《波の伊八》の写真展とトークショー:伊八会代表の當間隆代さん
【メルマガIDN編集後記 第344号 160815】

 江戸時代の中期に、職人仲間では「関東に行ったら波を彫るな、彫ったら笑われる」と語られていたという。外房の荒海を象徴するかのような、《波》の浮き彫りを独得の作風とした《波の伊八》と称される初代武志伊八郎信由がいたからである。
 伊八は、波のみならず、龍の彫りも巧みで、安房・上総を中心に、神奈川、東京にまたがり、神社仏閣の向拝や欄間の彫刻などにすぐれた作品を多く残した。
 寺院の境内や欄間に置かれる龍は仏法を守護する八部衆の一つであり、自称龍楽者は伊八の龍の彫刻に興味を持ち、伊八の龍の存在を知ると、これまでに11か所のお寺を訪ね、鴨川郷土資料館、いすみ市郷土資料館、睦沢町立歴史民俗資料館で開催された伊八の企画展を見に行った。
 2002年に立ち上げた伊八ファンクラブ《伊八会》を主催した當間隆代さんが、写真展を開催、トークショーを行うことを知って、アートスペース・カフェパパ(京成大久保駅近く)へ行った。2016年7月29日に當間隆代さんにお目にかかり、トークショーのあと、親しくお話をする機会を得た。


トークショーの開催風景  壁面に写真が展示されている


當間隆代さん(伊八会代表)


當間隆代さんが、2015年12月1日に上梓した作品集


飯尾寺(千葉県長生郡長柄町)欄間の双龍
當間隆代さんは親子だと思うと言われていた
【撮影:生部】



妙法寺(東京都杉並区)の祖師堂の唐破風の軒先の飛龍【撮影:生部】


大山寺(千葉県鴨川市)の向拝の龍
飛龍(軒先)と地龍が配されている【撮影:生部】


波の伊八 初代武志伊八郎信由
<伊八の生涯>
 初代武志伊八郎信由は、1752年(宝暦2)に、安房の国長狭郡下打墨村(現在の千葉県鴨川市西条地区打墨)に生まれ、1824年(文政7)に没した宮彫師。伊八の名前は、初代から五代にわたり、およそ200年後の、昭和29年まで受け継がれた。
 伊八が18歳ころから70歳近くまでの50年間に手掛けた作品は、千葉県下だけでも50か所を超える寺社などで確認されている。

<伊八の彫刻の特徴>
 伊八は、房総南部をホームグランドにして、作品は江戸中央の様式にとらわれることなく、この地域の人々の求めに応じながら自分自身の裁量で自由に腕を振るった。伊八の作風は、自由でダイナミック、おおらかさとユーモアがあり、江戸期の長狭郡の《鴨川人》の気質、美意識をよく反映している。
 伊八が最も重視した点は、自分の作品を寺社の建築空間に結び付けるかということだった。伊八の作品には、見る人の視点からの距離や角度に対応した工夫が施されている。彼の作は建築空間に収められて初めて最大限の効果を発揮する。

 伊八の彫刻は薄い材(10cm)を用いていながら、実際以上(倍以上の奥行の空間)のボリューム感や立体感を感じさせる。それは、伊八が龍の鱗の大きさを変えるなど見る人の視点による遠近法的な表現を意識的に、巧みに使いこなしているからである。
 伊八は部材を分割して彫った後で接合して一体の彫刻として完成させる、人目に触れない部分(例えば裏面)は彫らないなど、時間や経費の節減にも気を配り、単なる彫師としての職人でないところもある。

當間隆代さんが代表を務める伊八会
 初代波の伊八ファンクラブ《伊八会》は、「房総半島を中心に活躍した江戸時代の彫工波の伊八の作品を鑑賞し、交流するために」2002年に設立された。伊八研究の第一人者、長谷川治一先生(元鴨川市長、2009年に逝去)の指導を仰ぎながら、千葉県内各地にある伊八の作品の年2回の鑑賞会のほか、勉強会や会報発行などの活動を続けてきた。《伊八会》は2012年に解散した。

伊八の作品集
 當間隆代さんを、2012年1月17日の朝日新聞で、写真集『波の伊八~武志伊八郎信由の世界~』が自費出版された記事を見て知った。當間隆代さんがこの写真集を自費や寄付金を投じたものであることが記されていた記事の切り抜きを保管していた。

 當間隆代さんが、2015年12月1日に上梓した作品集は、A4縦サイズ、76ページ、フルカラー、ソフトカバー、53の神社仏閣の作品を収録、写真総点数は316枚。撮影は、當間隆代さんの小学高時代からの友人であるプロのカメラマンである小田嶋信行氏
 當間隆代さんは、「正しい評価と共に、将来に引き継ぎたく、《初代 波の伊八写真集》として刊行いたしました」と言っている。

写真展・トークショー
 2016年7月号の『定年時代』で、波の伊八写真展が開催されること、写真展の会期中に2回のトークショーが開催されることを知った。7月29日に、写真展を見、當間隆代さんのトークショーを聞くために、アートスペース・カフェパパ(京成大久保駅近く)へ行った。

 「農民・庶民のためだけに彫り続けたため現在まで日の目を見ることなく房総半島の片隅忘れられていた。今保存しなければ朽ち果てるのは時間の問題です。一人でも多くの人に知ってもらい、正しい評価と共に、次の世代は継いで行きたいとの思いから《初代 波の伊八写真集》を製作しました」と写真集のチラシに書いてあり、トークショーでも同様の趣旨のことが述べられた。

 トークショーでは、伊八の生涯の概略についての説明があり、10年程前に長柄町の飯尾寺の欄間彫刻「双龍(當間さんは親子だと主張)」を見て伊八を知り、その後、いすみ市の行元寺の欄間彫刻《波に宝珠》に衝撃を受けたこと、伊八会を設立し、精力的に寺社を巡ったこと、寺社にある伊八の彫刻を見せてもらうことの困難なこと、これまでは有名でなかったために伊八の作品は粗末に扱われていることなど、1時間ほど當間さんの思いを聞いた。

エピローグ
 情報を得て、伊八の彫刻を見るためにドライブを兼ねて出かける。外部に面している向拝の彫刻は問題なく見ることが出来るが、欄間については困難な場合が多い。無人の寺社が多く、中に入れないので見ることができない。また、見学を断られることもある。見せてもらえるが、写真撮影を許してくれない、自社で準備してある絵葉書などを入手(有料)出来ても転載を許してくれない。
 このような理由で、実際に見た伊八の龍の彫刻を私のホームページ《龍の謂れとかたち》で紹介できないことが多い。同様のことを當間さんもおっしゃっていた。伊八の彫刻を見せてもらうための手続き、写真撮影の許可をもらうことにご苦労をされたことにより、写真集で紹介されている伊八の龍の数は多い。
【生部 圭助】

《龍の謂れとかたち》 波の伊八の特集

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