルマガIDNが100号になりました 【NO099・060601】
 メルマガIDNを発行してから12年と6カ月、第300号を発行しました 【NO300・141015】
 SF21からADF2004へ
【NO046・040301】
 《シニアネット・フォーラム21 in 東京 2009》を終えて 【NO171・090515】
 《シニアネット・フォーラム2010 in 東北》に参加した 【NO204・101015】
 復興支援のために大船渡へ行ってきた 【NO223・110801】
 今年は「海外旅行体験話クラブ」を復活しよう 【NO066・050101】

・コンサート
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 龍のコンサート三昧はこちらからご覧ください(メルマガIDNに2002年に連載)

    第 1回  昼は仕事、夜はコンサート
   第 2回 コンサート事始め
   第 3回 来日演奏家との出会い
   第 4回 パリの小さな協会でのコンサート
   第 5回 ロンドンの秋葉原へ行った話
   第 6回 さまざまなコンサートホール
   第 7回 オペラハウスへ何しに行くの?
   第 8回 異国の夜の街は危険がいっぱい
   第 9回 ジャズもまた楽し―バッハとジャズ
   第10回 海外でのチケットの入手
   第11回 ブラームスが好き
   第12回  カーネギーホールとアメリカのクリスマス


【NO005・020601】
【NO006・020615】
【NO007・020701】
【NO008・020715】
【NO009・020801】
【NO010・020815】
【NO011・020915】
【NO012・021001】
【NO013・021015】
【NO014・021101】
【NO015・021115】
【NO016・021201】
 龍のコンサート三昧2006はこちらからご覧ください
   龍のコンサート三昧2006 【 1】ベルリンとウイーンへ  
   龍のコンサート三昧2006 【 2】ベルリンフィルを聴く  
   龍のコンサート三昧2006 【 3】ベルリンフィルの本拠地「フィルハーモニー」
  
   龍のコンサート三昧2006 【 4】ザルツブルグでモーツアルトの室内楽をきく  
   龍のコンサート三昧2006 【 5】ベルヒテスガーデンで遊び、国際特急でウィーンへ
  
   龍のコンサート三昧2006 【 6】ムジークフェラインでポリーニを聴く  
   龍のコンサート三昧2006 【 7】難聴になったベートーベンの苦悩 ハイリゲンシュタットの遺書

   龍のコンサート三昧2006 【 8】ムジークフェラインザールでウィーンフィルを聞く
  
   龍のコンサート三昧2006 【 9】モーツァルトハウス(旧 フィガロハウス)  
   龍のコンサート三昧2006 【10】「リヒャルト・ワーグナー広場」駅で龍を見つけた  
   龍のコンサート三昧2006 【11】コンサートホールとオペラハウス(ベルリンとウィーン)

