そして太陽の塔だけが残った 岡本太郎考
【メルマガIDN編集後記 第295号 140801】

 メルマガIDN第289号(2014年5月1日発行)に、渋谷マークシティーの連絡通路の吹き抜け空間の壁に展示されている《明日の神話》を紹介し、岡本太郎の『ピカソとの対話』を参考にしながらピカソの《ゲルニカ》についても書いた。
 その際に読んだ『岡本太郎の世界(小学館 1999年)』は実に面白かった。「そして太陽の塔だけが残った」、これがこの書を楽しんだ挙句にたどり着いたところ 。この題で次号の編集後記に書いてみようかとも思ったが、少し荷が重く、自分の考えを整理するのに時間がかかった。

この書には著名人46人が登場している


日本の伝統・日本再発見等が掲載されている



太陽の塔 正面


太陽の塔 背面の黒い太陽


現在(太陽の顔)


未来(黄金の顔)

【太陽の塔の写真はすべて
Digibookで知り合いになった m1tomo09 さん より提供されたもの】


『岡本太郎の世界』にたくさんの知識人が登場している
 『岡本太郎の世界』には、著名人46人が登場している。彼等を通して、太郎をあぶり出し、太郎が鏡の役となり、彼等個々のの本質らしきものが見えてくる。

 最初に登場するのは、岡本太郎を論じた花田清輝。花田は、太郎とエドガー・アラン・ポオを《本能》と《理知》、《昼》と《夜》と対比させて論じている。ポオは私も好きな作家であり興味を持って読んだ。

 太郎との対談や座談会の相手として、安部公房(太郎の芸術)、園地文子(おとこ・おんな)、鶴見俊輔(日本の伝統と私)、三島由紀夫と加藤周一(芸術運動)、木村伊兵衛と土門拳と宮本三郎(写真と絵画)が登場。

 ペンで描いた太郎のスケッチ集では、椎名麟三、五味康祐、白洲正子、司馬遼太郎、石原慎太郎、辻 邦生、梅原 猛、などが筆をふるっている。

 その他、岡本太郎と《私》、追悼、美の呪力-太郎の作品を《見る》、太郎の著作を《読む》、太郎のエッセイ等、興味深い内容がたくさん盛り込まれている。

岡本太郎の伝統論
 『岡本太郎の世界』には、1955年12月の中央公論に掲載された『伝統とは創造である(原題:伝統序説)』が掲載されている。中見出しに「法隆寺は焼けてけっこう」という物騒な表現がある。伝統主義者たちの商標登録付の伝統論には興味がなく、太郎の本意は、失われたものを嘆くより、失われたものを乗り越えて新しい伝統を自ら作り、世に衝撃を与えることが大切だ、と言うところにある。

 誤解がないように補足すると、太郎は、フランスから帰国して、日本の過去の本当の姿にぶつかり、日本再発見のめに日本中を行脚して、日本の伝統を知り、学んだ。
 『日本の伝統(みすず書房 1999年2月発行)』には、中世の日本庭園や社寺、光琳と琳派、出雲、岩手(東北の意味)、仏教、面、雪舟等について、見聞きしたことを書き、問題を投げかけている。

 『伝統論の新しい展開(文学 1959年4月)』の中で太郎は、従来の伝統論に対して「京都の伝統、薩摩の伝統、少し広がって日本の伝統、東洋の伝統、それに対立する西洋の伝統、と言うふうに、人類とか国境、民族、そういう枠で過去を裁断し局限して捉えようとしたのです。(後略)」と批判している。

 太郎は、「過去をどんらんに無限大にまで開いて、世界の過去のあらゆる資産、財宝を目いっぱい詰め込んで、袋を極限まで大きくし、口をキュットしめればしめるほど勢いよく吹き出す、それが創造活動である」とも言っている。

<縄文土器>
 岡本太郎と伝統を語る時に忘れてならないのは、これまで一部の考古学者にしか関心を持たれなかった《縄文土器》を一つの芸術品として見、文化史的意味を定着させるのに貢献したことである。
 『縄文土器』は1952年2月の『みずゑ』に書かれたものであり、「じっさい、不思議な美観です。荒々しい不協和音が唸りを立てるような形態、文様。そのすさまじさに圧倒される」と書いている。でも、「縄文土器は過去のもの、今日の現実に直面して、縄文土器から何をひきだし、どのような意味で関わるかが重要な問題である」と太郎は警鐘を鳴らしている。

