平安京は四神相応の都
【メルマガIDN編集後記 第366号 1707151】

平安京は四神相応の都
 前号で、龍が登場する陰陽五行思想と四神信仰について記した。今回は四神相応について記す。北に高くそびえる山があり、南が広く開けた湖沼があり、東に清き流れがあり、西に大きな道が続くのが一般に四神相応の地とされている。今回は四神相応の都と言われる平安京について、また、平安京の中心に位置している平安神宮を鎮護する蒼龍と白虎を紹介する。


都と宮が置かれたところ
【『日中古代都城図録』の図をもとに作成】


四神相応の概念

長岡京から平安遷都
 桓武天皇は平安遷都の10年前の784年に、一旦京都市の南西に位置する長岡に遷都し、長岡京を造営した。しかし、桓武天皇の弟である早良親王にまつわる政治的な動乱などがあり、長岡京を早々にあきらめ、桓武天皇は唐の首都長安城に倣って平安京への遷都を行った。

平安京は四神相応の都
 桓武天皇は風水に最適の地とした山背国に都を移した。これが平安京の始まり。平安京は平安城ともいい、延暦13年(794年)10月22日から、明治2年(1869年)まで長期にわたり日本の首都だった。

 平安京遷都にあたって、桓武天皇は、中国の古典に詳しい高僧や陰陽師を集めて吟味した結果、四神相応の風水学的に最高の吉相といわれる山背国を選び、都を造った。

 中国や韓国における風水の四神相応は、背後に山、前方に海・湖沼・河川の水(すい)が配置されている背山臨水の地を、左右から砂(さ)と呼ばれる丘陵もしくは背後の山よりも低い山で囲むことで背山臨水を砂で守る形態となっているものをいう。
 この場合の四神は、背後の山が玄武、前方の水が朱雀、玄武を背にして左側の砂が青龍、右側が白虎である。
 日本の平安京においても、北の丹波高地を玄武、東の大文字山を青龍砂、西の嵐山を白虎砂、南にあった巨椋池を朱雀とする対応付けが可能であり、背山臨水を左右から砂で守るという風水の観点から、京都は四神相応の地とされた。

 日本式の四神相応の根拠となっている「山川道澤説」が最初に出てくる文献は、平安時代後期に書かれた『作庭記(さくていき)』といわれている。作庭記の部分を引用すると以下の通り。
 「人の居所の四方に木をうゑて、四神具足の地となすべき事。(中略) 家より東に流水あるを青竜とす、西に大道あるを白虎とす、南側に池あるを朱雀とす、北後にをかあるを玄武とす。(中略) かくのごときして、四神相応の地となしてゐぬれば、官位福禄そなはりて、無病長寿なりといへり」。
 作庭記は、名前の通り、庭づくりのための書であり、四神相応の木々の選定と配置のための参考書である。

 日本式にみた、平安京の四神相応では、蒼龍が賀茂川、朱雀は巨掠池、白虎は山陽道(もしくは山陰道)、玄武は舟岡山とされている。ただし巨椋池が完全に干拓されてしまったために、現代では平安京は朱雀を失っている。なお、賀茂川の位置や西の大道を山陽道(もしくは山陰道)とすることについては異説もあるようだが、ここでは省略する。

方位 四神
(五獣)
地勢
平安京の四神相応 季節
青龍 流水 東の縁を流れる賀茂川
朱雀 湖沼 干拓されて今は無き巨掠池
西 白虎 大道 山陽道(もしくは山陰道)
玄武 丘陵 一般的には舟岡山
中央 (黄龍・麒麟) 土用
北東 (表鬼門) 比叡山延暦寺・日吉大社
西南 (裏鬼門) 広隆寺・松尾大社

<平安京の範囲>
 平安京という都は、北の外れの一条通りから、南の外れの東寺の前の九条通りまでが南北の範囲。東西は、東の方が寺町通りで、西方は阪急電車西京極駅の真ん中辺りが東西の範囲ということになる。朱雀通りが、現在の東西の中心となっている烏丸通からずれているのは、時代とともに都の中心が東にずれてきたため。平安京では、羅城門から東に200mのところに東寺が、西に200mのところに西寺が建設された。両寺は国家鎮護を願って平安京建都とともに建立された。


平安神宮 手水所の蒼龍と右奥の蒼龍楼


平城遷都1300年事業の「巡る奈良」の4つのエリア
【日経新聞 2010年4月23日より】


京都五社めぐり
 四神相応の京(みやこ)の東西南北を守護する社と中央を守護する平安神宮をめぐるという「京都五社めぐり」が人気で、専用の色紙も用意されている。「京都五社めぐり」でめぐる五社とは、東の蒼龍(八坂神社)、南の朱雀(城南宮)、西の白虎(松尾大社)、北の玄武(上賀茂神社)、そして中央の平安神宮である。「京都五社めぐり」には、「四神」だけでなく「五行」思想も加見されているように見える。

平安神宮は四神信仰とゆかりが深い
 平安神宮は、平安遷都1100年を記念して、明治28年に市民の総社として、桓武天皇をご祭神として創建された。平安神宮の社殿は平安時代の正庁、朝堂院が再現されている。年間の祭事である4月15日の例祭と10月22日の時代祭には境内に四神旗が掲げられる。
 平安神宮の大鳥居をくぐって、應天門(神門)を抜けると左右に手水所がある。大極殿に向かって右側(東側)に蒼龍、左側(西側)に白虎の石の彫刻がある。
 平安神宮の建物の配置において、大極殿の東には《蒼龍楼》、西には《白虎楼》があり、本殿の東に位置する中神苑の池には《蒼龍池》、西神苑の池には《白虎池》の名前がつけられている。
 平安神宮において、東方は蒼龍に、西方は白虎によって鎮護されているが、北と南の守りはどのようになっているののだろうか。戦国時代(紀元前403年~紀元前403年)には、龍虎二神が組みあって図像に表現されるようになり、四神がそろうのは東漢(紀元後)になってからと言われる。龍虎のみで鎮護するのも不思議ではない。

エピローグ
<平城遷都1300年事業の4つのエリア>
 2010年に遷都1300年を迎えた奈良では、「巡る奈良」と名付けられた記念のイベントが催された。奈良県を東西南北の4つのエリアに分けて、東の「青龍」(飛鳥・藤原周辺、大和高原・宇陀周辺)、北の「玄武」(平城京周辺)、西の「白虎」(斑鳩・信貴山周辺、葛城周辺)、南の「朱雀」(吉野周辺)を紹介している。
 ここでは、4つのエリアの名称に四神を登場させているが、「平城京が四神相応の都」である概念とは異なっている。

 京都五社めぐりに登場する5つの神社は、四方と中心より平安京(京都)を鎮護しているとするもので、「平安京が四神相応の都」という概念とは異なっている。このように、「四神」や「五行」は拡大解釈されて使われている例も多い。

<四神相応の例>
 平安京の他にも、平城京や鎌倉も四神相応の都づくりをしたので長く栄えた、秀吉は大阪に四神相応を配慮しなかったので繁栄が永続しなかったともいう説もある。大宰府や広島城などについても、四神相応といえるか、具体的に青龍・朱雀・白虎・玄武に相当するものは何か? 後の世代の人が辻褄を合わせるために考え出したことではないか? 等々異なった意見が見受けられる。
 自称龍楽者が、龍が登場する「四神」に興味を示して勉強してみたが、一筋縄では行かないことが分かった。「江戸は四神相応の都?」についても、私なりの考えをまとめるところまで至っていない。【生部 圭助】

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