【NO101・060615】
【NO102・060701】
【NO103・060715】
【NO104・060801】
【NO105・060815】

【NO106・060901】
【NO107・060915】
【NO110・061101】
【NO111・061115】
【NO112・061201】
【NO113・061215】
 龍のコンサート三昧2008(写真集はこちら)
  龍のコンサート三昧2008 【 1】再びヨーロッパのコンサートツアーに 【NO148・080601】
  龍のコンサート三昧2008 【 2】ダニエル・バレンボイムとウィーンフィル 【NO149・080615】
  龍のコンサート三昧2008 【 3】プラハの春 【NO150・080701】
  龍のコンサート三昧2008 【 4】《プラハ春》のブレンデルのリサイタル 【NO151・080715】
  龍のコンサート三昧2008 【 5】スメタナホールでチェコフィルを聴く 【NO152・080801】
  龍のコンサート三昧2008 【 6】プラハからドレスデンへ 【NO153・080815】
  龍のコンサート三昧2008 【 7】ドレスデンの歌劇場で《フィガロの結婚》を見た 【NO154・080901】
  龍のコンサート三昧2008 【 8】ドレスデンからベルリンへ 【NO155・080915】
  龍のコンサート三昧2008 【 9】演奏会場が《ヴァルトビューネ》に変更になった 【NO156・081001】
  龍のコンサート三昧2008 【10】《ヴァルトビューネ》でベルリンフィルを聴く 【NO157・081015】
 龍のコンサート三昧2010(写真集はこちら)
  龍のコンサート三昧2010 【 1】 3回目のヨーロッパへのコンサート旅行 【NO191・100401】
  龍のコンサート三昧2010 【 2】ミュンヘンは人情味もあるドイツ南部の文化都市 【NO192・100415】
  龍のコンサート三昧2010 【 3】ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団演奏会を聴く 【NO193・100501】
  龍のコンサート三昧2010 【 4】ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の演奏会を聴く 【NO194・100515】
  龍のコンサート三昧2010 【 5】音楽にゆかりのある旧東ドイツの都市ライプツィヒ 【NO195・100601】
  龍のコンサート三昧2010 【 6】ベルリン・フィルの『ヴェルディのレクイエム』を聴く 【NO196・100615】
  龍のコンサート三昧2010 【 7】3回目のベルリン訪門 【NO197・100701】
  龍のコンサート三昧2010 【 8】ベルリン国立歌劇場管弦楽団コンサートを聴く 【NO198・100715】
  龍のコンサート三昧2010 【 9】アムステルダムとデン・ハーグでの美術館めぐりなど 【NO199・100801】
  龍のコンサート三昧2010 【10】アムステルダムでの2つのコンサート 【NO200・100815】
 龍のコンサート三昧〜40年を振り返る〜 【NO329・160101】
 海外調査とコンサート三昧1998 【NO359・170401】
 科学技術と経済の会(JATES)主催の2つの海外調査〜昼は仕事 夜はコンサート〜 【NO357・170301】
 平家物語〜紙版画と琵琶演奏語りのコラボレーション(1)〜 【NO201・100901】
 平家物語〜紙版画と琵琶演奏語りのコラボレーション(2)〜 【NO292・130615】
 カール・ベーム 【NO024・030401】
 ホロヴィッツ 【NO051・040515】
 アトリエコンサート2004秋 【NO052・040601】
 アトリエコンサート2010春〜J.S.バッハ パルティータ全曲演奏会(その2)〜 【NO203・101001】
 今井信子のビオラで《シャコンヌ》を聴いた 【NO121・070415】
 岡村喬生の《冬の旅》を聴いた 【NO095・060315】
 パーヴォ・ヤルヴィ指揮 パリ管弦楽団の《幻想交響曲》を聴いた 【NO232・111215】
 東京文化会館でのティー・タイム・コンサート 【NO288・140415】

・オーディオ
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 オーディオ三昧:(その1)アナログ時代の装置が活躍している 【NO082・050901】
 オーディオ三昧:(その2)究極のアナログプレーヤーを開発した寺垣 武さん 【NO083・050915】
 よみがえった40年前のチューナー 《サンスイ TU−777》 【NO165・090215】
 甦ったアンプとCDプレーヤー 【NO284・140215】
 ロンドンの秋葉原へ行った話 【NO008・020801】
 ペンション  フィールドノート 【NO036・031001】
 設計の段階で完成したホールの音を聴く 【NO228・111015】
 誇り高きラガード 【NO273・130901】

・陶磁器
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 ・陶磁器を彩る龍(その1) 中国(景徳鎮)・朝鮮・伊万里・京焼・九谷 【NO308・150215】
 ・陶磁器を彩る龍(その2) ヨーロッパで出会った龍の絵柄の磁器 【NO309・150301】
 ・有田と伊万里 (その1)有田・伊万里はふるさとの近く 【NO086・051101】
 ・有田と伊万里 (その2)有田ポーセリングパークの伊万里と大川内山の鍋島 【NO087・051115】
 ・有田と伊万里 (その3)「伊万里」を見る−知永古美術館と戸栗美術館 【NO088・051201】
 ・有田と伊万里 (その4)「伊万里」を見る−松岡美術館と東京国立博物館− 【NO089・051215】
 ・伊万里の「古九谷様式」と九谷焼 【NO321・150901】
 松涛美術館の景徳鎮千年展〜伊万里とのかかわりを知る〜 【NO131・070915】
 唐津と有田2009 【その4】再び《有田ポーセリングパーク》のツヴィンガー宮殿を訪れた 【NO183・091115】
 唐津と有田2009 【その5】有田にある佐賀県立九州陶磁文化館で伊万里を見る 【NO185・091215】
 海を渡った伊万里【その1】 シャーロッテンブルク宮殿(ベルリン) 【NO114・070101】
 海を渡った伊万里【その2】 ツヴィンガー宮殿(ドレスデン) 【NO158・081101】
 静嘉堂文庫美術館で《曜変天目茶碗》を見た 【NO142・080301】
 藤田美術館の《曜変天目茶碗》を見た 【NO232・150101】

