龍の謂れとかたち


謂れかたち

中華料理店《晩翠軒》のマッチのラベル

中華料理店 晩翠軒のあったところ
晩翠軒の存在については、たくさんの事例があり
ちわみさんのブログよりたくさんの情報を得た
しかし、実際にどこにあったか?いつまであったか?はわからなかった

(株)晩翠軒 貸ビルへ電話をして確かめたら親切に教えてくれた
現在の晩翠軒ビルのあるところで営業していた
表通りから一本はいたところ 住所は港区虎ノ門1-5-16
中華料理店が壊された時期はわからないが
現在の晩翠軒ビルが建てられたのは昭和48年9月とのこと


晩翠軒のマッチのラベル−1


晩翠軒のマッチのラベル−2


晩翠軒のマッチのラベル−3




晩翠軒のマッチのラベル−4



晩翠軒以外のマッチのラベル
謂れがわかったら独立します








厚田雄春キャメラマンの思い出
生家は、東京虎ノ門、今のみずほ銀行のあたりで、
隣が、夏目漱石一家が休日に来たり、森鴎外日記にもある、有名な中華料理店「晩翠軒」でした。
ワンパクで、裏の物干しから晩翠軒に忍び込み、お母さんに怒られたそうです。
【藤田加奈子さんのブログ『日用帳 2008年03月07日』】

寫奏一対、七紫三羊一対とは何のことか
この言葉「寫奏」がでてくる『最後のひと』(山本夏彦著 文芸春秋 1990)を確認すると、
「虎ノ門の晩翠軒」で購入したという記載がある。
「晩翠軒」をインターネットで検索してみると、書道関係の出版や販売をしている会社が現在も虎ノ門にあることが判明した
【山梨県立図書館のホームページ】

日本伝統工芸展沿革・昭和32年(1957年) 出来事
1月19日 第3回理事会を虎ノ門晩翠軒にて開催
・細川護立氏に会長の就任を要請し、高松宮殿下を総裁に推戴することについて、宮内省の宇佐美氏に依頼
・役員が一人当たり5万円ずつの醵金を提案し、目標を200万円とする
・「伝統」の解釈を学識経験者の意見を聴いて統一見解をまとめる必要がある
・友の会の発足と性格付けについて等
【社団法人日本工芸会のホームページ】
 
田中鹿川氏による貴重な記録
ある日、「虎ノ門の晩翠軒で番頭が要るから行け」と先生にいわれたので、そこで小僧生活にはいった。
【天来書院のホームページ】

ちわみさん(神奈川県在住)のブログ『森茉莉街道をゆく』
(森茉莉の作品に出てくるあれこれを調べるブログ)
今は営業していませんが有名な中華料理屋だったようで、港区史の琴平町の説明
「門前町の意味は失せたとはいえ、今なお晩翠軒をはじめとする著名料理店や大商店が多い」とあります

小堀杏奴『晩年の父』
或る時父は私に支那料理を食べに晩翠軒へ連れて行ってやろうかと言ったことがある。
妙な癖だが、その頃私は支那料理が大嫌で、(後略)

2004年09月08日 虎ノ門晩翠件と青山二郎(+白洲次郎のベントレー)
図書館で何気なくめくっていた『別冊太陽 青山二郎特集』にも晩翠軒。
青山二郎は昭和5年に晩翠軒社長の井上恒一から古い中国美術品の買い付けを依頼されたが、
時局柄中国へは行けず、翌年朝鮮で李朝陶器を買い集めることになった。
昭和7年に晩翠軒で行われた《李朝工芸品展覧会》を契機に李朝ブームが起こる。
こういうエピソードです。
晩翠軒は中華料理の他に中国雑貨を扱っていて更に骨董へと手を広げようとしていた所だったらしい
確かに晩翠軒で検索すると美術工芸関係のサイトがいくつか見つかります。

それから自分が読んでいて見つけた晩翠軒いくつか

内田百閧フ「華甲の宴」が行われたのが晩翠軒(福武文庫『まあだかい』より)。
百鬼園先生のファンサイト、鳩燕山房の内田百阨カ学館で年譜を見ると
昭和24年10月28日とあります。

吉田健一の「小休止」(講談社文芸文庫『三文紳士』より)は
「南佐久間町の名なしの店で、虎ノ門の晩翠軒で御馳走になる時間が
来るのを待ちながら、スウプやマカロニを店の主人に作らせる」話。

南佐久間町は、現在の西新橋1丁目交差点(外堀通りと愛宕通りの
交差点)で、住友信託銀行のある区画のあたりと思われます。
「澄ましのスウプに、ソオダ・クラッカアを浮かせたの」や
「牛の腎臓をただいためたのを、揚げパンの切れ端に載せて出す料理」
がおいしそうで食べてみたい。

今和次郎の『新版大東京案内〈上〉』の料理屋紹介の項でも
晩翠軒は中華料理店の筆頭で、図書館で書き写してきたメモによると

竜鳳腿(蝦、肉、鳥の団子揚げ)、枝糸山薬(山芋の飴アゲ)、
芙沈鳥(ヒナ鳥を白く柔らかにしたもの)等を独特の呼び物としてゐる
とあります(本では芙沈鳥の最後は入+鳥という字)。
【以上、ちわみさんのブログ『森茉莉街道をゆく』より】

マッチのラベルから大げさな話になりました

091207
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