謂れとかたち
寛永寺の根本中堂の天井絵 叡嶽双龍(東京・台東区上野公園)

東叡山寛永寺
根本中堂
天井絵《叡嶽双龍》
作者:手塚雄二
天井絵制作の経緯
松坂屋上野店での展示
NHK E:上野の山に龍が舞い降りた 日本画家 手束雄二 寛永寺天井絵に挑む

根本中堂
明治12年(1879)寛永寺の復興が認められ
現在地(旧子院大慈院跡)に川越喜多院より本地堂を移築
山内本地堂の用材も加えて、根本中堂として再建された
伝教大師作の本尊薬師如来や東山天皇御宸筆「瑠璃殿」の勅額は
戦争の中運び出され現在の根本中堂に安置されている


寛永寺根本中堂 入り口


寛永寺根本中堂 正面

天井絵《叡嶽双龍(えいがくそうりゅう)
《叡嶽双龍》は寛永寺の創建400周年記念の象徴事業として計画
根本中堂中陣(56畳)の天井に納められた
2025年9月に画龍天晴開眼法要が行われた
大きさ:12Mx6M
板の枚数:24枚

命名の由来
叡嶽とは寛永寺の山号である東叡山のことで、双龍はそこに顕現する二頭の龍

阿吽の天井絵《叡嶽双龍》
八方にらみの龍:何処から見ても視線が合う
川越喜多院の本地堂に使われていた天井板(約400年経過)に直接描いた
木目が見える
構図は逆三角形で、天から龍が降りてくる姿を表現
阿龍の手のひらにはラピスラズリで梵字
「ベイ」が書かれている
根本中堂本尊「薬師瑠璃光如来」を表し、衆生の願いを聞き点に昇る姿
梵字「ベイ」は、前貫首・浦井正明氏が書いた文字
吽龍は如意法輪を持ち衆生の願いを叶えるため宝珠を持って顕現した姿

  墨:300-400年前の墨を使った
白土:1300年前の甲原白土を使用した
墨と白土を層にして、白土が剥落しても下から墨絵の龍が現れる
金箔・金泥も使用されている

【写真は:寛永寺のホームページ「根本中堂天井絵「叡嶽双龍」特別公開のお知らせ」より】



根本中堂の天井絵《叡嶽双龍 手のひらに梵字


根本中堂の天井絵《叡嶽双龍》阿吽形  宝珠を持っている

作者紹介
手塚雄二(日本画家)
日本美術院の同人・東京芸術大学名誉教授・福井県立美術館特別館長
師:平山郁夫


天井絵制作の経緯
2020年: 発注、2021年より制作を開始し小下絵を完成
2021/12/06: 輪王殿で大下絵(紙に原寸大)を作成し天井に貼る
2022/04/11: 霊殿で板に描くことを始める
2024/2/14より: 日本橋三越本店・福井県立美術館・横浜そごう美術館・松坂屋上野店を巡回
2025/04/24: 筆輪灌天晴式 ラピスラズリで梵字「阿」(本尊を表す)を書く
2025/06/05: 天井に板を設置
2025/09/12: 画龍天晴開眼法要 龍の眼に仕上げの筆入れ(点睛)後に法要を実施

松坂屋上野店での展示
寛永寺の総本堂 根本中堂の天井絵、奉納前最後の一般公開!
『東叡山寛永寺創建四百周年記念事業 根本中堂天井絵「叡嶽双龍」展』
2025年1月22日(水)→1月28日(火)
松坂屋上野店 6階催事場


2分割して展示された


右半分 阿龍


左半分 吽龍


NHK E:上野の山に龍が舞い降りた 日本画家 手束雄二 寛永寺天井絵に挑む
2025年12月7日(12月14日に再放送)の「日曜美術館」で放送されました


番組のタイトル画面


天井絵《叡嶽双龍》を描いた手塚雄二画伯


阿龍の頭部のスケッ


小下絵をもとに原寸大の大下絵を紙に描いて天井に貼り、出来上がりを確認した


天井板 川越喜多院の本地堂に使われていた天井板(24枚 約400年経過)に直接描いた


板に直接龍を描く


300-400年前(明代)の墨を使った


墨絵の上に、1300年前の甲原白土を重ねる
墨と白土を層にして、白土が剥落しても下から墨絵の龍が現れる


板を天井に取り付ける


画龍天晴:龍の眼に仕上げの筆入れ(点睛)、開眼法要をおこなった



阿龍の手のひらには、ラピスラズリで梵字「ベイ」が書かれている
根本中堂本尊「薬師瑠璃光如来」を表し、衆生の願いを聞き天に昇る姿


梵字「ベイ」は、前貫首・浦井正明氏が書いた文字


吽龍は如意法輪を持ち、衆生の願いを叶えるため宝珠を持って顕現した姿


東叡山寛永寺
寛永寺は天台宗の別格大本山のお寺
寛永2(1625)年に、徳川幕府の安泰と万民の平安を祈願するため
江戸城の鬼門(東北)にあたる上野の台地に
徳川家光の命により天海大僧正(慈眼大師)によって建立された
比叡山延暦寺が、京都御所の鬼門に位置し、朝廷の安穏を祈る鎮護国家の道場であったことにならったもの
山号は東の比叡山という意味で東叡山とされた
東叡山主を皇室から迎えた(輪王寺宮)ことで、江戸時代には格式と規模において我が国随一の大寺院となった

以下に示す3枚の写真は、NHKEの「日曜美術館 2025年12月7日」で放送された
「上野の山に龍が舞い降りた 日本画家 手束雄二寛永寺天井絵に挑む」よりお借りしました
映像は、TOPPAN 令和7年度 日本博2.0事業(委託型)より提供されたものです


寛永寺 鳥瞰

現在の上野公園の中央部分、噴水広場にあたる竹の台には、
間口45m、 奥行42m、高さ32mという壮大な根本中堂が建立され
本寺(現東京国立博物館)には、小堀遠州による名園が作庭された
清水観音堂、不忍池辯天堂、 五重塔、開山堂、大仏殿などの伽藍が競い立ち
子院も各大名の寄進により三十六坊を数えた


寛永寺 根本中堂入り口


寛永寺 根本中堂 正面

後には第四代将軍・德川家綱公の霊廟が造営され、将軍家の菩提寺も兼ねるようになった
格式、規模において我国最大級の寺院としてその偉容を誇った
幕末の戊辰戦争では、境内地に彰義隊がたてこもって戦場と化し、
全山の伽藍の大部分が灰燼に帰してしまった

明治18年(1885)には、輪王寺門跡の門室号が下賜され
天台宗の高僧を輪王寺門跡門主として寛永寺に迎え再出発
関東大震災や太平洋戦争の被害もあった
戦後は新たに霊園を造営し一般の檀家を受け入れるなど
開かれたお寺としての役割を果たすことを目指している
寛永寺は来る創建400周年(2025年)に向けて、上野に刻まれた歴史の重みを今に伝えている


現在の根本中堂 正面

251214
上野で出会った龍と仲間たち
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