・旅・まち歩き
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  博多から筑肥線で唐津へ 【NO071・050315】
 唐津と有田2009 【その1】再び、博多から筑肥線で唐津へ 【NO180・091001】
 唐津と有田2009 【その2】からつ曳山展示場で14台の曳山を見た 【NO181・091015】
 唐津と有田2009 【その3】唐津まち歩きで龍に出会う 【NO182・091101】
 唐津と有田2009 【その4】再び《有田ポーセリングパーク》のツヴィンガー宮殿を訪れた 【NO183・091115】
 浅草まち歩き その1 浅草寺から周辺へ 【NO123・070515】
 浅草まち歩き その2 浅草寺に戻る 【NO147・080515】
 浅草の龍を訪ねてまち歩き 【NO312・150415】
  ピレネー、花とロマネスク教会2004(連載終了しました  こちらをご覧ください 【NO054 ・ NO065】
 《ロマネスク様式の教会》をデジブックに 【NO270・130715】
 スペイン紀行2007 【その1】ソルソーナ市で花展の開催〜ことの始まりから出発まで〜 【NO132・071001】
 スペイン紀行2007 【その2】ソルソーナ市で花展の開催〜準備・フェスタの開会・晩餐会〜 【NO133・071015】
 スペイン紀行2007 【その3】ソルソーナ市で花展の開催〜いよいよ本番〜 【NO134・071101】
 スペイン紀行2007 【その4】七支刀にインスパイヤーされた花でメッセージの発信 【NO135・071115】
 スペイン紀行2007 【その5】サグラダ・ファミリア教会で「今井兼次の世界」の展示を見た 【NO136・071201】
 スペイン紀行2007 【その6】美術館三昧 【NO137・071215】
 ハムレットが父の亡霊と出会った場所 【NO067・050115】
 韓国へ行ってきた〜韓国のIT事情の調査〜 【NO041・031216】
 清水観音の本堂前に沙羅双樹がある佐賀県小城町は私の故郷
【NO046・040301】
 清水にある沙羅双樹を見に行った 【NO098・060501】
 たかお会《子の権現ハイキング》 【NO094・060301】
 たかお会《八ヶ岳山麓の坪庭と霧ヶ峰高原ハイキング》に参加した 【NO179・090915】
 たかお会の《鋸山ハイキング》に参加した 【NO207・101201】
  スペイン巡礼でピレーネーからレオンまで470kmを踏破した村山雅彦さん 【NO068・050201】
 ジャン・リュック・ゴダール監督の映画《軽蔑》とカプリ島 【NO205・101101】
 アメリカのクリスマス 【NO280・131215】
 ・ドイツ人気質  【NO092・060201】
 9・11から13年が経った〜WTC(ワールド・トレード・センター)の思い出〜 【NO298・140915】
 ひさしぶりに奈良へ行った 【NO294・140715】
 龍を訪ねて京都へ (その1)天井の龍 【NO314・150515】
 龍を訪ねて京都へ (その2)出会った龍たち 【NO314・150601】
 東海七福神めぐりを振り返る 【NO330・160115】
 金沢で出会った龍 【NO335・160401】
 佐賀で出会った龍と仲間たち 【NO341・160701】
 夏の記憶〜サン・アントニオ〜 【NO345・160901】
 銀座の街並み 2017 【NO363・170601】
 銀座に昭和7年に建設された「奥野ビル」 【NO364・170615】