大阪万博の太陽の塔
 大阪万博(日本万国博覧会。EXPO'70)は、《人類の進歩と調和》というテーマを据えて、1970年3月14日から9月13日までの会期中に6,421万8,770人もの人々が訪れた過去最大の国際博覧会。前年秋に宇宙船アポロが持ち帰った《月の石》がアメリカ館で展示され、人気を呼んだ。

 丹下健三が計画したメイン会場案は、入り口部からメイン会場に至る空間を、高さ10メートルの大屋根を地上30メートルの高さに架けることで、東西108M、南北290Mにわたって覆ってしまうという壮大なものだった。

 主催者(国)は、紆余曲折の末、シンボル・タワーの制作を岡本太郎に依頼した。
 太郎は承諾すると、「よし、この世界一の大屋根を生かしてやろう。そう思いながら、壮大な水平線構想の模型を見ていると、どうしてもこいつをボカン! と打ち破りたい衝動がむらむら湧きおこる。優雅におさまっている大屋根の平面に、ベラボーなものを対決させる。屋根が30Mなら、それをつき破ってのびる70Mの塔のイメージが、瞬間に心にひらめいた」と言っている。

 そして出来上がったのが《太陽の塔》。太陽の塔には、過去(地底の顔)、現在(太陽の顔)、未来(黄金の顔)》が配されている。塔の裏側の不吉な《黒い太陽》はこの世の中の不調和、矛盾などすべてに憤りを表していると言われる。

 磯崎 新は、丹下健三のスタッフとして、お祭り広場の大屋根(メガストラクチャー)の計画に参加している。磯崎は『岡本太郎の世界』の中で、「建築家は合理主義に縛られた不自由な発想しかできないので、突き破ってみせると宣言して、お祭り広場の大屋根を文字通り突き抜けた。このやりとりをはらはらしながら眺めていた(このフレーズは要約した)」と書いている。

 小松左京は、大屋根を突き破って屹立する塔を見て、石原慎太郎の『太陽の季節』のなかで披露される障子破りのエピソードを想起した。このことを知り、太郎はこの塔を《太陽の塔》と名付けた。

岡本太郎の伝統論と太陽の塔
 ここで、太郎の伝統論と太陽の塔の因果関係をどのように説明したらいいのだろうか。太郎の《本能》が太陽の塔を生んだと、ひとことで片付けるのが妥当かもしれない。
 または、《伝統》をいっぱいに詰め込んで膨らませた太郎の大きい袋が瞬時に開放されて太陽の塔が迸り出た、としか言いようがない。
 これは、論文のテーマとしては、面白いと思うのだが、これからも頭の隅に置いて考え続けることにしよう。 

太陽の塔だけが残った
 岡本太郎は、主催者がこの万博で訴えかけようとしていたことと正反対のことを主張し、権力や既成概念への反逆の意を込めた。国の金を使って好き勝手なものを造った、という批判に対しては、「個性的なものの方がむしろ普遍性がある」と反論した。
 このような当時の環境の中で太陽の塔は実現したわけであるが、当時の知識人たちも、太陽の塔に得体のしれない力を感じ、最先端の科学や技術を基に作られたすべてのものを無にして、太陽の塔を残す判断をした。

エピローグ:太陽の塔「幻の顔」復元へ
 昨日(2014年7月31日)の日経新聞の夕刊に、塔の地下に展示され、その後行方不明になっていた「第4の顔」を復元し、内部の公開に合わせて、塔の地下に新設する展示スペースに置くことになった、との記事が出ていた。
 日経には、背面の黒い太陽は過去を意味し、《地底の太陽》について、人間の心の根源を意味する《幻の太陽》と書かれている。今回私が調べた限りでは、地底と背面の顔の意味づけに2つの解釈があるようだが、私は背面の顔を、過去を意味する顔でなく、不吉な《黒い太陽》とした。

 Digibookで知合になり、太陽の塔の写真を提供してくださった m1tomo09さん にお礼申します。


編集後記集