銀座に昭和7年に建設された「奥野ビル」
【メルマガIDN編集後記 第364号 170615】

 先号では、銀座の中央通りと晴海通りの街並み、いわば銀座の表の顔を紹介したが、今回は、銀座に残る戦前の建築として貴重な一棟「奥野ビル」を紹介する。愛用の万年筆「パーカー51」が故障し、修理を頼むために訪れた建物が昭和7年に建てられた奥野ビルだった。


奥野ビルがある街並み  中央通りより2本入ったところ


奥野ビルの外観  タイル張りの外壁とバルコニー


1階のエントランス  右側に全60室の郵便受けを見る


階段と廊下  階段は増築部分にもある


手動の二重扉のあるエレベーター(内部)
降りたら扉を完全に占めるようにとの注意書きがある


ギャラリーの案内  周辺にプレートが追加されている(2013年)


甦ったパーカー51
 パーカー51を1965年頃に使い始めて、20年か30年たったころであろうか、インクの吸入が出来ないという、トラブルがあった。パーカーに電話して、指定されたところへパーカー51を送ったら、間もなく修理をして送り返してもらった。
 2回目のトラブルの時はパーカーへの連絡がうまく出来なかったので、パーカー51を丸善へ持って行った。担当してくれた女性は、パーカーに問い合わせてくれたが、この万年筆の部品のストックがなく、修理は不可能だと言われた。丸善の女性は、もしかしたらこちらで修理してもらえるかもしれないと言って、銀座にある《ユーロボックス》という会社の住所、電話番号、営業日などをメモ用紙に書いてくれた。
 ユーロボックスは銀座一丁目の奥野ビルにあることが分かり、ビルを探して407号を訪れて修理を依頼した。修理には3か月ほど要したが、パーカー51がよみがえった。
 修理を依頼した日に建物の内部を探索し、古い建物が古いままに使われているのに興味を持って、修理が成ったパーカー51を受け取りに行ったときにカメラを持参した。2013年のことである。

昭和7年に建てられた奥野ビル
 奥野商会は現在のオーナーの祖父にあたる方が明治の30年代、蒸気機関車の車軸部品の製造をここで始めた。工場兼住居は大正12年の関東大震災で焼失、奥野商会は鉄道の車両工場に近い大井町へ移転した。
 現在のオーナーの先代が、関東大震災で工場を消失した経験から、銀座の跡地に大地震にも耐えられる奥野ビルを建設したのは、関東大震災から10年後の1932年(昭和7年)のこと。震災後の住宅難のこともあり、鉄筋コンクリート6階建のアパートメントとして奥野ビルが建設された。
 最初に地下1階、地上6階の本館が建てられ、2年後に左右対称の新館が増築された。その後さらに7階部分が増築されている。

 奥野ビルの設計は、同潤会アパート建築部に所属していた川元良一氏。当時としては超モダンな「銀座アパートメント」としてオープン。都内に残る数少ない戦前アパート建築の貴重な一棟として現存している。

当初は高級アパートメント
 当時の建物は事務所の他、一階に貸店舗、小使室、2階から6階が居住部分で構成された。最上階の7階は増築によって変わったが、当初の屋上はペントハウスで、ここに共同洗濯室(屋外に物干し場)と談話室がおかれていた。地階に倉庫、ボイラー室 男女に区別がされた共同浴場があった。

当時としては先進的な仕様の建物
 奥野ビルは、タイル張りの外壁、バルコニー、1階の丸窓、中に入れば、床のモザイクタイル、美しい階段、デザイン性の高い照明など、今も当時の面影を残している。電話回線が引かれており、ボイラーから全館にスチーム暖房が施されていた。又、6階建ての建物にエレベーターも一基付けられている。手動で、二重扉を手動で開け閉めするタイプのエレベーターは、竣工当時のままに現在も稼働している。このように、建物設備としても先進的だった。

アパートメントの住人
 銀座という土地に建つ高級アパートメントには詩人、歌手など、昭和のカルチャーを創造してゆく人達が入居していた。「東京行進曲」を歌った佐藤千夜子、その作詞者の西條八十、映画監督の五所平之助、今和次郎と組んで銀座の風俗調査にも取り組んだ美術家の吉田謙吉らも住んでいたとのこと。

三十間堀川
 奥野ビルの目の前の三原通りの向こうは「三十間堀川(銀座の川)」と呼ばれた水路があった。江戸時代に西国大名に工事を命じ開削された堀で、幅が約30間(約55m)あったので、その名が付いた。奥野ビルは水辺に面した居住環境だったと想像されるが、三十間堀川は、戦災のガレキの処分場となって、いち早く埋められた。

変革と今
 銀座は空襲でかなり焼かれたが、このビルはあまり被害がなかったという。昭和30年代頃からは、事務所として利用されるようになったが、古い空間の再利用に若い人が魅力を感じるようになり、平成(90年代)になって画廊としての利用が増えてきた。今では、アンティークショップや画廊、ギャラリーが多く入るアートビルとなっている。

エピローグ
 今はなくなっているが、2013年に撮影した写真を見ると、一階の丸窓の横に「ギャラリー案内」のパネルがある。正規のパネルのまわりにたくさんのプレートが張り付けられているのを見ると、奥野ビルの使われ方の変化の激しさが窺える。

 三十間堀川が存在していたころの写真で、三十間堀川に架かる木挽橋、三原橋、朝日橋、豊玉橋の4つの橋を見ることができる。写真によると、三原通りと川の間に建物がある。奥野ビルが建設された当初は水辺に面していたとの説があるが、正確にはわからない。
 三十間堀川があったところに、今は建物が建っているが、地下鉄の銀座一丁目駅の入り口付近に川があったことを感じさせる風情が残っている。

 奥野ビルには、「銀座奥野ビル306号室プロジェクト」という、306号室を維持しつつ活用しようという非営利活動がある。306号室は、美容室を開いていた須田さん(当時の職業婦人の走り)が、最後の住人となり100歳で亡くなられた所である。こちらよりプロジェクトの概要を知ることができる。【生部 圭助】

参考とした文献など:泉 麻人氏の『銀ぶら百年』、ブログ『東京すごろく』他
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