・美術・絵画・版画・彫刻・工芸品
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絵画・版画
 ゴーギャン 【NO042・040101】
 不透明な時代を先取りした画家 ゴーギャン 【NO177・090815】
 ゴッホとゴーギャン展を見に行った 【NO352・161215】
 山梨県立美術館で《オランダ・ハーグ派展》を見た 【NO274・130915】
 スペイン紀行2007 【その6】美術館三昧 【NO137・071215】
 スペインの現代絵画の三巨匠のひとり サルバドール・ダリ 【NO139・080115】
 故郷と家族を愛し続けたシャガール 【NO202・100915】
 葛飾北斎の 虎図(雨中の虎)と龍図 【NO117・070215】
 「没後50年 横山大観―新たなる伝説へ」展を観る 【NO140・080201】
 千葉県立美術館で平山郁夫展を見た 【NO310・150315】
 岡本太郎の『明日の神話』 【NO289・140501】
 そして太陽の塔だけが残った 岡本太郎考 【NO295・140801】
 源氏物語錦織絵巻展を見た 【その1】国宝源氏物語絵巻 【NO174・090701】
 源氏物語錦織絵巻展を見た 【その2】《柏木三》の絵に源氏の苦悶を見る 【NO175・090715】
 安部龍太郎の新聞小説『等伯』と《長谷川等伯と狩野派》展 【NO230・111115】
 縄文的な画家 片岡球子 【NO173・090615】
 デジタルアーカイブ《綴(つづり)プロジェクト》 【NO221・110701】
 平家物語〜紙版画と琵琶演奏語りのコラボレーション〜 【NO201・100901】
 カナダの北極圏の島のイヌイットの版画 【NO215・110401】
 ボストン美術館 浮世絵名品展 錦絵の黄金時代〜清長、歌麿、写楽〜 【NO217・110501】
 ボストン美術館 日本の至宝特別展 龍を描く〜蕭白の襖絵と屏風〜 【NO322・150915】
 ボストン美術館の至宝展〜東西の名画、珠玉のコレクション〜 【NO370・170915】
 東京国立博物館で《特別展 写楽》を見た 【NO219・110601】
 特別展《生誕150年 黒田清輝─日本近代絵画の巨匠》 を見に行った 【NO337・160501】
彫刻
 (仮説)北斎の《神奈川沖波裏》には元になっている彫刻があった 【NO146・080501】
 波の伊八の龍の彫刻 【NO213・110301】
 鶴丘八幡宮と木彫師・後藤利兵衛義光 【NO316・150615】
 (仮説)左 甚五郎は架空の人物 実は高松又八郎邦教である 【NO145・080415】
工芸品
 古墳時代の鏡 【NO188・100201】
 浅田次郎の『天切り松闇がたり』と名刀《小龍景光》 【NO186・100101】
 七支刀 【NO267・130601】
展覧会
 興福寺仏頭展を見に行った 【NO275・131001】
 東博の特別展『栄西と建仁寺』展を見に行った 【NO291・140601】
 空海と密教美術展 【NO226・110915】
 東京国立近代美術館〜美術にぶるっ!ベストセレクション 日本近代美術の100年〜 【NO257・130101】
 《メトロポリタン美術館 古代エジプト展 女王と女神》を見に行った 【NO279・140901】
 プラド美術館展〜スペイン宮廷美への情熱〜を見に行った 【NO331・160201】
 東博へ初もうで 2011 【NO210・110115】
 東博へ初もうで 2013 【NO258・130115】
 東博へ初もうで 2017 【NO354・170115】
 サイバーギャラリー:東博の龍 【NO360・170415】
 スペイン紀行 2007 【その6】美術館三昧 【NO137・071215】
 「魔女」はスケープゴート:《魔女の秘密展》を見に行った 【NO333・160301】

・映画
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 映画も楽しい 〜映画事始め〜 【NO074・050501】
 映画も楽しい 〜好きな監督と映画〜 【NO075・050515】
 映画も楽しい 〜ルキノ・ヴィスコンティ〜 【NO077・050615】
 映画も楽しい 〜世にも怪奇な物語〜 【NO076・050601】
 ジャン・リュック・ゴダール監督の映画《軽蔑》とカプリ島 【NO205・101101】
 映画 東ベルリンから来た女 【NO260・130215】
 『七人の侍』をリメークした『荒野の七人』 【NO326・151115】
 ワイアット・アープが登場する映画 【NO336・160415】

・パラダイム
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 パラダイム【その1】パラダイムシフト 【NO037・031015】
 パラダイム【その2】パラダイムの融合(フュージョン) 【NO038・031101】
 縄文と弥生【その1】縄文的なもの」と「弥生的なもの  【NO079・050701】
 縄文と弥生【その2】吉田秀和の「縄文的」なフルトヴェングラーと 「弥生的」なワルター
【NO115・070115】
 縄文と弥生【その3】梅原猛の『楕円文化論』と「縄文と弥生」 【NO116・070201】
 大宅壮一マスコミ塾 【NO033・030817】
 大宅壮一マスコミ塾の第9期の会〜小説『坂の上の雲』と旅順攻略の史実〜 【NO231・111201】
 ミネルバのフクロウは、迫り来る黄昏に飛び立つ 【NO073・050415】
 坂井直樹氏の「コンセプト気分の時代 【NO126・070701】
 トレンド研究会:今年はトレンドを読み本の出版を目指す 【NO090・060101】
 ICTの進化により我々の生活はどのように変わるか〜鉄人28号からドラえもんへ〜  【NO189・100215】
 誇り高きラガード 【NO273・130901】
 超高齢化社会を担うスマートシニア 【NO277・131101】
 NHK放送文化研究所の日本人の意識調査 【NO286・140315】

・スポーツ
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 テニス三昧 【NO178・090901】
 ヨット三昧(その1) 【NO 81・050815】
 ヨット三昧(その2) クルーザーに乗せてもらった 【NO 84・051001】
 ホールインワンをしてしまった  【NO190・100315】

・龍・十二支・四神
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龍の起源
 龍の起源 【NO235・120201】
 いろいろな龍の概念とかたちがつくられてきた 【NO234・120115】
 龍のかたちの特徴をあらわす《三停九似説》 【NO233・120101】
瑞獣としての龍 四神
 龍は四種の瑞獣のひとつ 【NO245・120701】
 龍が活躍する陰陽五行思想と四神信仰 【NO365・170701】
 四神の信仰〜東方と春を守護する蒼龍〜 【NO246・120715】
 《東方神青龍》は東方と春を守護する霊獣 【NO162・090101】
 平安京は四神相応の都 【NO365・170715】
 横浜中華街を守護する四神 【NO164・090201】
 江東の地に四神が降り立つ 【NO325・151201】
 松戸神社の神幸祭の四神 【NO325・151101】
 田無神社の五龍神 【NO355・170201】
 佐賀で出会った龍と仲間たち 【NO341・160701】
 高松塚古墳の壁画の四神の龍 【NO367・170801】
 古墳時代の鏡 【NO188・100201】
 方格規矩四神鏡に宇宙の広がりを 【NO368・170815】
瑞獣としての龍 十二支
 十二支のなかで唯一実在していない龍(辰) 【NO247・120801】
 干支談義 【NO129・070815】
 干支と裏干支で縁起を担ぐ 【NO282・140115】
 東京駅のドームの十二支のレリーフ 【NO253・121101】
 武雄温泉楼門の四つの干支 【NO339・160601】
 千葉神社の妙見尊星王 【NO163・090115】
 辰年から巳年へ 【NO259・130201】
 田無神社の五龍神 【NO355・170201】
龍に見立てる
 龍に見立てる:鳥瞰でみる龍のかたち 【NO248・120815】
 龍に見立てる:(その2)厳島神社が龍のかたちに見える 【NO249・120901】
 平家物語〜紙版画と琵琶演奏語りのコラボレーション〜 【NO201・100901】
 龍に見立てる:(その3)川端龍子の龍づくし 【NO250・120915】
神社・仏閣でたくさんの龍に出会う
 神社仏閣を守護する龍の彫刻 【NO317・150701】
 富塚鳥見神社の向拝の龍 【NO332・160215】
 神社仏閣の天井に描かれた龍の絵 【NO252・121010】
 龍が描かれた襖絵 【NO350・161115】
 燈籠の龍  【NO220・110615】
 柱に龍が彫られている鳥居 【NO172・090601】
 神社仏閣の手水舎と龍 【NO209・110101】
 龍の彫刻をあしらった扁額 【NO318・150715】
 龍の絵柄の絵馬 【NO319・150801】
 龍をあしらったお守り 【NO349・161101】
 引き裂かれた龍を祀る三つの寺 【NO254・121115】
 上野東照宮の唐門の左甚五郎の昇り龍と降り龍 【NO287・140401】
 横浜の關帝廟と媽祖廟 【NO290・140515】
 川越の喜多院で出会った龍 【NO269・130701】
 栄福寺のしだれ桜を見に行った〜妙見地蔵堂の向拝の龍の彫刻〜 【NO216・110415】
 妙法寺に棲む龍 東京 杉並区堀之内 【NO346・160915】
 田無神社の五龍神 【NO355・170201】
(アラカルト)
 ホームページ《龍の謂れとかたち》事始め 【NO324・151015】
 隅田川テラスは新しい親水空間〜龍のレリーフ〜 【NO225・110901】
 葛飾北斎の 虎図(雨中の虎)と龍図 【NO117・070215】
 「没後50年 横山大観―新たなる伝説へ」展を観る 【NO140・080201】
 龍を描く〜蕭白の襖絵と屏風〜 【NO322・150915】
 デジタルアーカイブ《綴(つづり)プロジェクト》 狩野山楽筆《龍虎図屏風》 【NO221・110701】
 現代の若きお抱え絵師が妙心寺退蔵院方丈の襖絵を描く 【NO262・130315】
 東博の特別展『栄西と建仁寺』展を見に行った 【NO291・140601】
 ヨーロッパで出会った龍と仲間たち 【2008−その2】絵画に見るドラゴン(竜)
               〜大天使ミカエルと聖ゲオルギウス
【NO160・081201】
 龍を染めた手拭い 【NO302・141115】
 濱甼高虎の2代目当主の高橋欣也さん〜龍柄の手拭〜 【NO141・080215】
 民芸品や郷土玩具の龍 【NO313・150501】
 龍をあしらった粋な小物 【NO303・141201】
 龍をあしらった工芸品 【NO304・141215】
 《驚きの明治工藝》に展示された龍 【NO348・161015】
 辰年のお年玉記念切手 【NO305・150101】
 明治時代の龍をあしらった金貨と銀貨 【NO301・141101】
 オーストラリアからの竜の便り〜葦で造った竜〜 【NO242・120515】
 カプセル型無人宇宙船《ドラゴン》の快挙 【NO244・120615】
 お酒と龍 【NO222・110715】
 東博へ初もうで 2017 【NO354・170115】
 サイバーギャラリー:東博の龍 【NO360・170415】
まち歩きで龍に出会う
 江の島は龍の島 【NO251・121001】
 唐津と有田2009 【その3】唐津まち歩きで龍に出会う 【NO182・091101】
 ひさしぶりに奈良へ行った 【NO294・140715】
 沖縄で出会った龍〜その1 首里城の龍〜 【NO306・150115】
 沖縄で出会った龍〜その2 那覇市と浦添市にて〜 【NO307・150201】
 浅草の龍を訪ねてまち歩き 【NO312・150415】
 龍を訪ねて京都へ (その1)天井の龍 【NO312・150515】
 龍を訪ねて京都へ (その2)出会った龍たち 【NO312・150601】
 高柴デコ屋敷〜三春駒と三春張り子の発祥地〜 【NO320・150815】
 金沢で出会った龍 【NO335・160401】
 佐賀で出会った龍と仲間たち 【NO341・160701】
祭りの山車や曳山に飾られた龍
 成田山祇園会に行った〜山車と屋台に見る龍〜 【NO176・090801】
 佐原の大祭 秋祭り 【NO278・131115】
 浅草寺の金龍の舞 【NO229・111101】
 唐津と有田2009 【その2】からつ曳山展示場で14台の曳山を見た 【NO181・091015】
 鶴丘八幡宮と木彫師・後藤利兵衛義光 【NO316・150615】
陶磁器を彩る龍
 陶磁器を彩る龍(その1) 中国(景徳鎮)・朝鮮・伊万里・京焼・九谷〜 【NO308・150215】
 陶磁器を彩る龍(その2) ヨーロッパで出会った龍の絵柄の磁器 【NO309・150301】
 唐津と有田2009 【その5】有田にある佐賀県立九州陶磁文化館で伊万里を見る 【NO185・091215】
 海を渡った伊万里【その1】 シャーロッテンブルク宮殿(ベルリン) 【NO114・070101】
 海を渡った伊万里【その2】 ツヴィンガー宮殿(ドレスデン) 【NO158・081101】
本・絵本・ファンタジー
 ファンタジーに登場する龍(竜) 【NO255・121201】
 戸田幸四郎の絵本「竜のはなし」 【NO118・070301】
 絵本「りゅうのめのなみだ」 【NO122・070501】
 ピーター ポール&マリーの《パフ》は魔法のドラゴン 【NO243・120601】
 ニュージーランド民話《タニファ》 【NO276・131015】
 浅田次郎の『天切り松闇がたり』と名刀《小龍景光》 【NO186・100101】
 松谷みよ子の『龍の子太郎』 【NO311・150401】
波の伊八
 波の伊八の龍の彫刻 【NO213・110301】
 波の伊八は龍の彫刻でも魅了する 【NO299・141001】
 《波の伊八》の写真展とトークショー:伊八会代表の當間隆代さん 【NO344・160815】
東博・歴博・民博
 辰年に息づいた三博の龍 【NO256・121215】
 歴博フォーラム〜巳年の初噺〜 【NO261・130301】
 歴博フォーラム:初春の馬 【NO283・140201】
 東博へ初もうで 2017 【NO354・170115】
 サイバーギャラリー:東博の龍 【NO360・170415】
ヨーロッパのドラゴン
 ヨーロッパにおける悪い「竜(ドラゴン)」と善い「龍」 【NO138・080101】
 ヨーロッパにおける竜(ドラゴン)の系譜 【NO236・120215】
 天使ミカエルとドラゴンの戦い(ヨハネの黙示録) 【NO237・120301】
 聖ゲオルギウスの竜(ドラゴン)退治 【NO238・120315】
 サン・ジョルディと竜の伝説 【NO351・161201】
 ゲルマン神話より《ジークフリートの竜(ドラゴン)退治》 【NO239・120401】
 ギリシャ神話より《ヘラクレスのドラゴン退治》 【NO240・120415】
 ヨーロッパの善い龍 【NO241・120501】
 ヨーロッパで出会った龍と仲間たち 【2008−その1】彫刻に見るドラゴン(竜)
                   〜ミヒャエル門のヘラクレスの彫刻
【NO159・081115】
 ヨーロッパで出会った龍と仲間たち 【2008−その2】絵画に見るドラゴン(竜)
                   〜大天使ミカエルと聖ゲオルギウス
【NO160・081201】
 ヨーロッパで出会った龍と仲間たち 【2008−その3】サグラダ・ファミリア教会
                   〜ガウディのガーゴイル
【NO161・081215】
 スペインの小さな街ソルソーナの祭り《フェスタ・マジョール》 【NO143・080315】
 ポルトガルのドラゴンエース 【NO128・070801】

・能・文楽
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 能《西行桜》 【NO169・090415】
  文楽『伊賀越道中双六』 【NO070・050301】
 徳島の阿波木偶人形会館へ行った 【NO206・101115】

・祭礼
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 スペインの小さな街ソルソーナの祭り《フェスタ・マジョール》 【NO143・080315】
 成田山祇園会に行った 【NO176・090801】
 浅草寺の金龍の舞 【NO229・111101】
 須賀神社(東京・四谷)の例大祭で龍踊りが奉納された 【NO340・160615】
 佐原の大祭 秋祭り 【NO278・131115】

・読書・ブックレビュー
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 推理小説 【NO050・040501】
 パトリシア・コーンウェルの推理小説 【NO212・110215】
   【NO040・031201】
 21世紀の方丈庵 【NO072・050401】
 今年も花が咲いた(徒然草考) 2008  【NO144・080401】
 ぶっくれびゅー 【NO030・030701】
 絵本「りゅうのめのなみだ」 【NO122・070501】
 ピーター ポール&マリーの《パフ》は魔法のドラゴン 【NO243・120601】
 ニュージーランド民話《タニファ》 【NO276・131015】
 戸田幸四郎の絵本「竜のはなし」 【NO118・070301】
 佐野洋子の絵本 『100万回生きたねこ』 【NO218・110515】
 浅田次郎の『天切り松闇がたり』と名刀《小龍景光》 【NO186・100101】
 安部龍太郎の新聞小説『等伯』と《長谷川等伯と狩野派》展 【NO230・111115】
 古代のロマンに誘う黒岩重吾の歴史小説 【NO296・140815】
 佐伯泰英の『居眠り磐音 江戸双紙』 全51巻を読破 【NO353・170101】

・花道
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 龍と龍水 【NO097・060415】
 華三昧 【NO032・030801】
 創流90周年のイベントに参加した 【NO127・070715】
 ソルソーナにおける花展に参加した 龍と龍水
 スペイン紀行2007 【その4】七支刀にインスパイヤーされた花でメッセージの発信 【NO135・071115】
 七支刀 【NO267・130601】
 月下美人 【NO080・050801】
 いけばな 歴史を彩る日本の美 【NO187・100115】

・カメラ・写真・時計・万年筆
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  全マニュアルの「ニコンF 」とデジタルカメラ 【NO039・031115】
  カメラの世界遺産 ニコンFを使おう 【NO091・060115】
 カメラの世界遺産 ニコンFを使おう 余話 【NO093・060215】
  土門 拳 記念館 【NO034・030901】
 写真の楽しみ〜デジブックによる銀塩とデジタルの融合〜 【NO263・130401】
 《ロマネスク様式の教会》をデジブックに 【NO270・130715】
 よみがえった43年前の手巻き機械式腕時計《グランドセイコー》 【NO166・090301】
 《グランドセイコー》余話〜進化した時計たち〜 【NO167・090315】
 お気に入りの時計 遊び仲間の《夜更かし時計》 【NO168・090401】
 甦ったパーカー51 【NO264・130415】
 万年筆余話 【NO265・130501】
 誇り高きラガード 【NO273・130901】

・マスコミ・テレビ
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 テレビはこれからどのように進化して行くか 【NO049・040415】
 NHK放送文化研究所のシンポジューム《岐路に立つテレビ》 【NO170・090501】
 テレビ60年 未来へつなぐ 【NO271・130801】
 テレビ60年 未来へつなぐ(2):スマートテレビのインパクト 【NO272・130815】
 「アンドロイドテレビ」が我が家にやってきた 【NO371・171001】
 NHK放送文化研究所の日本人の意識調査 【NO286・140315】
 ハイビジョンで「ファッション通信」を見る 【NO124・070601】
 プロジェクトX  南極余話(その1) 【NO043・040115】
 プロジェクトX  南極余話(その2):南極で25年過ごした居住棟の復元 【NO044・040201】
 南極観測船「しらせ(先代)」を見学し、南極に思いを馳せる 【NO369・170901】

・ICT
 Surface RTを使いはじめた 【NO266・130515】
 ICTの進化により我々の生活はどのように変わるか〜鉄人28号からドラえもんへ〜 【NO189・100215】
 区民の情報リテラシーの向上に資するタブレットとスマートホンの講座 【NO328・151215】
 ネット環境を変更〜NTTのBフレッツからJ:COMのケーブルへ〜 【NO334・160315】
 1995年に買ってもらったThink Pad 755CDVが今のIDNでの活動に繋がる 【NO347・161001】
 バーチャルリアリティは第2世代を迎える 【NO358・170315】
 パソコンは良き助っ人だけれどトラブルと大変 【NO361・170501】
 パソコンのシステム上の問題を解決〜嘘のような本当の話〜 【NO362・170515】

・技術
 科学技術と経済の会のイノベーションシンポジューム:革新技術5題 【NO342・160715】
 科学技術と経済の会(JATES)主催の2つの海外調査〜昼は仕事 夜はコンサート〜 【NO357・170301】
 プロジェクトX  南極余話(その2):南極で25年過ごした居住棟の復元 【NO044・040201】
 南極観測船「しらせ(先代)」を見学し、南極に思いを馳せる 【NO369・170901】

・シニア
 シニアの活動の場所〜障がい者にパソコンを教える〜 【NO268・130615】
 シニアと収入が伴った仕事 【NO356・170215】
 アドバイザーの活動の実態を知る 【NO281・140101】
 超高齢化社会を担うスマートシニア 【NO277・131101】
 超高齢社会に期待される情報通信技術(ICT)と社会展開 【NO285・140301】
 平成28年度「高齢社会フォーラム in 東京」に参加した 【NO343・160801】

・未区分
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 龍と龍水 【NO97・060415】
 ホームページ《龍の謂れとかたち》事始め 【NO324・151015】
 ほあぐらさん 【NO085・051015】
 小田島雄志のユーモア 【NO224・110815】
 日本橋に空が戻ってくるだろうか 【NO130・070901】
  助六の宿 貞千代 【NO035・030915】
 ドイツ人気質  【NO092・060201】
 「出前授業」を体験した 【NO125・070615】
 演歌大好き 【NO119・070315】
 演歌大好き(2) 【NO338・160515】
 「くどづくり民家」の再生 【NO099・060515】
  「平家物語・探訪」の中原郁生氏の奥様よりお手紙をいただきました 【NO048・040401】
 復興支援のために大船渡へ行ってきた 【NO223・110801】
 川沿いの散歩道に桜が咲いた 2006 【NO096・060401】
 川沿いの散歩道に今年も花が咲いた 2007 《江戸川公演と椿山荘》 【NO120・070401】
 川沿いの散歩道に今年も花が咲いた 2008 《徒然草考》 【NO144・080401】
 川沿いの散歩道に今年も花が咲いた 2009 能《西行桜》 【NO169・090415】
 川沿いの散歩道  写真などの紹介はこちら 【NO078・050701】
 鳥たちのご馳走 【NO293・140701】
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